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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第六楽章
21/25

墨染(すみぞめ)

 その日は五日ぶりに休日となり、朝いつもの様に鷹信と差し向かいで食事を摂った後、香月は持ち帰った薬草の書物などを読んで昼までを過ごした。周布の不審な行動を目にしてから優に八日の時が経っていた。

 舜橙の治療は効を奏しているらしく、経過は遅緩ちかんではあるが概ね良好だと報告を受けた。決めた通りに香月は彼には会わず、周布と打ち合わせをして亜種の把握に努めるにとどまっている。

 彼についてはそれでいい。気がかりなのはもう一方の患者の方だ。


──皐乃街に行って、河西姐さんの様子を見て来ようか。


 鷹信が遣わした者からの報告に拠れば、元の治療薬に戻した後は一進一退を繰り返しているという。


──行くなら、昼の顔見世が終わる頃の方が人目に付かないだろう。


 顔見世が終わる夕四刻までにはまだ時がある。香月は書物を読み進めた。


「お休みの日でも勉学でございますか」


 茶の入った器を差し出して、苑寿は呆れて見せる。

 礼を言ってからふと気づいて、香月は振り返った。


「ねえ、苑寿。私が皐乃街に連れて行かれた時の事、覚えてる?」


 老婆の面に苦悶の表情が浮かんだ。


「……あれは忘れようと思っても、おいそれと忘れられるものではありません」

「ごめんなさい、辛い事を思い出させる様だけど。出来たら詳しく教えてもらえないかしら」

「何故、今になってその様な」

「必要なの。父上の死の謎がそこにあるかもしれないのよ」


 父の、と口に出すと彼女も渋々ではあったが、記憶の引き出しをあちこち開ける様に話し始めた。香月が人買いを生業にする『女衒ぜげん』に売られてしまった後、屋敷もいつの間にか玄達の従兄に当たる夸道こどうに奪われてしまった事。住処すみかを失くし嘆く暇もなく、苑寿達使用人もまた、散り散りに売り飛ばされてしまった事。


「再会してすぐに、一度お話させて頂いているではありませんか」

「ええ、そうね……屋敷が従叔父おじ様に渡る前の事が知りたかったのだけど……もしかして、私一度屋敷に戻っていないかと思って」


 まさか、と苑寿は目を丸くして驚いて見せた。


「もしそんな事があれば、妾が覚えていないはずがありません。お見かけしてはおりませんよ」

「そうよね……」


 しかしむしろ、苑寿が覚えていないという事は、無人の屋敷を彷徨う記憶を裏付けるものでもある。


「あの屋敷は今、どうなっているのかしら」

「夸道めは搾取するだけしておきながら、使用するでもなく荒れるに任せているそうです。余人の立ち入りを禁じ、倉嶋候が買い取りを申し出たのすら拒否したとか。昔から何かと旦那様と対立してはおりましたが、単なる意趣返しにしても卑怯な遣り方ではありませんか!」


──無人という事は、侵入者も入りやすかったのではないか。


 屋敷についての問題は今は置いておくとして、香月は自らの悪夢が現実の記憶だったに違いないという確信を強くした。


「ありがとう、苑寿。よく話してくれたわね」


 眼を潤ませ、懐紙で鼻を押さえ始めた乳母の背を撫でると、幾分落ち着いたらしかった。


「いえ……妾こそ申し訳ありません。取り乱してしまって」

「三刻になったら皐乃街に出かけるから、それまで貴方も退がっていて構わないわ」


 苑寿が部屋を出て行った後、香月は書物を卓の上に置いたまま、片隅に立てかけてあった琴を引き寄せた。

 指を滑らせ、おもむろに楽を奏で始める。様々な思索に耽りながら。


──母は今もどこかで、生きているのだろうか。


 舜橙の言葉を確かめたわけではない。あれから彼の病室には行っていないし、行ってはいけない気がしていた。

 会いたくないといえば嘘になるが、禎祥の面影を彼女は知らない。せめて相伝の曲でもあれば、謎の手がかりになろうものを──残念ながら、楽譜遊び以外は全て師匠から学んだものだ。

