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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第五楽章
19/25

緑青(ろくしょう)

 仙丸が出て行った後しばしの間呆然と扉を見ていた香月は、あられもなくはだけられた首元に気づき、慌てて襟を締めた。

 その指が震えたのは、彼に対する恐怖のせいばかりではない。

 落ち着いて考えなければと頭ではわかっているのだが、ふとしたはずみに蘇るのは、遊女時代に客達に抱かれた記憶。心を身体から切り離す事で苦痛を和らげようとした、あの日々。

 鷹信だけが、欲望の為でなく彼女を労わる為に触れてくれた。


──しっかり、しないと。


 仙丸に素性が知れた時から、いつかこんな扱いを受ける事になると予想すべきだった。むしろ気を失ったとは言え、彼が途中で思いとどまったのを幸いと思うべきかもしれない。脅迫めいたものまでしていたのに、理由はよくわからないけれど。

 衣服をようやっと整え、香月は中断されていた書類の決裁を再開した。「後で」と約束した禾管局での講義までまだ時間がある。


──過去の夢について気づいた事は、帰ったら鷹信様に話してみよう。


 仙丸との出来事は、話せないし話したくもない。

 思い出しかけてまた嫌悪感を催していた時、登記装置が呼び出し音を鳴らした。

 装置の盤面に打ち出される文字は『施術局 姉小路呼出』となっていた。


──何の用だろう。


 盤面の下に整列した文字盤の一つを押して、それから『諾』と入力して席を立つ。

 姉小路からの呼び出しならば、舜橙の事かと思い至った。

 実は昨日の内に施術局を訪ね、彼に舜橙の素性について詳しく知りたいと話していたのだった。

 調べるのに時間をくれ、と言われていたのだがようやく回答が聞けるのか。

 喜び勇んで局長室を出ようとして、行き先を仙丸に告げるべきか否か迷う。

 ほんの少しの間考えて、香月は扉の把手に置手紙を書いて紐で下げる事にした。登記装置で知らせる事すら、今は出来そうにない。そのまま局を後にした。


「お尋ね頂きました舜橙さんについてですが、出身は彭沢ほうたくという辺境の村の様です。代々農業を営む家の息子で、南部の領境に恒山こうざんという険しい山があるのですが、そこで暮らしていたとか」


 いつも施術局に入ると最初に通される部屋で、姉小路は訪問客に向かい合って椅子に座り、記録文書を読み上げる。


「彭沢、ですか」


 香月は眉をひそめた。聞いた事のない地名だ。


五辻いつつじ侯爵領にある村、とご説明した方がわかりやすいでしょうか。王都からは南西端に位置する土地です。先ほど申し上げた恒山が、珍しい生物が多いというので有名ですね」


「月下病に罹患したのは何時頃からですか?」


「十九歳を迎える頃に身体に変調を訴えたそうです。怪我をしても治りにくい、慢性の疲労状態が続く。他愛もない所から始まって、二十歳になった時には顔に皺が現れていたと。それから髪も白くなり、あまつさえ抜け始めて皮膚もたるみ、訝しいというので母親が五辻候に嘆願書を書いたのがきっかけでここに入った。そう記載があります」


 という事は、発症して八年の計算になる。


「他の症例の記載が残っていれば比較も出来ましょうが、ごく古いものが一件のみなので対象としては確実性に欠けます。しかも前例はわずか五歳で発症し、三年後には亡くなってるので」


「若いほど進行が早いのかもしれないし、単に偶然かもしれない?」


 姉小路は表情を曇らせた。


「そうなんです。記録を更新するだけで患者にとっては、何の手がかりにもならないというわけで」


「前例は何年前のものですか」


「五十年程前とあります。当時の担当者も、聞いた事がない名前で。治療に使われた薬も今では見かけないものですね。恐らくは患者が亡くなったので、禁じられたのでしょう」


 香月は思わず身を乗り出した。五十年前、禁じられた治療法。


「ま、まさかそれって。──どんな薬剤を使ったのか、教えては頂けませんか」


「ええと、『乃之のしの畸形を煎じて与え』とあります。『通常のものより堅実な生薬を用いたが発熱し、嘔吐と下瀉を繰り返して振戦を起こし』……消耗して亡くなったそうです」


──亜種療法だ。


 やはり、と思うと同時に実験に利用され、短い生涯を終えさせられてしまった子供の事を考え声が沈んだ。


「……きっと研医殿は、そうやって発展して来たのですね」


 楠王の治世まで、研医殿は代々磴侯爵家が踏襲して来たと聞いた。

 五十年前ならば、長塚の父親辺りが殿主だったのだろうか。そう言えば、鷹信からも玲彰からも、長塚の正確な年齢を聞いた事がない。さして重要な事とも思えなかったが、ふと気になった。


