青丹(あおに)
「仙丸がそんな事を?」
三日ぶりにようやく面会が叶い、芭墨の間で香月が直接の報告をすると、玲彰はほんの少しだけ顔をしかめた──様に見えた。
「まだ麻珍の盗難についての調査は公にはしていない様ですが……昨日の話なのでまだ何とも申せません。どうしたら良いでしょう」
「放っておけ」
「しかし」
「彼は恐らく問題はない、と思う。尾上に最後まで刃向かった男だ。万一それが、『奏』として研医殿に残る為の込み入った演技であれば話は別だが」
「も、もし『万一』の場合はどうなさるおつもりなのですか」
「いずれにせよ、麻珍を盗んで奴らが何をするのかが謎だ。私は最初、誰かをまた毒殺するのではないかと思っていたが。だとしたらとっくに誰かが殺されているのではないだろうか」
「玲彰様! 滅多な事を」
「だが事実だ。毒薬を使って今まで長塚は様々な人間を殺して来た。なのに今回はまだ誰も殺されていない。それもあって、手の者が他の目的で研医殿に残されているとも考えたのだが。『奏の鳴声』が尾上によってどこかに隠されていて、見つからないのだと」
彼女は椅子から立ち上がって室内を歩き回り始めた。元良が絵に描きたくなるのが頷ける流麗な後姿を目で追いつつも、香月は調査結果を報告する。
「薬庫内や局長室など探してはみたのですが、それらしい隠し場所がそもそも見つかりませんでした。調合室も器材が雑然としているだけで、鍵の掛かる場所は保管庫と部屋の扉しかありませんし。部屋は常に人がいます」
「保管庫は?」
「尾上が使っていた器材がそのまま残っています。一度必要に応じて使ってみましたが、ごく普通の器材に思えました。もちろん何かを隠している様な引き出しも見当たりませんし」
「ああ、あれか……」
「刑吏府より廃棄を命じられていない為残っていると、伺いましたが」
いや、と玲彰は振り返って怪訝そうにした。
「廃棄こそ命じてはいないが、処分は勧めたはずだ。誰がそんな事を?」
「局の者が、そう申しておりました。許可が出るまで、仙丸副局長が──」
説明する香月自身も驚きで言葉が続けられない。もう処分が決まっている?
「また奴か。解せぬな」
「話の行き違いという事はありませんか」
「私が直接言ったわけではないが、通達を出した。取り違えはしないだろう」
玲彰は立ったまましばらく何かを考えていた。
「局長室の書物は全て開いてみたのか」
「いえ──申し訳ありません。まだです」
床から天井までという高さの本棚、四方を埋める膨大な書物。全てを見るには圧倒的に時間が足りない。香月は肩をすくめた。
「いや、河西の病の治療の方が優先事項だ。引き続き調べてくれれば良い。もしかしたらあの書物の中に何か、手がかりになるものが含まれているかもしれないからな」
尾上の器材については、再度仙丸に聞いてみよう──そう言って彼女は机に近寄り、登記装置に何やら番号を打ち込んだ。
「お出かけになるのですか?」
「ああ。ちょっと二階の禾管局までな。行くぞ」
「えっ?」
香月が意味を飲み込めずにいる内にも、もう扉を開けようとしている。
「倉嶋候から話は聞いている。『食物から通常とは違う生物を育てる』とは面白い考えだと思ったのだ。新薬の開発の参考になるかもしれない」
廊下に出、歩きながらも非常に珍しい事だが彼女は嬉しそうに見えた。
「ああ、それで禾管局を──」
二階は農産業についての研究をする棟である。特に禾管局は穀物や果実など、食用のものを専門に育て分析する業務を行っていた。
「それはそうと、河西の容態はどうなのだ」
昇降機に足を踏み入れ、把手を操作しながら玲彰は話を変えた。
「薬が腐敗していたとか」
「……はい。投薬を一旦中止して、昨日新たに精製しなおしたものを与えて来ました。その時には熱は下がっていたのですが……ひどく消耗してしまっていて」
声の調子が暗くなるのを、極力押さえて何とか冷静に答えようとする。
「腐敗した方の成分も記録しているか?」
「一応は。斎条さ……局員も興味を示しまして、引き続き調査をする予定です。少し気になる事がありますので」
「気になる、とは」
香月は調温器の目盛が動かされていた一連の出来事を説明した。