 それとも、と彼女はふと手を止める。

 師匠に聞けば何か教えてくれるだろうか──


「おや、止めてしまったのか」


 残念そうな声が廊下から聞こえて、驚いて見上げると鷹信が立っていた。


「せっかく琴の音が聞こえると真っ直ぐやって来たのに」

「今日は王宮で会議ではなかったのですか?」


 彼は破顔した。


「ああ。会議が予想以上に早く終わったのでな。たまには明るい内に屋敷に帰ろうと思って」


 確かにいつもなら王宮での仕事の後でも、領地での責務をこなして宵八刻ぐらいまで彼は帰宅しない。自分の休みが重なる偶然など、滅多にあるものではなかった。


「邪魔でなければ、続きを待ってもいいかな」

「そんな。邪魔だなんてとんでもありません」


 慌てて香月は弾いていた曲を再び演奏し始めた。

 ひとしきり楽の音を披露した後、「実はお話したい事がありまして」と口火を切る。

 ここ数日で気づいた事を報告した。先ほどの苑寿との会話も含めて。


「……確かに妙だが、確かめるのは難しかろう。女衒の名前など、手がかりになりそうなものは?」

「いえ……あの時はいきなり現れて、有無を言わさず荷車に押し込まれました。目隠しをされた事までは覚えていますが、その後は」


 鷹信の疑問も尤もで、女衒は住居を定めない流れ者が多い。しかも逃げ帰れない様、猿轡さるぐつわに目隠しをして目的地に連れて行かれた為、男であっただろうという声の記憶がうっすらとあるだけで、顔を見覚える機会はなかった。


「皐乃街は一度入ると、抜け出るのは至難の業と聞く。戻れるとすれば街に入るまでの間しかあるまい。何らかの方法で一度其方は屋敷に戻り、侵入者の家捜しを目撃した。彼らの目的は──」


 香月は頷く。


「この琴に、父が何かを隠したのではないかと思います。彼らはそれを探していたけれども、見つからなかったのでしょう」


 無意識に琴を撫でる彼女の指先を眺めながら、鷹信は眉をひそめた。


「しかし、見る限り手を加えられた様子はない。玄達殿が確認していたというのなら、割って取り出す様な隠し方ではないのではないか。楽器について詳しくはないが、少しの弦の緩みなどで音が変わると聞いた事がある」

「仰る通りですが、他に父が狙われる理由は思いつきません」

「だとすれば、それはいかなるものか──という問題になる」


 端整な顔に憂いが浮かぶ。


「鷹信様。妾は舜橙さんが言っていた『げんきゅうてん』が、ここに入っているのではないかと思うのです」

「ちょっと待て。では舜橙という患者が、御父君の死に関わっていると言うのか?」

「証拠はありません。そうだと仮定すると、あの人の質問の意味もわかる気がしまして」

「確かに元々は王宮にあったものだ。誰かが中に隠し、玄達殿がそれに気づいたという可能性もあるな」

「本人に聞ければ話は早いのですが……」

「いや、あまり彼には関わらない方がいい。其方の推測が当たっていたら、尚更だ」


 鷹信は琴ににじり寄り、の並ぶ地板──竜甲と呼ばれる──をしげしげと観察した。原木の年輪が細かにくっきりと浮かぶ、それは琴でも一級品の証ではあったが、特に仕掛けが施されている様子は見られない。


「裏を見せてもらっても良いか」

「はい」


 柏葉、竜角など各部を見た後、裏返して腹を見る。


「切れ目がない様に見える。一体どうやって作られているのだろう」

「琴は大きく分けて綾杉と裏板の二枚から出来ています。中はほぼ空洞なのですが、並甲なみこうという組み立てだと脇に接ぎ目が入るのでわかるそうです。刳甲くりこうと言う技法であれば、合わせ目が斜めに入っている為、この様にわからなくなります」


 鷹信が不意に顔を上げた為、同じく覗き込んでいた香月は少し慌てた。吐息が触れそうな程に近い。


「中は空洞なのか?」

「は、はい。ですが中に物を隠せば、先ほど言われた通り音が変わるどころか、使い物にはならないでしょう」


 竜腹の彫刻を挟む様に開けられた穴を覗き込んで「確かに何かを仕掛けられている様子はないな」と鷹信は溜息をついた。


「となると、残る可能性は一つだ。この彫刻」


 月夜を表した浮き彫りを指差す。恐らくは名だたる絵師の図案に拠るものだろう、月を取り巻いて筋状にたなびく雲が美しい。天に届きそうな程に高い峻峰が右に聳えている。山肌を縫って流れる滝は地に伸び、枠に施された枝葉と合流して流線型の紋様を形作っていた。


