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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第六楽章
23/25

木賊(とくさ)

──玲彰様より急ぎ戻るようにとのご指示が出ています。


 そう馬丁に告げられても、香月は荒らされた邸の事ばかり気になって咄嗟には判断は付けられなかった。


「いずれにせよ、一旦は馬車にお戻りを」


 促されて小走りに大路を取って返す道すがら、息を切らせつつも口を開く。


「鷹信様は?」

「王宮にて公務の最中でございました。今は使者も到着しているでしょう」


 王宮から倉嶋邸までは馬車で四半刻もあれば着くという。邸の主が、しかも鷹信がいれば大抵の事は問題ない。逸る心がいくらか鎮まった。


「そ……そう、だったら研医殿に行ってもらえるかしら。邸はあちらの状況を確認してから帰ります」

「かしこまりました」


 舜橙がいなくなった、その事実は一体何の意味があるのか。

 小刻みに揺れる車内で必死に冷静になろうと努める。そもそも自分の受け持ちでもない患者の事で何故、こうも動揺するのか──さっきから胸騒ぎがして仕方がないのはどういうわけなのかと。

 研医殿内で密かに起きている事件。玲彰からの命令に始まって、彼の謎めいた反応、自身の記憶の断片。

 そして周布局長の態度。

 これらは単に偶発して起こったものなのか、それとも。


「局長! 大変です!!」


 永遠に続くかと思われた道のりをようやく研医殿に戻りつくと、四階は明らかに混乱状態にあった。

 廊下には色とりどりの術着を着た局員達が慌しく走り回り、報告し合う声が飛び交い喧騒に包まれている。言葉の断片を聞き取るに、どうやらまだ舜橙は見つかっていないらしい。


「斎条さん」


 薬処方局の扉前で出迎えたのは斎条一人だった。


「聞きました。舜橙さんがいなくなったそうですね」

「はい、局長が外出されていからしばらくして姉小路局長から連絡があったのです。施術局の方々は患者さんがいるので全員が席を外すわけにも行きませんから、うちの局員が僕以外探しに出払っています」


 言われて扉の向こうを覗こうとしたが、強い力で──乱暴ではないにせよ──腕を掴まれて引き戻された。


「さ……」

「今は舜橙さんを探すのが先です。さあ行きましょう!」

「ちょっと待ってください。探すと言っても、どこを」


 香月の腕を引いたまま、廊下を走る彼が向かう先は昇降機だった。


「四階はもう探し尽くしました。後は他の階を探しましょう。あの身体ではそう遠くには行けないだろうし、手始めに三階を探している副局長に経過を聞きに行きます」

「で、でも」


 後ろを振り返って逡巡する彼女に、斎条は安堵させるように微笑んだ。


「大丈夫です。鍵は閉めて来ましたのでご安心を」


 金属が擦れあう音がした。かざされた自由な方の左手には、鍵の束が納まっている。


「それは、調合室にあったものですか?」

「ええ。副局長も局長も今は所持されていますよね」


 頷いて、いつの間にか彼の右手が自分の腕ではなく手を握っている事に香月は気づいた。


──それでも本当に、無人にしていて大丈夫なのだろうか。


 もし“奏”が麻珍を狙い続けているのであれば、今ほどの好機はない──否、鍵が手に入らないのだから──

 考えがまとまらない内に昇降機は三階へと到着した。


「仙丸副局長!」


 斎条の呼びかけに、仄音局の前にいた仙丸はこちらを振り返った。一瞬だけ香月と視線が絡む。だが彼が話しかけたのは別の人物だった。


「駄目だ、この階にも見当たらない」

「二階はまだですか?」

「人を何人か割いているが、こちらが終わり次第移動する。各階に人を残しているからどのみちあちらは不足気味だ」

「では僕達は先に二階を探しに向かいます」


 仙丸の眉がぴくりと跳ねて、どこか不快げな表情を見せた。


「……いいだろう。すぐに私も降りる」


 昇降機に再び戻る途中で「ご気分を害されたかな」と斎条が苦笑したので、香月は不思議に思った。


「副局長ですか? でもあの方はいつもあんな風ではありませんか」


 機械はまだ三階で停止していた。他の階はまだ捜索を続けているのだろう、使われている形跡がない。

 乗り込みながら、斎条は含みを持たせた一瞥を上司にくれる。


「ご存知ないかもしれませんが、副局長は普段部下には公明正大な人なのですよ」


 続く言葉を待ったが、彼はそれきり何も言わない。


「それってもしかして──」


 あまり心楽しくない答えを予期して眉をひそめた時、昇降機が二階に到着して香月の問いかけは封印された。


「僕は右から回ります。局長は左からお願いします」

「あ、斎条さん!」


 先ほどまでの会話などまるでなかったかの様に、彼はさっさと駆け出して行ってしまった。

 二階は仙丸の言う通り、明らかに人少なだった。

 禾管局がある場所であると同時に、農耕や鉱工業に関する研究を行っている場所でもあるこの階は、局に拠って見事に産業色の濃い内装をしている。禾管局の隣の工官こうかん局は器を装飾する紋様や金銀鉱石の細工を象った扉、更にその隣の工役こうえき局は木石材の組み合わせで出来た彫刻がそれに施されている、といった風に。