「なるほど。特定の生薬に生える黴は、効能があるという実例かもしれんな。面白い」
「玲彰様っ」
「ああ、悪い。つい興味深くて」
白い頬が歪に引きつっている。言葉からすると喜んでいるらしいのだが、よほど笑い慣れていないのか。
「その嫌がらせの犯人も気にはなるが、全くの無関係という場合もある。引き続き警戒する必要はあるだろうが」
「はい」
「河西の病にしても栄養の悪い皐乃街の環境を思えば、これから行く場所に役立つ情報があるだろう」
そうこうしている間に昇降機は二階に着き、降りた二人を出迎えたのは至る処に草木の満ち溢れた緑の空間だった。
研医殿の吹き抜けの天井は玻璃が嵌まったものなので、光が射しているのはどの階も同じだが何故かここは最上階よりも明るく思える。緑の合間に見える色彩豊かな花々のせいか。
「廊下と壁にもこんなに緑が……」
壁の等間隔に立つ柱の合間にも背の低い木が植えられていた。
「植物同士に影響はないのでしょうか?」
あまりに四季の草花が乱雑に植えられていはしないか。
玲彰も苦笑している。
「あるかもしれんな。これも研究の為に行っているそうだ。種に拠って隔離して植えている場所もきちんとあるぞ」
こちらだ、と導かれるままに進んでいき、ある一室の扉の前で立ち止まる。
「周布。入るぞ」
言うなり扉を開けると、玲彰は躊躇なく室内に足を踏み入れた。
何の変哲もない白壁の部屋である。さっきまでいた空間を思えば、逆に不気味なほどに何もない。突き当たりに書類が積みあがった机と椅子が一揃いと、手前に白い瓶と布が載った収納匣が二つ。
「中の部屋にいるか。香月、ここで術着を着替えてくれ」
扉近くにある収納匣の一つを開けて、玲彰は花浅葱色の衣服を二つ取り出した。
「随分と目立つ色ですね……」
「花に見えない色がいいのだそうだ。虫が寄って来ないからな」
「虫──」
香月の顔がやや青ざめた。
それでも何とか着替えて、よく室内を見れば、部屋の左手壁側にもう一つ扉が付いている。匣の上にあった薬剤で手を拭い着替えて、準備が整うと二人は奥の扉を開けた。
「……これは凄いですね!」
余りに広々とした内部に、思わず驚嘆の声が漏れた。
整然とした列を成して棚が設置されてはいるのだが、上に載っている作物の鉢が各々の成長をしている為に密林の中を歩く感覚に見舞われる。
窓は他の部屋に比べて倍の大きさがあり、日差しが燦燦と降り注いでいた。
温度も調整されているのだろうがやや蒸し暑い。鳥の声や、虫の羽音もかすかに聞こえる。
「周布。どこだ?」
口元に掛けた布越しに玲彰が叫ぶと、部屋の遥か向こうから遠く男のものらしき声が聞こえた。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました」
かろうじて残っている通路の細長い空間を、こちらに向かってくる青い人影。
「玲彰様と、そちらは──」
「あ、はい。嵯峨と申します。お仕事の邪魔をして申し訳ありませんが、よろしくお願い致します」
「薬処方局の局長だ」
「ほお、局長会議でそう言えばお見掛けしましたな」
周布と呼ばれた男は布の境目から覗く細い目を少しだけ見開いた。歳の頃は四十代程度だろうか。室内勤務にしては日に焼けている。頭にも布を被っているので正確な年齢は判別しがたい。
「お若い局長だとは思っていましたが──いや、こちらこそよろしく」
本日は何の御用で、と彼は玲彰に問いかけた。
「『作物亜種』について話を聞かせてくれ」
「作物亜種?」
聞き返したのは、依頼された当人ではなく香月の方だった。
「食物について調べるのではなかったのですか?」
「そうだが」
周布は不思議そうに目をすがめた。
「嵯峨局長は、亜種についてご存知ないのですか。生薬原料にも亜種は存在すると思いますが……」
「いえ、存じ上げないわけではありませんが──今回の目的と、その」
噛み合わないのでは、と言いよどんだ。
そうですな、と彼は通路を奥に向かって歩き出した。二人にも来る様に促す。
「従来の『亜種』とはその言葉の通り、『二番目のもの』として標準種には劣ると思われておりましたからな」
中肉中背、小柄な彼はともすればすぐに草木の合間に隠れてしまいそうだった。