「劉幻は山水画を好み、よく旅で現地に出かけたと言われている。もしかすると、この彫刻にも実在する風景があるのかもしれんな」


 木目を生かして彫られた風景は、だが香月には全く見覚えのない場所だった。そこに意味を読み取ろうと凝視すればふと、ある一点に気づいて思わず声を上げる。


「見てください、ここ」


 山の八合目近くに、小さく生えた木がある。そこに一見見には木目に見えそうな黒く小さな染みを見つけたのだった。

 鷹信も頷く。


「見ようによっては木の葉に見える。なるほど、『そう思ってみなければ』わからないな。修史府しゅうしふに劉幻の経歴を問い合わせてみよう、彼に縁ある場所がないかどうか」

「よろしくお願いします」


 軽く頭を下げてから、「経歴と言えば」と香月は姉小路から聞いた舜橙の出自について告げた。

 考え込む様にして話に聞き入っていた鷹信だったが、説明を終えると黙り込んで何やら思案している。こういう時に邪魔をしてはいけないのだと知っている彼女は、黙って反応を待った。


「……まだ、繋がらないな……」


 どれくらいの時が経ったものか、ようやく彼はぼそりと呟いた。


「いずれにしても、彼についてはもう少し仔細がありそうだ。彼だけでなく、周りの人間についても調べる必要があるだろう」

「……周りの?」

「一連の出来事には二つの拮抗する謎がある。長塚と相対する人物か、それとも全く別の思惑か。姿はまだ見えない……いや、見えてはいるのだがどうも釈然としない、といった所だな。もしかしたら、見えていると思っているだけで単に『見させられている』だけなのかもしれない」


 意味深な鷹信の言葉に、香月は目を見開いた。


「どうした?」

「……いえ。ただ最近、同じ言葉を言った人がいたものですから」


 今最も思い出したくない人物だ。何故、よりによって。


「ほう、それは一体誰が」

「忘れました。ところで鷹信様、昨日薬庫で仙丸様と何を話されたのですか?」


 唐突に話を逸らすと、今度は鷹信の方がどういうわけか決まり悪そうな顔をした。


「いや、まあその。薬処方局についてなど、色々探りを入れただけだよ。特に収穫はなかったが、薬庫の内部だけは観察出来た──確かに外部の者が入るのは難しい部屋だ。薬も何が何処にあるのか、把握するのは相当内部に精通していなければならないだろう」

「やっぱり、そうですよね……」


 ではやはり、局内の人間が犯人という事になるのか。

 心証が悪いだけで仙丸が筆頭に上がっているが、他の局員でも充分可能ではある。

 それにしても、仙丸と言えば──彼は何故そんな会話であそこまで怒ったのか、理解出来ない。

 首を傾げる香月をちらと見て、鷹信は立ち上がった。


「ただ、局員でなくとも局員を抱き込めば研医殿の者でも犯行出来ないわけではない──」


 言葉の語尾に重なって、廊下を慌しく走る足音が聞こえてきた。


「ひ、姫様はいらっしゃいますか! 侯爵様、失礼致します」


 転びそうになったのか、不規則な音を立てて扉の向こうに辿り着いた気配がする。声は侍女の楸のものだった。


「どうした」


 鷹信が鋭く問う。


「皐乃街から火急の使者が参りまして、姫様においで願いたいそうです。容態が急変したと、伝言が」


 誰の、と確認する必要はなかった。香月は立ち上がり駆け寄ると、勢い良く扉を開けた。


「──出かける支度を、お願い」


 他ならぬ自分の声が、恐怖に上ずっている。


「私も行こう」

「いえ、鷹信様はここにおいでになっていてください。これは、妾の仕事です」


 しかしいざ支度をして馬車に乗り込もうとすると、既に鷹信は奥の座席に外出着姿で座っていた。


「鷹信様」

「邪魔はしない。約束する」


 本当は一人じゃないのが心強い。でも、それを口に出す事は出来なかった。

 硬い面持ちで頷いて、香月は手にした鞄を強く掴む。座席について馬丁に出発を命じた。


※※※※


 瘍頭の第一段階で死ぬという事例は今までにない。しかし抵抗力が弱まっている今、もし他の病に罹ったとすると話は別だ。

 使者の男は鷹信の部下だった。街に辿り着き、馬車から駆け下りる二人を先導して走る。


「昨日までは一進一退ながらも穏やかなご様子でした。今日の昼、次の薬をと研医殿から使いの方がいらっしゃいまして。その薬を飲んだ一刻後辺りから、発熱しだした模様です。ひどくお苦しみになって」

