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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第五楽章
17/25

洗朱(あらいしゅ)

「長塚も、最初は人を救う為に懸命だったのだそうだ」


 廊下に出てしばらく歩いた頃、考え込む香月の耳に上司の呟きが聞こえてきた。

 思わず顔を上げる。


「それがいつの頃からか、偶然に薬の亜種が毒になる事がわかってから奴は変わった。そう周布は申しておった」


「やはりあの方は長塚伯に仕えていらしたのですか」


「片腕として、局長に抜擢されたのも長塚に拠ってだ。本来更迭すべきところではあるが、毒薬を改変させようとしていた主に反発し一線を退いた。命を狙われて王宮に保護を求め──再び引きずり出したのが私というわけだ」


「亜種研究においては第一人者なのですね」


「という名目の軟禁でもある。長塚に取られない為の、な」


 玲彰は昂然と頭を前に向けたままなので、一歩遅れて歩くこちらからは白い頬と長い睫毛しか見えない。恐らくは無表情なのだとわかってはいても、そこに何らかの感情の起伏を探してしまう。


「……意外です」


「そうか?」


「長塚伯はもっと、私利私欲の為に動かれたのだとばかり思っていました」


 実際、彼女が聞いていたのはそんな内容ばかりだった。

 研医殿の利権を巡って楠王と対立し、敗れたと。


「仕えていた人間の話だ。真偽の程は定かではないな。奴が殿主に就任して数年、研医殿が技術的に目覚しい躍進を遂げたのは事実だが」


 目的の仄音局は三階の、ちょうど禾管局とは対角に位置した場所にあった。昇降機に乗り込みながらも言葉は続く。


「時折思う事がある。私と奴の何処が違うのかと。本心はわからずとも、研究者が対象物に『取り憑かれる』というのが理解出来るのだ。奴は毒薬に憑かれてしまった。薬を役立てるのではなく、操る道を選ぶ。そこに善悪は存在しない。世の中に迷惑をかけるものが悪と判断されるだけで、当人にとっては効能を試しているに過ぎないのかもしれない」


「玲彰様……」


 余りに危険な考え方だ。確かに普段から玲彰は手段を選ばない遣り方に走る嫌いがある、と鷹信から聞いてはいたが──


「奴が何故、麻珍毒で陛下を弑逆しようとしているかわかるか?」


 昇降機が動き出した。眉をひそめる香月には構わず、手摺に凭れた姿勢で斜め下の床を見る様に問いかける。


「あ、はい。麻珍は現在研医殿ここにしかない毒だから、『使う事に拠って陛下に二重の屈辱を与えようとしている』と伺いました」


「王宮で知られている理由はそうだな。だが本当の所は、単に毒薬に執着しているからだとは思えないか。恨みを晴らすのが本懐なら、麻珍でなくとももっと陥穽かんせいに落として謀殺しても良かろう。少なくとも私ならそうする。ただでさえ陛下に毒は効きにくい」


「何を仰るのです!」


 慌てての制止にも、玲彰の表情は変わらない。むしろ何処か面白がっている風に見える。香月は憮然とした。


「其方は何故人を──河西を救うのか、明解な理由があろう。それを忘れぬ事だ。大義を見失った時、闇の深淵は殊の外甘美な姿をして傍らに現れる」


 ちらりとこちらを見て微かに笑う。顔に出すという事は、よほど楽しいのだ。つくづく、この人はわからない。

 はい、と頷きながらも香月はついこの間、その『深淵』に落ちかけていたのかもしれないと己を恥じた。


「しかし良識ばかりを追い求めていては発展の妨げになる場合もある……加減が必要だな」


 呟く様に言って彼女は停止した昇降機から降り、すぐ目の前にあるやけに派手な色──朱色にしては紅梅に近い──の扉の前に立った。扉のすぐ脇にある丸い突起を押して、「玲彰だ。入るぞ」と声を掛ける。突起の上部の格子状の鏡板から何事か声が返って来た。

 他の局とは違い、仄音局は公共部分と中を繋ぐ内廊の前に既に扉がある。外部の者から見れば、壁に一つ扉があるだけの部署に見えるのだが、開けると内部はそう変わらないらしかった。音が漏れない配慮なのだろうか。

