猩々緋(しょうじょうひ)
ほんの少し性的・暴力的な表現が含まれます。ご注意ください。
全く字の違う、別の言葉という可能性も確かに皆無ではない。むしろそちらであってくれたらと強く願う。
でなければ、父が母を「病で亡くなった」と自分に話していたのが嘘になってしまうから。
「……つ、香月」
研医殿に寄って見学したい、と言った鷹信を案内する為に廊下を歩きながらもともすれば思考は先程聞いた『歌』に舞い戻っていた。
勿論、父の言葉こそが自分にとっては真実だ。だから信じていればいい筈なのだが──となると、何故あんな記憶が『封じ込められた』のだろう。それに覚えている限りでも、父は自分が客人の前に出るのを極端に嫌っていたのは間違いない。
まるで、何かから隠すかの様に。
「香月」
もしそれが舜橙からだとしたら──一体どうして。
『げんきゅうてん』という言葉が何か手がかりを握っているのだろうか──
「香月っ!」
「ふっ!?」
吐息が掛かる位すぐ耳元で鷹信の声が大きく響いて、心臓が飛び跳ねる。思わず奇妙な声を出して後じさってしまった。
鷹信は苦笑している。
「済まない。余りに何度呼んでも反応がないので、つい」
「……っ、でしたら……叫んで頂いても……」
恥ずかしさとそれ以外の何かで、顔が茹で上がった様に熱くなる。
「大きな声を出しては周囲に響くだろうから」と返されて、確かに鷹信は正しいと思った。
場所は既に彼女の勤務部署、しかもどういう因果か拠りによって仙丸が内廊下に立ってこちらを睨んでいるのだから。
「……副局長」
硬い香月の呼びかけには答えず、仙丸は鷹信に向かってにっこりと笑って会釈した。さっきまでの渋面が嘘の様に。
「これは倉嶋候。薬処方局へようこそいらっしゃいました」
「尚暁殿か。久しいな」
鷹信もまた、まるで旧知の友人に対する如く朗らかな笑みを見せた。
「しばらくそちらの邸にも伺っていないから、一年ぐらいか。父君とはしばしばお会いするのだが」
「こちらこそ無沙汰をしておりました。しかし変わらずご健勝な様子で何よりです」
唖然とする香月を尻目に、仙丸と鷹信の会話は続いた。
──そうだった。お二人は本当に『旧知の仲』なのだった。
ただでさえ華やかな貴族の優美さを持つ鷹信と、怜悧かつ威風堂々とした外見の仙丸が並ぶと、如何にも王の重臣といった風格が漂っていて近寄りがたい。
「しかし今日はまたどうしてこちらに? 玲彰様にご用ですか」
「ああ、それもあるが」
鷹信はいつの間にか少し離れた場所──局長室の扉の前に立ち尽くしている香月をちらりと見た。両眼には不安の色が浮かんでいる。
「ちょうど良かった。卿と少し話がしたいと思っていたのだ。──出来れば別室で、人払い出来る場所はあるだろうか」
「た、鷹信様!?」
──局内の様子を見たいと仰っていたのでは?