「かもしれません。個人的には、承服しかねるやり方ではありますがね。私も時折記録の整理をしていて胸が悪くなる事がある」


 姉小路は珍しく、渋面を浮かべていた。


「昔のここでは、患者を実験生物としか見ていない節があった様です。事実、残っている事例でも失敗例の報告が多い。殿主が箕浦候、そして玲彰様に変わってからは大分方針を変えたと、私も聞いていますが。当時ならとっくに上層部と衝突して辞めていたでしょう」


 殊更突き放した口調の中に、激しい嫌悪が看て取れた。

 温厚な人物と思っていたのだが、険しい表情をすると彫の深い顔立ちなだけに凄みが増す。子供が見たら泣くかもしれない。


「姉小路局長は、その……あるのですか? 上の方と喧嘩した事が」


 恐る恐る聞いてみると、虚を突かれたらしく一瞬目を瞠ってから、彼は苦笑を浮かべた。それで取り巻いていた近寄りがたい雰囲気は去り、いつもの様子に戻る。


「それはありますよ。薬処方局の前局長とも衝突しましたし、上司というか身分が上の方ともやりあった事もありますね。未だに局長を解任されないのは、研医殿だからではないでしょうか」


「意外でした。とても穏やかな方だと思っていましたもので」


 思った事を正直に言ってみたのだが、何故か彼の笑顔は消え真顔になった。


「あの、私何か失礼な事でも?」


 いえ、と声は低く短い。視線を外さず、濃藍色の双眸で真っ直ぐにこちらを見つめて来る。


「私が優しく見えるとしたら、それはきっと──相手が貴方だからでしょう」


 言葉以上に、何かを訴えかけて来る姉小路の眼差しに戸惑う。払う様に力を込めて香月は否定した。


「そんな事ありませんよ! 姉小路局長はお優しいから、時にお怒りになれるのだと私は思います。患者さんにも、局員の方々にも慕われているではないですか」


 今の彼女に、言外の意味を考える余裕はなかった。考えられなかったと言うべきか。それに実際、いつやって来ても彼は常に暖かい談笑の中心にいたという印象がある。人望がある証拠だ。


「いや、私はですね」


 慌てて更に言葉を繋ごうとした姉小路の背後で、扉を叩く音がした。


「失礼しまーすっ。……あれ、もしかして邪魔しちゃいました?」


 いつも通りの能天気な口調で許可も待たずに入って来た斎条が、二人の顔を見比べて後ずさりしようとした。


「すみません、後ほどまた──」


 香月は思わず右手を伸ばした。


「待って下さい、斎条さん!」


「え、でも」


「ちょうど良かった。お話があるのです。舜橙さんの治療について、お二人の同意を頂きたいと思いまして」


 怪訝そうな顔をしているのは斎条だけではない。香月は息を深く吸い込んだ。

 如何に姉小路が自分に優しくとも、この提案をした後でも変わらず接してくれるかどうか。


「実はこれから、禾管局に伺おうと思っています──」


※※※※


「──河楸かしゅうの亜種は果皮をすり下ろして使います。正種は良性の腫瘍などに効能があり、亜種は体液の流れを整える効果がある。生薬は大抵乾燥させてから粉砕して精製するでしょう。亜種はむしろ生のものを使用した方が良い」


 周布の説明は非常にわかりやすかった。傍らで漏らさぬ様に記述しながら、香月は何度も頷いて話を聞く。指し示されれば実際の植物の様子を観察出来る、講義としてはこの上ない環境だ。


「筋組織の再生を図るのであれば、これに川弓せんきゅうの亜種を掛け合わせると良いでしょう。筋損傷の快復を助けるし、補血効果もあります。根茎を湯に通して粉砕し、流動食として使うのです」