 廊下も扉も、禾管局の極彩色から来たからか殺風景なほどに普通だった。扉の脇に必ずさっきのと同じ鏡板装置がある以外は。


「ここはな。これから行く弦響室という部屋は中々興味深い造りだぞ」


 思わず感想を口に出すと、玲彰はそう答え廊下を進んだ。背中を追いながら、辺りがやけに静かなのを訝しく思う。


「倉嶋候もそろそろ到着している頃だと思うが──」


 廊下の途中で右に曲がり、すぐ左手の扉の鏡板の前でまた例のやり取りをして扉を開ける。

 中に入った途端香月は驚愕した。


「こ……これは確かに……」


 まず第一に天井がやけに高く、扉の外からは想像が出来ないほどに部屋は広い。これだけなら禾管局のあの部屋も広かったが、違いは向こうは全てが植物だという点だ。

 目映い装飾と見紛う内壁は、よく見れば所狭しと張り巡らされた金属管だった。中央には無数の把手と、真っ直ぐ上に向かって伸びる同じ数はあろうかという弦。


「まるで……大きな楽器の中にいるみたいですね……」


「玲彰様。それに香月」


 壮観に呆然と辺りを見回していると、部屋の中央から聞き慣れた声がした。ごく小さな空間に置かれた長卓と椅子の所に数人の人がいる。


「来ていたか、倉嶋候」


「おおっ、玲彰様! それに姫も来てくれたのだね」


 答えて玲彰が歩み寄るまでもなく、元良は上機嫌だ。今日もまた、目が眩む際どい茜色の柄物衣装を着ている。隣の鷹信が青朽葉に支子くちなし、という難しい色を優美に着こなしているだけに、一層対比が目立った。

 控える部下の術着が桔梗色なのは、どう見ても侯爵の趣味だろう。


「こんなに美的素材に囲まれるなんて、絵筆がないのが残念でなりません! どうですか倉嶋候、嵯峨局長とお二人で肖像画を描かせてはもらえませんか?」


「その話は後にしてくれ」


 あっさりと遮ったのは当人ではなく、玲彰だった。


「舜橙という患者の『声』を解析したと聞いてきたのだが」


「え、ええ。それはもう、興味深い内容となっておりますよ。もしかしたらこれは世にも稀な大発見になるかもしれません。まあお座りくださいませ」


 すげない扱いにも何故かむしろ嬉しそうに、元良は手元の分厚い紙と、細長い巻紙を指し示した。 全員が椅子に座るのを見届けて、「こちらが蓄音装置を解析にかけた結果です」と細長い方の紙を引き伸ばして見せた。小さな黒点が不規則に飛び散っている様にしか見えない。


「そして、これが解析結果を言語に変換したものです。阿の段一の音、という風に諧声数全てに区分けをしています。ひどく複雑な音声だ、というのがおわかり頂けますでしょうか」


 もう一方の百枚近くはあるだろうという紙には、言われる通り数字の羅列が何列にも重なって延々と書き連ねられていた。


「……まあ、複雑だという点は理解出来るが」


 玲彰も鷹信も今一つ理解しがたい、という顔をして元良に目をやった。


「しかし元良候、果たしてこれが人の喉から発せられるものなのでしょうか? 病と関係があるのかどうか、その辺りは判明したのですか」


「い、いえ。残念ながらそれはまだですが」


 慌てて「比較として、ごく平均的な人と、多重音声楽器の記録をお持ちしました」とまた別の書類を取り出した。

 眺めていた玲彰の眉がひそめられる。


「そうだな。人の肉声にしては舜橙のものは多重過ぎる。しかも音域というのか? 両者を見比べるに全く同じ『段』がない。人の耳には聞こえないというわけだな」


「仰る通りでございます。一体どれだけの諧声数を持っているのか未だ全ては判明致しません。これまで記録しただけでも数百を超えておりまして」


「入院してから今までの経過はどうなのだ。筋肉が衰える事に拠って、声帯への影響はないのか」


「はい。今の所は」


 同様に不思議そうに書類を見ていた鷹信は、隣の香月がさっきから一言も発していないのに気づいた。しかも何やら凍りついた表情をしている。


「香月? 何か気づいた事でもあるのか」


 返事はすぐには返って来なかった。忙しなく動く両眼からも、必死に書類を追っているのがわかる。


「……これは楽譜に似ていますね」


 言いながらも目は休む間もなく符号を追い続けていた。


「楽譜? もしかして琴のか」


「はい。通常琴は耳で覚えて会得するので、楽譜などはほとんど使いません。ですが文献としては遺して行くのです。弦の数だけ斗、為、巾といった風に名称が付いています。ですから音階は『斗二十一』、といった風に」