「次の? そんな筈は」


 小走りに急ぎながら香月は声を上げた。この間十日分を渡して、今日は三日目だ。次の薬など自分は出していない。


「使いの者の人相などわかるか」


 横から鷹信が口を挟む。


「それが、面布で顔を隠していたそうで。背格好からすると、男ではないかと。同僚の遊女が申しておりました」

「──河西姐さん!」


 昼過ぎの皐乃街は閑散としていて、まばらに歩く人々が走る足音にこちらを振り返る。河西のいる切り見世に近づくと、格子の内に見慣れぬ派手な着物の柄が垣間見え、目を惹いた。

 駆け寄り、擦り切れた座敷に上がり込む。薄い布団の枕元、こちらに背を向けるようにして病人に縋っていた人物が振り返った。


「……姐さん。これは一体どういう事なんですか」

「浅尾、ちゃん」


 見世からそのまま来たのか、艶やかな打掛姿は浅尾のものだった。脇には禿二人も座っている。紅を施した元後輩遊女の、白粉顔が怒りに歪んでいた。


「香月姐さんが治してみせると言うから、あたしは時折遠くで眺めるだけにしておこうって思ってた。でも、今日見世が終わって覗いてみたら──こんな。以前より悪化してるとしか思えない」

「ち、違うのこれは」

「何です? 何かの間違いとでも言うんですか?」


 正直に答えればそうとしか言えない。今決して言ってはならない言葉だとしても。答えを探す様に周囲に視線を這わせると、部屋の奥に膝を抱える女の姿が見えた。以前河西の事を頼んだ遊女だ。

 ちらりと香月を盗み見た彼女と目が合う。


「し、知らないよ! あたしはただ、あんたの使いだっていう男から預った薬を、こいつに飲ませただけだ」


 忌々しげに吐き捨てて、女は足元にあった紙袋を蹴り飛ばした。

 それを手に取り、袋と中身を確かめる。


「香月」

「……確かにこれは、薬処方局で出しているものです」


 鷹信の問いに、返事は消え入りそうなほど小さかった。

 河西の事を知っていて、香月が出したものと寸分違わぬものを作れる。そんな事が出来る人物は一人しかいない。


「とにかく研医殿に持ち帰って、成分を検査しなくては」

「検査? 何を言っているんです。姐さんの病気を治しに来たんじゃないんですか!?」


 詰め寄る浅尾の声は悲鳴に近かった。宥めようと伸ばした手は、だが振り払われる。


「結局──香月姐さんもそこいらの医者と同じじゃないですか。患者を人として見ていない」

「落ち着いて、浅尾ちゃん。河西姐さんは、最初に渡した薬に戻せば症状も治まるの」

「こんなに弱っているのにですか! 信じられません。まだ街の医者に見せた方が増しに思えます」


 帰ってください、と浅尾は香月の身体を勢い良く押し出した。

 勝気そうな双眸から、はらはらと涙が零れて化粧が崩れた。朱の隈取は朱い涙に、まるで血を流す様に。


「こんなのおかしいです。姐さんは誰よりも幸せになれる人だったのに……こんな酷い目に遭うなんて、許されるわけない……!」


 押された衝撃で力なく後ろに倒れた香月を、鷹信が抱きとめる。

 呆然と立ち上がれないままの彼女の足元に突っ伏して、浅尾は泣き続けた。彩と桂の嗚咽が加わり辺りにこだまする。

 静かな街の中に響き渡る慟哭は、そのまま香月の世界に穴を穿ち、黒い闇を形作った。


脚注:琴は実在のものを参考にしています。柏葉→奏者から向かって楽器の末尾にある、布などで装飾された弦を掛ける部位。竜角→柏葉とは逆の奏者側にある、弦を支える櫛形の橋です。

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