 そして昇降機の扉は正面玄関を縦とすると左右両方に対で開く様になっており、今二人が降りた方向は向かって右側。つまり右回りだと禾管局、左回りだと工官とは反対隣の六畜りっきゅう局があった。

 試験場が中にあるせいか、六畜の前廊下はどこか生臭い空気が漂っている。隣と違い、装飾のない落ち着いた色彩の局だった。片袖で鼻を押さえつつも扉に対峙し、脇の呼出鈴を鳴らす。


『はい』


 ほどなくして鈴の上部の小さな格子窓越しに、まろやかな女性の声で応答があった。


「薬処方局の嵯峨と申します。業務を妨げて申し訳ありませんが、こちらで患者風体の老人を見かけませんでしたか」


 返答がすぐに返って来ない。待っていると扉自体が開いて、中から白い術着姿の年配の女性が現れた。


「先ほど玲彰様より伝令がありましたので、こちらでも探しております。しかし局内には万一忍び込んだとしても、病人の隠れられる様な死角はないのです。ご覧になりますか?」


 彼女が引き扉を大きく開け、中が見えるよう脇に除けるとそれまで仄かだった獣の匂いが一層強く流れ込んで来る。

 それもそのはず、局内が各特長に拠って間取りに違いがあるのはわかっていたが、ここは他とは全く造りを異にしていた。間仕切りこそあるものの、総てが木の柵で出来ているというのも例を見ない。そしてあちこちから聞こえる、禽獣達の鳴き声、身を震わせ足を鳴らす音。騒々しい事この上ない。倉嶋邸などで馬丁がよく車を持ってくる、厩舎に非常によく似ている。違うのはすぐ脇がが石造りの廊下になっているところか。


「ね? この子達は知らない人間に敏感なの。来たらどんな機械よりも大騒ぎして教えてくれるますよ」

「……あの、突き当たりの部屋は実験室ですか」

「ええ。私や他の局員がずっと詰めているけど、一応中を点検します?」

「はい」


 女性はかすかに苦笑を浮かべて、香月を中に入れ扉に鍵を掛けた。

 廊下は局の端を真っ直ぐ伸びていて、突き当たりに象牙色の簡素な扉がある。しかしそこまでは歩いてしばしの時間を費やす程の長さ、闖入者に騒ぐ家畜達で局内は騒然となった。確かにこれは如何に舜橙が猛禽を手馴づける事が出来たとしても、隅に隠れるのは難しい。奥の壁がこちらからでも見えるのだ。

 ようやく実験室に辿り着くと、女性は手の甲で二度ほど叩いてから扉を開いた。


「皆、ちょっといいかしら」


 彼女の声に、室内にいた数人の局員が即座にこちらに視線を向けた。


「こちらは薬処方局の嵯峨局長です。つい四半刻前、施術局の患者が一人、殿内で迷ってしまったらしいとの情報がありました。誰かその時間帯に不審なものや人を見かけていない?」


 香月の目を引いたのは、覚束なげな局員達の顔ではなかった。実験室とは聞いていたが、六畜局は場所が足りないのか局員が詰める場所にさえも壁にみっしりと籠が並んで、厩舎には入れられないであろう鶏や猪、いぬなどが込められてこちらを伺っている。鳴けばさぞかし騒々しいはずなのに、低く唸る狗を除けばいっそ不気味な程に静かにただ、黒目で凝視してくるばかりだった。

 傍らの女性が香月の驚きを察したのか「普段は間に間仕切りが入って鳴き声を遮るの」と注釈した。確かにそれぐらいの空間、壁際にも折畳まれた屏風状の板がある。


「私達は見ていませんが、気になった事なら」


 局員の一人が、籠の一つを見ながら怪訝そうに言う。中にいる鶏達が奇妙に落ち着かなかった、と。


「ちょうど四半刻前ころだと思います。いきなりけたたましく騒ぎ出して、おかしいなとは思っていました」

「そんな事、あったかしら?」

「局長は玲彰様の下においででした。それに疑問に思ってもすぐに止んでしまったので、ご報告申し上げておりませんでした。済みません」


 軽く頭を下げる局員を女性は軽く払った。

 ああやはり局長だったのか、と香月は己の印象にないのをもどかしく思ったが、他の局長についても似たようなものなので仕方がないのかもしれない。理不尽な攻撃でもされない限り。


「いいのよそれは。ところで、鶏の様子はそれだけ? 騒いだ原因はわからず終い?」

「いえ、恐らくですが──窓の外の鳥達に反応したのではないかと」


 香月は思わず窓を見た。春にしては陰鬱な灰色の空ではあるものの、静かに広がり風音も聞こえない。

 だが──何か遠くで聞こえた気がした。とても不愉快な、幽かな音が。


「鳥達は西から、つまり左の方からやって来て右に向かって飛んでいった様です。群れの中心にとても大きな鳥がいて」


 香月が歩いた逆の方向へと。あちらには何がある?


