表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
禄遒の奏  作者: 伯修佳
第六楽章
22/25

朱華(はねず)

「何という事をしてくれたのです!」


 悲鳴にも似た声に、室内にいた局員達がこちらを振り返った。

 ただでさえ声自体滅多に聞けない人物が、激情を押さえ切れず部下に詰め寄っている──折しも今日はほぼ全員が休みではない。勢揃いしている調合室の忙しげな空気が、一瞬にして鎮まり返った。


「きょ、局長。ここでは他のかたがたの仕事の邪魔になりますから。別の場所で話をしましょう」


 周りの者達ほど詰め寄られた当の斎条は驚いていなかった。静かに立ち上がり、香月の肩に手を掛け廊下へと促す。


「待て斎条。何かあったのか?」


 背後から飛んできた鋭い声に、初めて眉根を寄せたものの苦笑を浮かべて振り返る。


「ええまあ、ちょっとした行き違いがありまして……」


 自らの席からこちらを睨み付けていた仙丸は、一瞬だけ己が上司の顔を見て──すぐさま視線を伏せた。

 代わりに立ち上がる。


「局長室で話を聞こうか。構わないでしょう、局長?」


 先ほど浮かんだ、躊躇いにも似た表情は彼の面から消えていた。いつも彼女を見るものと同じ、冷ややかな空気を纏う。


「……それは」


 返答に窮する香月を見て、仙丸の眉間の皺が一層深まった。


「薬処方局に関わる事なのでしょう。私にも同席する義務があります。さあ、早く」


 彼は乱暴に斎条の背を押しやり、扉を開けさせる。次いで傍らに手を伸ばそうとして──

 その手を下ろした。


「……廊下に出てください」


 先立って外に出て、戸を開けたまま先にと歩いてゆく。

 彼の微妙な変化に、怒りと焦燥に我を忘れた香月はこの時全く気付いていなかった。


「斎条」


 局長室に入り扉の鍵を閉め、口火を切ったのは仙丸だった。まるでこの場を仕切るのが当然かの様に。


「……わかりましたよ。お話します」


 悪戯を見付かった子供の顔で、斎条は河西に与える薬を勝手に変えた事を白状した。


「この間局長が発見したものを分離させる事が出来ましたので、色んな献体を使って実験してみたのです。結果、最初は発熱するなど拒絶に近い反応は出ましたが、その後病原に有効に作用するとわかりました」

「有効に……って。一体どうやってそんな結果を」


 香月が彼に『失敗作』を渡してから九日。確かに幾らか時は経っているが、そう考えて彼女は愕然とした。


「斎条さん、貴方何で実験をされたのですか」

「ご想像の通りだと思いますよ。あの街で瘍頭に苦しむ遊女はご友人だけではないという事です。ああ勿論“きちんと”話をして、協力してもらいました。ただでさえ治療を受けられるお金もない様なかたがたでしたからね」


 顔色を変え絶句している上司を見て、邪気のない愛くるしい顔を少しだけ寂しげに歪める。


「そんな目で見ないで下さいよ。これでも成果が上がったから河西さん、でしたっけ──あの人には最後にしようって思っていたんです。投与した人の中に亡くなった方はいませんよ。誓って本当です」

「しかし斎条。まだ十日にも満たないではないか。確実性に乏しいな。これからの経過を見ていかないと、上にもご報告出来ぬ」


 仙丸の声音に香月ほどの緊迫感も非難も全くない。ただ心底結果を危ぶんでいる風に見えた。


「……副局長は、斎条さんのやり方に反対ではないのですか」


 乾ききった喉から出た、香月の声が掠れる。彼女の知る副局長は、正論好きだったはずだ。人道的禁忌、そう怒るとばかり思っていたのに。


いささか制度的に問題ではありますがね。結果として治療薬が出来れば私個人は問題としません。失敗すれば査問に掛けるが──お前もそのぐらいの覚悟は出来ているんだろう?」


 冷静ながらもどこか挑み口調な仙丸に、斎条もまた苦笑した。


「ええまあ」

「局長はむしろ、彼に感謝すべきかもしれませんよ。貴方に汚い仕事は出来ないでしょうから。そうではありませんか?」


 唇を噛み締め、香月は仙丸を精一杯の憎しみを込めて睨み付ける。皮肉げに笑って彼は「とりあえず熱が下がれば快方に向かう、という彼に賭けてみてはどうでしょうかね。瘍頭は完治出来ない、という概念を覆してくれるかもしれない」と付け加えた。