「あれを見てください」
ただそう言っただけなのに、香月は何を指しているのかすぐにわかった。
「な──何ですか、あの植物」
遥か向こうに生えているはずなのに、近くに思えてしまう。濃い緑色の楕円形の葉に、白い花弁。中央には丸い蕊がある。形自体は薬草の芳苓に似ているが、大きさは通常の数倍はあるだろう。
「芳苓の亜種です。気温と土壌成分の変化で稀に出来ますが、標準種に比べ遥かに薬効が弱く、生薬原料には向きません」
その代わり、種子が大きい為良質の作物として食べられるのだと説明した。
「主食の代わりにも出来るでしょうな。我々がよく食する粲の実よりも薬膳的な成分に優れています。数が少ないので、実用化にはまだ遠いのですが」
香月は思わず玲彰を見た。力強い眼差しが返って来る。
「ここは亜種ばかりを集めて研究している部屋だそうだ。其方の話を聞いてから、ふとここの存在を思い出してな」
あまりの衝撃に心臓が早くなるのを感じる。もしそうなら、色々な問題に光明を与えるのではないだろうか。
「では現在の亜種とは『標準ではないもの』全般を指すのですか?」
「良くも悪くも、そういう事になりますね」
熱のこもった香月の質問ぶりに、周布は楽しそうだった。
「芳苓の様に利用出来るものばかりではありませんが、食用果実の亜種に毒性があった、という報告もなされています。ここでの研究は亜種を人為的に確実に作れるか、というものなのですよ。中々奥が深くて日々試行錯誤です。しかし歴史は案外古く、遥か以前にも書物に書かれている位ですから」
「そんなに昔からされているものだったとは……知りませんでした」
特定の条件で育つ食物。特定の目的で育てられる生命。
脳裏に鷹信の言葉が蘇る。逸る心を宥めつつも思い切って聞いてみる事にした。
「あの、かつてここでは、生き物にも特殊な育て方をしたと聞いていますが。亜種食物を与えたというわけではないのでしょうか?」
その瞬間の何とも言えない雰囲気は、簡単には忘れられないだろうものだった。
周布は眉をひそめただけで答えない。凍りついた表情が、禁句だったのだと雄弁に語っている。
「そうだ。だが──今は行っていない。少なくとも以前行っていた様な、雛から亜種のみを与えるやり方は禁忌だ」
代わりに答えたのは玲彰だった。
「尤も、以前それを行っていた人物は毒草ばかりを改『悪』していたものだから、とても認められるものではなかったが」
「玲彰様、その事は」
周布は明らかに狼狽していて、見ているこちらの方が不安になる。
「隠しても仕方なかろう。長塚が亜種に興味を持っていたのは事実だ」
何故か突然に彼は一回り小さくなった様に見えた。悄然と肩を落としているからだろうか。
「……やっぱりそうだったのですか」
思わず口に出してしまってから、香月は慌てて「いえ、何でもありません」と打ち消した。
今はそれよりも、舜橙の病気について助言をもらうのが先だ。
「患者に亜種食物を与えるのは問題がありますか? 効能が認められているという事は、試したのですよね」
「その点は構わない。認定されているものに限られるが、詳しくは周布に聞いてくれ」
玲彰は黙って呆然としている彼を一瞥すると、「頼んだぞ」と声を掛けて部屋の扉へと踵を返した。
「玲彰様?」
「実はこれか仄音局に向かわなくてはならないのだ。元良が実験をするらしく、立会う事になっている」
其方も来るか、と問われて香月はほんの少し考えた。前回の記憶が蘇って少し気が引けたが、今日は鷹信から研医殿に来ると言われていたのだった。
「そうですね、お供させて頂いてもよろしければ。ぜひ」
「わかった。──周布、また後で来るぞ」
上司が重ねて声を掛けたにも関わらず、周布は返事をしなかった。あまりにも尋常でない様子に、迷惑なのだろうかと心配になる。
「周布局長、どうかなさったのですか」
「気にするな。行くぞ」
「は、はい。──失礼します」
振り返りもせず事もなげに言い放つ玲彰はもう扉を開けて外に出ていて、閉じそうになる隙間に慌てて手を掛ける。
最後にどうしても気になって後ろを振り返ったものの、緑の草葉に妨げられて、立ち尽くす周布がどんな表情をしているかは全く窺い知る事は出来なかった。