──禾管局だ。


 そう気づいた瞬間、頭の中が真っ白になった。


「わかりました、ありがとうございます!」

「嵯峨局長!? お待ちなさい、鍵を今解除しなければ」


 無我夢中で走り出した香月を、局長と呼ばれた女性が追いすがる。


「何があったのか知りませんが、落ち着いて」


 肩に置かれた手にびくり、と彼女は身を弾いた。

 扉を開けて貰うまでの時間が、どれだけに長く感じられた事か。

 目の前の壁が取り除かれると同時に、香月は礼もそこそこに飛び出して行った。


※※※※


「周布局長!!」


 禾管局の扉の前に立った時、香月は嫌な予感が的中したと確信した。

 ここはいつも来る度に、人の気配が感じられない場所だった。それが単に人払いをしていたのだという事が証明されている。扉付近の廊下に呆然と立ち尽くす局員の術着が、周布のものと同じ色をしていた。

 そしてここから見える、どの扉も開けられたままだ。


──斎条さんは。


 所在なく佇むくせに、決して植物園へ続くその白い部屋に入ろうとしない。彼らの中に、金の巻毛を探したが見当たらなかった。

 ざわめく会話の端々が断片的に聞こえてくる。


「……いつ入って来たんだ……」

「あれほど……神経質になっておられたのに……」

「だとしても今更……一体……何の目的で」

「すみません、通して下さい!」


 声を張り上げると、局員達は明らかに狼狽して道を譲った。飛びのいたと言ってもいい。


「周布局長──」


 中にいる筈の人物を探そうとして、その眼差しが凍り付く。

 周布は白い部屋の真ん中の、いつもと同じく置かれた椅子に座っていた。ただいつもと決定的に違うのは、卓にうつ伏せているのは決して疲労からのいつもの転寝などではないとひと目でわかる所だった。その事実だけで部屋の時間そのものが止まって見える。いっそ現実味に欠けた空間の中で、床に転がって中身を零している桂皮茶の存在だけがひどく目を引いた。

 思わず飛び出そうとして、背後から身体を拘束された。


「駄目です。もう少ししたら刑吏府の役人が来ます」


 聞き覚えのある声が耳朶じだを打つ。腕を腹部に回されたせいで、当の持ち主の顔を見るのに首をねじらなくてはいけなかった。


「斎条さん……」

「周布局長はもう助かりません」

「でも! まだもしかしたら」

「僕がここを訪ねた時、もう彼は亡くなっていました。人払いをしていただけに、発見が遅れたのでしょう。──明らかに、麻珍の中毒症状です」


 膝の力が一気に抜けた。斎条に支えてもらわなければ、とっくに床に転倒していただろう。


“麻珍を手に入れて、奴等は一体何がしたいのか”


 玲彰の言葉がつくづく思い起こされる。これが彼らの意趣返しなのか?

 周布の怯懦は幻影ではなかった。恐らくあの時既に刺客が脅迫めいた働きかけをしていたのだろう。──裏切り者をより苦しめる為に。鉄槌が下された今、植物達を管理出来る者は誰もいない。


──植物。


 虚ろに床を見つめる双眸に意思の光が戻る。顔を上げて、再び後ろを振り返った。


「斎条さん、あの後ろの植物園は? 貴方はあちらに入りましたか!?」


 未だ上司を抱えた状態の斎条は、その剣幕に目を瞠った。


「いえ、あちらは手付かずですが、どう──」


 答えを最後まで聞かずに、緩んだ腕の隙間から身を落として抜けると、今度こそ香月は室内に駆け出した。


「局長!! 駄目ですって!」


 無視して奥の扉に手を掛ける。扉の鍵は開いていて、捻ると造作なく中に入れた。


──麻珍の亜種木は、最奥にある。


 講義の間に、周布はそう仄めかしていたと思う。一生分を使い果たすのではないかと思える程の全力疾走で、香月はその場所を目指した。


「……ああ……」


 やはりそうだったのだ。

 一転して気力が奪われるのを感じた。あるべきものがあるべき場所にない、その欠落感がひどく空間を歪ませている。


「何故──今になって……」


 根こそぎ抜かれたとわかる、剥き出しの土穴。

 呆然と眺めた香月の呟きは、通路の向こうから近づいてくる、複数の足音にかき消された。


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