「河楸の亜種ですが、正種とは違って腫瘍の治療には効果がないという事ですか?」


「逆ですね。正種が出来てしまった腫瘍を縮小させるのに対し、亜種は腫瘍を作らせない方向に働く。体液の流れを正すとは、体質そのものを正すに繋がります」


 普段まともに人と会話するのを苦手とする香月だが、この一見風采の上がらない研究者の話は興味深く質問が尽きなかった為、気づけば三刻を費やしていた。


「お時間を取らせて申し訳ありません」


 慌てて言い添えると、周布は「いえいえ」と笑う。


「私は普段からここで世捨て人同然に亜種の研究のみをしている偏屈者ですから。嵯峨局長こそ、お忙しいのではありませんかな」


 休憩を、と彼に進められるままに以前も入った殺風景な白い部屋に戻って椅子に座った。

 一つきりの小さな卓の上に、二人分の茶器が置かれる。


「ありがとうございます」


桂皮けいひの亜種で作った茶です。血の凝りを和らげるでしょう」


「やはり食べ物も亜種なのですね」


 少し抵抗がない事もなかったが、これから患者に同じ経験をさせるのだ。思い切って口に流し入れてみた。


「……ほのかに辛いのは、正種と同じですね」


 芳香は亜種の方が強いだろうか。予想以上に飲みやすいのは驚きだった。

 おっとりと周布は笑う。


「味はほぼ変わらないですな。中には苦味甘味が強い、或いは弱いものもありますよ」


「河楸も川弓も苦味がややありますよね。味付けで誤魔化せるでしょうか?」


「問題ないでしょう。亜種も同じかやや薄いぐらいです」


 しかしそれにしても、と周布は湯飲みを手に持ってしみじみと呟いた。


「亜種食物での治療などよく皆様が承知なさいましたね。こう申しては不敬に当たるやもしれませんが、玲彰様は良くも悪くも既成の概念に囚われないお方ですからな」


「そうですね、反対されなかったわけではないのですが……」


 局長会議など公式なものでは提案していないものの、先に患者の担当者には説明をと、斎条と姉小路に話した先刻の事を香月は思い出す。

 予想通りというべきか、姉小路ははっきりと難色を示した。傷ついた表情さえ浮かべていたものである。


『例え有効なものだと認定されているものだけだとしても、合わせる事に拠って予想外の効能が出たりはしませんか?』


 対する斎条は何やら考え込んでいたが、ややあってから『まあとにかくやってみましょう』と割とあっさり同意してくれた。


「担当者の一人は渋々、最後には何とか同意してくれました。『あくまで通常の治療の補助として』という条件を付けられましたが」


「姉小路局長でしょう。頑固というほどではありませんが、彼は常に正道を好む嫌いがある。研究者ではなく行使する側としては適材ですな。正義感ゆえに局長内では異端でさえあります」


 多少皮肉めいて笑う周布を見て、香月は姉小路が言っていた事を思い出した。確かに玲彰といい元良といい、研医殿の上役には個性的な人が多いのかもしれない。


「私がそう思っているだけかもしれませんがね。貴方はまだ着任して日が浅いから、全ての局長と話をした事がないでしょう。……いずれおわかりになりますよ」


「はあ……」


 わからないでもない様な、と少し首を傾けてから、彼女は不意に疑問を覚えた。


「周布局長はここに、いつもお一人でおいでになるのですか?」


 禾管局に来るのは僅か二度目だが、仄音局でも施術局でも必ず何人かの部下の存在を認めたのに、ここにはそれが全くない。廊下で見かけないのは仕事中だからかもしれないが、三刻の間に外部から何の音沙汰もないのは奇妙だ。急ぎ案件の一つもあって良さそうなものを。

 血の気の薄い顔で周布は複雑な表情を浮かべた。諦観と哀愁がない混ざった様な。


「局内の他の部署には人員がおりますが、この部屋には私以外基本的に入るのを禁じておりましてな。玲彰様がおいでになるまでは、そもそも他の局からも忌避されていたもので」


「えっ」


 そんな話は全く聞いていなかった。


「もしかして、私などが入ってはいけなかったのでは──」


「忌避、と申し上げたでしょう。禁じられているのは局員です。局長以上は自由に入室出来るのですが、ここ何年か来た者はおりませんでした。この部屋も私自身も、本来はとっくに排除されていたはずでしたからな」


 ですから亜種食物の治療も、局長会議に出すと却下されるかもしれませんよ──自嘲気味に彼は付け加える。

 香月は躊躇った。周布が忌避されるのは、恐らく長塚に与したからだろうと察しがついた。ここで話題を逸らすのが善意なのだろうとは思うのだが、しかし。


「……ですが、玲彰様は貴方を登用なさった。過去に何をしたにせよ、今の研究を買われて局長の位を頂いているのではありませんか?」


 流石に直球では聞けずに婉曲な言い方をした。


「おや、玲彰様から私について何も聞いてはいないのですか? てっきり話してあるものだとばかり」


「少しだけ伺いました。確かに亜種食物の研究成果を奪われたくもないのでしょうけど、でも──」


 玲彰は軟禁だと言うが、本当に閉じ込めたいのなら、研究を続けさせるものだろうか。


「違いますよ。研医殿が、いえ玲彰様が私に研究をさせるのは、植物達の一部を外に出さない為なのです」




脚注:一刻→一時間でお考えください。

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