思わず叫んだ香月は言うまでもなく、この申し出には流石に仙丸も面食らったらしかった。
「は──はい。では局長、薬庫をしばし応接に使用しても宜しいですか」
この局内で他者の介在を拒否出来るのは局長室と薬庫のみ。調合室に部下と席を共有する仙丸は、表立っては上司に許可を取らねばならない。
「構いませんが。もし良ければ、局長室をお使いになってはどうですか」
良かれと思って提案したのだが、仙丸は「結構です」と却下した。
「局長のお仕事の妨げになるといけませんからね。薬庫には元々しばらく人は来ないでしょう。斎条も先ほど入ったばかりですから」
「そ、そうですか。では」
貼り付いた笑みが何とも恐ろしい。香月は縮み上がりそうになるのを何とか堪えた。
自分の仕事よりも、薬が保管されている場所に部外者──一般的な見方であって、彼女にとっては見解が異なる──を入れる方が差し支えがあると、仙丸なら考えそうなのに。そう思ったが、むしろこれは鷹信に薬庫の様子を見てもらうまたとない機会だ。
「では、香月。後ほど屋敷でな」
「はい」
ふわりと笑んだ鷹信につい笑みを返しつつも、では話が終わったらすぐにお帰りになるのだと──多少憮然としながら局長室に戻った。
──何か新たな発見があるといいのだけれど。
毎日の様に部屋を出たり入ったりしている香月にとって、麻珍の重量が減っている以外に違いを見つけるのは難しい。こうあるものなのだ、と言われればその通りなのかもしれないと思ってしまう。その点全くの専門外な鷹信なら、客観的な目で状況を見れはしないか。仙丸と知己ならば、彼から情報を引き出せる可能性もある。
室内に入ると、卓の上に書類が積みあがっていた。椅子に座り最初の一枚に目を通そうとするのだが、目は字面を滑っていくばかりで集中出来ない。
『長塚は麻珍で誰かを殺そうとしてるわけではないのかもしれない』
玲彰はそう言った。だが、乾燥した麻珍の使い道が毒殺以外に何があるというのだろう。
──そしてもし玲彰様の仰る通りだとしたら、犯人はあれを一体いつ使うつもりなのだろう。
手当たり次第に押印しながら、様々に考えを巡らせても明確な答えは出ない。ついに溜息を付いて手を止めた時、扉を叩く音がした。
「……どうぞ」
もしかしたら鷹信だろうか、一瞬期待したもののすぐにそれは裏切られる事となった。
「書類の決裁ならば、もう少しお待ち頂けますか」
だが入室者は答えないだけでなく、扉を後ろでに閉めたまま退出する様子がない。
かちり、と音がした。
「副局長、どうかしたのですか。た……倉嶋様から何か重要な言伝でも?」
聞き間違いでなければ、今のは扉の鍵を閉める音。それに随分と彼は緊迫した表情をしている。
「──理解出来ませんね。倉嶋候は何故、そうまで貴方を重要に扱われるのか」
細い糸が張り詰め、今にも切れてしまいそうな不穏な気配がした。怒り、悔しさ、憎しみ。どれとも取れる、負の力が凝縮された声音。
「せ……一体何を」
「それとも、恋は盲目という事なのか。遊女などという不特定多数の男を相手にしてきた様な女に、あのお方程の人物が騙されるなんて──実際、ここに来てからの貴方は実に巧く隠しおおせていますからね」
これ見よがしな嘲笑にも、恐怖を感じて以前の様に言い返す事が出来ずに彼女は黙っていた。じりじりと近づいて来る気配。一体鷹信との会話で何が出れば、ここまで狂気に支配されると言うのか。
「あ……!!」
距離を開けようと同じく後退した香月は、自ら引いた椅子に足を取られて床に尻餅をついた。
「じっくりと化けの皮を剥いでみようと思っていたのですが、いっその事試してみましょうか」
仙丸は覆い被さる格好で四つんばいになり、両手両脚が彼女のそれを挟む様に置かれた。
「や……お止め下さい、副局長……」
吐息が掛かるほど、顔が近い。
皐乃街にいた頃に感じた、客達の欲望にまみれた視線ではなく。
理性を失って酷薄さだけがぎらついた双眸に、香月の背に悪寒が走った。
「それも手管なのですか? か弱い生娘の振りなどして、正論ばかり振りかざす」
薄く口の端だけで笑って、彼はその堅く閉められた術着の襟に手をかけた。
暴れようと両手に力を入れようとしても、仙丸の身体そのものが彼女を押さえつけていて、しかも首筋を掴まれている。何度試みてみても跳ね除けられない。
「貴方の様な女に現を抜かしては、候の前途に傷が付きます」
「い! 嫌──!!」