「おお、よく気づいてくれたね!」


 元良の頬が上気して赤くなっている。興奮しているらしい。


「流石琴の名手の血を引くだけはある。そうなんだ、再現しやすいだろうと思って楽譜の様に文字を当てはめてみたんだよ」


「再現出来るというのか?」


 玲彰が鋭く問いかけた。


「可聴域にまで諧声数を下げてなら、皆様がたにもお聞かせ出来ると思いまして」

 彼は書類を手に持ったまま背後に聳え立つ装置──先ほど香月が『巨大な楽器』だと思った──に近づいて、目の前の把手を次々と押し下げていった。


「まず短いものから。これが、数日前記録した『声』です」


 一旦手を止め、右端に一つだけ離れた位置の黒い把手を押すと、微かな機械音がした。

 次いで聞こえてきたのは、無機質な長音。

 元良は更に把手を押し下げる。こちらの把手は押されてもすぐに元に戻り、押されている間は音を奏でる、その作業を何度も何度も繰り返した。

 不協和音が室内にこだまする。


「本当に楽器に似ているな……すごい装置だ」



 呟く鷹信はだが元良を見ていなかった。香月の呆然とした横顔を見つめている。

 やがて小さく、彼女の紅い唇が動いた。


「……壺の一……那の五……」


 それきり口を噤む。短い元良の「演奏会」が終わる頃には、既に顔色がひどく悪かった。


「どうした、どこか具合でも悪くなったのか」


 鷹信が背中に手を当てて身体ごと支えてくれなければ、床にくずおれてしまったかもしれない。暖かい掌に安堵しながらも、香月は強く首を横に振った。


「い、いいえ。少し考えた事があって。……でも、まさか。きっと偶然です」


「考えた事?」



「可聴領域に下がった多重音を琴の楽譜に置き換えたのです。琴は一弦で何音も表現するので、弦によって段が決まっているのです。なので昔やった、ちょっとした遊びを思い出して段の符号を繋げてみたのですが……」


「いいから、話してみなさい」


 語調は少しも強くはなかったが、どこか叱責の気配を感じて彼女は戸惑った。見上げた鷹信の顔はいつも通り穏やかなのに。


「……このむすめをよくみておけ、と」


 遠巻きにこちらを見ていた玲彰も表情を険しくした。


「舜橙がそう『言った』のだな? 其方にか」


「い、いえ。これはですからただの偶然だと思います。いくら舜橙さんに特殊な能力があるとしても、音を下げる前提で使いわける理由がありません。それに第一、あの時話しかけていたのは刹氏という鳥ですし」


 引きつれた力ない笑いのせいか、二人の疑念を晴らすには全く用をなさなかった。

 考え込んだままの鷹信に、おずおずと声を掛けてみる。


「あの、もう大丈夫ですから。放して頂いても構いません」


「あ、ああ」


 鷹信は苦笑して手を離した。

 間近に彼の端整な憂い顔を長らく見る機会はそうそうない。心臓が早鐘を打っている。

 息苦しいのに、離れた気配をもどかしく思ってしまう自分がよくわからなかった。


「──ありがとう、ございました」


「いや。それよりも香月」


「え」

「舜橙がその時言っていたのは、本当にそれで全部なのか?」


「はい」


「そうか。いずれにせよ、彼は何かの目的に其方を必要としているのかもしれないな。言葉云々が偶然にしても、行動が不可解な点が多すぎる。出来るならもう直接は関わらない方がいいだろう」


「……そうします」


 元良の報告はその後もしばらく続いたが、もう香月には半分も頭に入って来なかった。他の二人は熱心に聞き入って時折質問を投げている。

 続きはないという返事が早すぎたのに、鷹信は気づいていただろうか。

 勿論、舜橙の言葉には続きがあった。とても口には出せない内容の続きが。


──鷹信様はやはり、全てをお見通しでいらっしゃる。


 昔、自身は楽器を演奏しない父が教えてくれた遊び。

 母から──師匠について琴を習い、一曲を弾けるようになった頃、父は言った。

 お前の母が教えてくれたのだと。


“この娘をよく見ておけ”


 ていしょうのもとへつれていくから


 だから恐らく、香月が気づいたのは偶然などではないのだ。

脚注:琴の楽譜は実際にあるものを参考にしたので、一部内容が異なっております。

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