 室内は静まり返った。怒り、困惑、不安。それらがない混ざって、部屋の主の後悔を侵食していく。何に対しての後悔なのか、今となっては香月自身にもよくわからなかった。


「──熱は、いつ頃まで続くのですか」


 どれぐらい経ったものか、張り付いた唇を無理やりこじ開けて言葉を発した。

 斎条は目を見開く。


「そうですね、長くて二日でしょうか。微熱がほとんどで、高熱であっても一時的なものになるはずです」

「わかり……ました。……持ち場に戻られて結構です」


 言うなり二人が出て行くのも見送らず、香月は机上の登記装置に手を伸ばした。鈍い音を立てて扉が閉まる音がする。


──闇の深淵は、殊の外甘美な姿をして傍らに現れる。


 玲彰の言葉が蘇る。

 何でもいい。河西が助かってくれるのなら。

 禾管局に向かう連絡を打ち込んで、香月は局長室を後にした。


※※※※


「いけません」


 にべもなく断られ、返答に詰まった彼女の目の前で周布はこの上なく渋い顔をしていた。気のせいか、心なしか顔色も悪い。

 もうすっかり馴染みになった白い部屋で、向かい合わせの椅子に座ったまま慌しく乱入して来た訪問客を静かな眼差しで見上げる。


「しかし、このままでは患者が助からないかもしれないのです」

「宜しいですか、まあ座りなさい──麻珍の亜種は確かに霊薬です。しかし嵯峨局長の言われる薬──と申し上げて良いかわかりかねますが──がどういったものかわからない現時点では、危険の方が大きい。霊薬即ち効能の大なるをして、劇薬と為す。効き目の強い薬は毒にもなると、局長ならばおわかりでしょう」


 それに麻珍の亜種を用いるには局長会議で承認を貰わなくてはならない、彼は言って立ち上がり背後にある収納匣のうちの左側の引き出しを開け、ぶ厚い紙の冊子を取り出す。


「霊薬を管理するのは禾管局の範疇を超えているのです。他にもっと食物に近い安全な亜種が多々存在するのだから、そちらを用いては如何かな」


 手早く紙をめくり出す周布に感情の行き場を遮られて、香月は力なく向かい側のもう一つの椅子に腰を下ろした。


「──には収録数で劣りますが、この本も中々豊富な内容となっておりますよ。と申しても私が書いたものなのでして……」

「今、何と申されました」

「は? この本は私が書いたもので、でしょうか」

「いえ違います。その前、一番最初です。何に収録数が劣ると」


 ああ、と周布は頷いた。


「《げんきゅうてん》の事ですか?」

「は、はい!」


 香月は首が痛むのではないかという程に頭を縦に振った。


「どういった字を書くのですか」

「げんきゅうてん、は『験疚典』と書き表します。病を試した、という意味ですね。あれは古い文献ですが、だけあって非常に昔から伝わる薬草が載っていて、今もしあれば充分に我々の指標となってくれたでしょうな。残念ながら現在は行方知れずとなっております」


 途切れた断片の一つが音を立ててあるべき所に嵌まった気がして、彼女の背筋を悪寒に似たものが駆け抜けていく。

 考えてみれば、舜橙の言葉は鷹信にしか報告していない。鷹信が玲彰に言ったかもしれないが、彼女からも鷹信からもその後特に何も言ってきてはいなかった。


「あの、それは玲彰様もご存知ですよね……勿論」

「当然です。以前は験疚典は王宮の宝物庫に収められていまして、五十年ほど前に盗み出されたのです。これは前殿主のい──箕浦候もご存知ですから、玲彰様がご存じない筈がありません」


 恐らくは『磴候』と言おうとして訂正したのだろう。だが周布の言い淀みに注意を払うどころではなかった。


──鷹信様から伝わっていないのだろうか。ああ、それより。


 王宮にあったという幻の書物。そして数年前まで同じ宝物庫にあったであろう琴『香月』

──彼らが琴を探しに来たのが事実であるなら──

 験疚典の何らかの秘密を、あの琴が握っているのではないか。

 ふと香月は、目の前の人物がやけに青白い顔をしているのに気づいた。


「周布局長、何処かお体の具合でも悪いのですか」


 ここ数日彼の不審な行動はなりを潜めていたのだが、来客を強い口調で断った時を思わせる顔色の悪さだ。


「気にしないでくれ。ここの所あまり良く眠れなくてね。それだけなんだ」


 それからは河西に与える食物の打ち合わせに終始し、動揺を押し隠しつつも香月は何とか会話に集中し幾つかの成果を持って帰る事となった。

 周布の浮かない様子は変わらず、去り際に「舜橙という患者はずいぶんと快復していっているそうだね」とかつてない質問を投げかけ、彼女を驚かせた。


「そうらしいです。少しですが、立って歩けそうな場面もあったと聞きました」


 患者について彼が触れたのは初めてだったのだ。


「でもどなたからお聞きになったのですか?」

「いや、局長達の噂だよ。玲彰様もずいぶんと注目なさっているし」


 普段他の局長達とは関わらないと聞いていた様な気もするが、皆無ではないのだろうとその時さして香月は気に留めなかった。何より周布自身に、慌てたり狼狽する様子が見られなかったからでもある。