剥き出しになった鎖骨の下の、なだらかに円を描く白い双丘に。
彼の唇が触れた瞬間──
香月の脳裏に、いつも見ていた夢の世界が鮮烈な稲妻となって蘇った。
※※※※
──無人の屋敷を、逃げ続ける夢。最後には、朱塗りの格子と無数の手に捕まってしまう。
いつの間にかすり替わった、何者かが父の部屋を荒らしている気配も同じだ。
──何故、こんな時にこんなものを見る。
理性の片隅で疑問に思いつつも、記憶の謎を解き明かす必要がある気がして香月は意識を凝らした。
──ああ。
朱塗りの格子や無数の手は、皐乃街の客達だ。彼女の恐怖の象徴。
と同時に、思考を停止させる為の逃げ場所でもあるのかもしれないと、ぼんやりとした意識の中でそう思った。
『だからさっさと殺さずに、拷問にかけてでも吐かせれば良かったのに』
『吐かないさ。自分の妻さえも犠牲にして研究した男だ……も恐らくは一刻も早く抹殺したかったのだ。未練を断ち切る為には必要だと仰るのだから』
『……あんな女の何がお気に召したのやら……』
『知らぬ。琴の名手だという以外に……はない様だが……むしろ玄達の方が問題だ……』
室内を動き回る音。ふと足音が止み、不気味な静寂が訪れた。
逃げてはいけない。香月は必死で目を扉の隙間に当てて、中の様子を窺った。
背格好からして、若い男の二人組に見える。いずれも鈍色の面布を被っていてこちらに背を向けている。当然顔は見えない。
『こいつには確か、子供がいなかったか。何処に行ったのだ』
来た、と身構えそうになるのを堪える。これは過去なのだ。自分が「本当には何処まで見たのか」を見極めなければ。
『遊郭に売られたらしいよ。……が手を回したんだろうさ……ていたからね』
男の言葉に香月は頭を殴られた様な衝撃を受けた。
この記憶は、父が亡くなった時のものではない。
後であるのは間違いないにしても、では何時のものなのだ?
父が亡くなってから皐乃街に入りしばらくするまでの間、香月にははっきりとした記憶がない。
てっきり辛い日常の余り時間感覚がよくわからなくなっていたのだと思っていたが、もしかしたら。
『……残念だな。子供がいれば、前日なりとも奴の行動を聞き出せたものを』
男の言葉に、香月はそうだ、と確信めいたものを感じその場を離れた。
あの時も。あの時もここで私は気づいた筈だ。だから引き返した。
映像は遠ざかる。
──夢はこれで終わりなのだろうか……
けれど最後に一つだけ強く心に焼きついたものがある。父が亡くなる前日に何をしていたのか思い出したからだ。貸してくれ、と珍しく頼んできた。戻って来たのは一刻の後だった。
──『香月』を、持って行かなければ。
琴造りの名人、柳幻の手に拠る楽器。龍腹と呼ばれる台座の裏に、精緻な彫刻を施された名品。かつては王宮で国王が所持していたと言う。
父が琴に何をしていたのかはわからない。ただその時とにかく、琴と一緒に皐乃街に行かなければならないと思った。
なのに次に空白が途切れた時、香月はそれらを忘れてしまっていたのだった。
※※※※
「──局長!!」
せり上がる意識と共に感覚が戻ってくると、息苦しさに胸は重たい。手足は血が通っているのかどうかわからぬ程冷たく、全身が震え出す。
「か……はっ……!」
激しく咳き込んで呼吸さえもままならず、香月は暴れた。さっきと違って仙丸の拘束は緩んでいる。だから力の限り逃げたいのに、苦しくてそれどころではない。吐き気さえ覚える。
「落ち着いて、息をゆっくり吐いてください」
背に手を入れて半身を起こし、彼はそのまま香月の背中をさする。
「──さ! 触らないでっ……!!」
呼吸を取り戻しかけたと同時に、彼女は手を払って両手の力だけでその場から後ずさりした。まだ下半身には力が入らず、しかもいくらも動かない内に壁が背に当たって退路を絶たれる。
「出て行って、ください。もう二度と、ここには入らないで」
歯の根の合わない唇で何とかそう言うと、仙丸は瞳を伏せた。体を起こして、床に両膝を付いた状態になっている。
「書類、なら、私から」
行くから。そう続けようとした時、彼が両の掌を床に下ろし頭を下げた。
「……どうやら、私は貴方を誤解していた様です。申し訳ありませんでした」
地に額を付け、土下座の体勢である。
絶句して言葉が出ない香月の前でしばらく彼はそうしていたが、やおら立ち上がり踵を返すと、扉の鍵を開けて足早に部屋から出て行った。