 ただ何処か、諦めた様に笑う寂しげな笑みが多少気になった。

 腑に落ちないものを感じつつも局長室に戻り、渡された食物を煎じて粥を作る。

 使者からの報告は受けていないが、今は待っている場合ではないと皐乃街に出かけた。

 未だ昼すら迎えていない、最近ではすっかり馴染みの時間帯である。違うのは切見世に通常決して寄り付かぬ大籬おおまがきの部屋遊女が、朱襦袢に単を羽織っただけの姿で駆けつけている事だった。反対側には祥もいる。同室だった女は例に拠って奥の壁際に座って忌々しげにこちらを盗み見ていた。


「浅尾ちゃん──」

「帰ってください」


 かつてない険悪な表情でこちらを睨み付けている。不信感を露にして立ちふさがる、浅尾を宥めすかすのにはひどく労力を要した。


「今度は何を持ってきたんです? また姐さんをお医者の学問とやらに利用するんですか?」

「ち、違うの。今日は河西姐さんに食べてもらおうと思って、食事を持ってきたの」


 床に伏したままの当の河西はまだ熱が下がっていないのか、身じろぎもしない。蓋をした椀を掲げ持つ香月が畳に足を踏み入れようとすると、布団の脇にいた浅尾が手を振り上げた。


「こんなもの! 一体何が入っているかわかりゃしないじゃないですかっ」


 下ろした手が勢いを付けて椀を弾き飛ばすのではないかと思われたその時、声がした。


「おやめ……あ、さお……」

「姐さん……」


 振り返った浅尾も香月も仰天した。河西が肉の薄くなった上半身を起こそうとしている。

 咄嗟に二人とも経緯を忘れて駆け寄った。


「駄目! 無理しないでくださいっ。まだ熱があるんですから」

「いいん……だ、よ。あさ……あたしは……こう、げつちゃんの、役に……立つんだろ……?」


 息も絶え絶えに小さな声を、紡ぐ唇は色もなくひび割れている。


「あたし……、ほんと……はじぶ……のからだなんて……んだ。でも……死ぬ……にこのからだが、だれかの……やくにたつのなら、すこし……はいき……かいも……あ……る」

「何言っているの! いい加減にしてよ!」


 浅尾の瞳から涙が零れた。いつも明るく振舞っていた彼女の、悲痛な声に禿でさえも目を剥いている。


「どうして姐さんはいつもそうやって決めてしまうの!? 香月姐さんの為に自分を犠牲にして、自分はそれで満足かもしれない。でも、姐さんがいなくなった後あたし達はどうすればいいの? 一生それを悔やんで生きていくのは姐さんだけじゃない。ものわかりがいいんじゃない。ただの勝手よ、勝手過ぎるわ!」


 あたしだって、祥だってみんな、河西姐さんを助けたいのに。生きるよすががないなら、誰にも助ける事なんて出来ない──

 そう言って浅尾は怒った。


「ち……がう……ごめ……んね……」


 緩やかに、伸ばされたか細い左手がかつての妹遊女の頬を撫で、滴り落ちる涙を拭った。


「あたし……こうげつ……ちゃ……、ほんき……て、しんじてる……」


 その手が香月の持つ椀を指差す。

 自分を助けようとしているのを信じている──と。


「みんな、も……から、食べる……よ……」


 浅尾は顔を歪めた。悔しさと悲しみ、または呆れても見える複雑な表情を必死で堪えているかの様に。


「……なら、最初からそう言えばいいじゃありませんか……っ!」


 すっかり冷たくなってしまった椀をねめつけて、彼女は後ろに後じさった。


「浅尾ちゃん……」

「あたしは謝りません。姐さんが本当に快復する時まで、土下座は取っておきます」


 込み上げて来る涙を堪えて香月は匙を使って粥を掬い取り、河西の口元に少しずつ運び入れた。

 額に手を当てると、思ったよりも熱は高くなく安堵する。当初より斎条を信じてみようという気になった。


「今の薬に不信もあるだろうけど、このまま続けてもらえたら──」


 彼女がそう周囲に説明しようとした時、大路の方から慌しく足音がして、門の所に待たせていたはずの馬丁が現れた。


「香月お嬢様、申し訳ありませんがすぐにお戻りを」

「どうしたの……?」


 鷹信が付けてくれた馬丁は配慮も行き届いており、滅多な事では主人の行動に口を挟まないはずだった。嫌な予感が脳裏をかすめる。


「ただ今研医殿から火急の報せが参りました。施術殿から舜橙なる患者がいなくなり、殿内が混乱していると。更に」


 倉嶋候邸の香月様の部屋に何者かが侵入し、部屋を荒らした模様です──

 緊迫した口調に、彼女は頭を殴られた様な衝撃を受けた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