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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第四楽章
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滅紫(めっし)

 喜び勇んで局長室を出たものの、香月はすぐさまある問題に気付いて落胆した。

 新たな薬を、どうやって試すのか。

 通常は施術局に該当の患者がいれば、低量を投与し経過を診る。それがこの国では──研医殿では合法的な実験の仕方となっていた。

 だが今施術局に瘍頭の患者はいない。

 治りにくい難病に指定されているにも関わらず、だ。

 皐乃街内では珍しくない病でも、一般的には不名誉なものと忌まれている。故に入院して来るのは皆無に近かった。


「いいんじゃないですか? 場所が変わるだけで道義的に何が変わるわけでもなし」


「で、ですが斎条さん。外部の患者に試薬を投与するのは禁じられているではありませんか」


「そんなもの、事後承諾ですよ。上手くいってもいかなくても、何かしら罰は受けるでしょうがね──もしかしたら登殿資格を剥奪されるかもしれない」


 あまりにあっさりと言い放つものだから、驚愕を通り越して唖然としてしまう。例え薬庫内にての二人きりの会話であるにしても、不遜に過ぎはしないか。

 二種類の薬を作る為に調温器を操作していた彼女の元に、丁度「薬がそろそろ出来る頃かと思いまして」と斎条がやって来た。

 迷っていた事もあって、実践経験が自分より遥かに多いであろうからと相談してみたのだが。


「僕も最初は黴のせいで発熱したのなら使えないと思ったのですが。局長の話で納得しました。一時的なものでしょう、むしろ完治出来なかった瘍頭の治療の第一歩かもしれませんよ」


 腕組みをしてどこか思案げに、煙る様な金色の睫毛を伏せて調温器を見つめる。

 不意に視線を上げてこちらを真っ直ぐ射ぬいた。


「従来のやり方では、彼女は生涯瘍頭を宥めながら生きていかねばなりませんよ。そこまで快復出来るかどうかもわかりませんし」


「……かもしれません。それでももし、失敗したら。姐さんは一体どうなるか」


「局長が恐れているのは『失敗』ですか? それとも彼女の死?」


 香月は改めてまじまじと斎条の顔を見つめた。

 返される笑顔は無邪気そのものとしか言いようがない。


「……両方です。ただでさえ人で薬を『試した』事などないので。危険な賭けに自分ならばともかく、誰かを巻き込むなど……」


「なるほど。そうでしょうね」


 斎条はまたもあっさりと「ではこの話はなかった事にしましょう」と返した。

 唐突な話の終了に鼻白みはするものの、決断出来なかったのは自分だ。食い下がるわけにも行かなかった。


「……そうですね」


「薬、皐乃街に届けるのでしょう。お供してもいいですか?」


「は、はい」


「変質した方の薬は廃棄しますよね。もし良ければその前に僕も見たいのですが、お借りしても?」


「構いませんが……」 


 先日の事もあるから、彼が手伝ってくれるのは嬉しかった。自分一人よりは、遥かに心強い。

 それにしても新薬の開発に関わっている上に患者の投薬を担当している斎条は、本来なら身体が空く暇もない程忙しいのではないだろうか。

 局員の誰もがそう掛け持ちをさせられるわけではない。患者を任されるのは能力に一定の信頼を置かれている証だ。

 だからこそそんな人物を個人の都合で振り回すのはためらいがあった。


「あ、気にしないでください。新薬は手詰まりだし、舜橙さんに関しても今は様子見です。あまり急ぐ仕事もないですし」


 これは全くの僕の学術的好奇心というものですから、と彼は香月の心配を読み取ったのか付け加えた。


「非常に興味深い──といったら不謹慎になるかもしれませんけど。瘍頭患者はなかなかお目に掛かれませんからね。局長がもしご迷惑でなければ、補佐させて頂きたいです」


「そ、そんな。迷惑なんて事ありません。むしろとても助かります」


「本当ですか? だったら良いのですが」


 満面に喜色を浮かべる様子はあどけなくさえ見えて、とてもさっきまで冷静に禁忌を破ろうなどと言っていた人物とは思えなかった。


「薬、すぐに持っていくのですか?」


「そうですね、出来るだけ早く──夜が来る前に渡せればいいのですが」


 香月が調温器から薬を取り出した時、いきなり背後の扉が開いた。


「……ああ、これは邪魔をしてしまいましたか」


 恐らくは耳に快く響くであろう声なのだろう──聞く者が自分でなければ。

 だが生憎と香月には不吉の前触れにしか思えない。思わず身構えてしまった。しかも声の持ち主は相変わらずひどく不愉快そうだ。


「いえ、構いません。調温器を使うのでしたら、どうぞ」


 脇に避けた上司から視線を外して、仙丸の冷ややかな双眸は部下へと照準を変えた。


「斎条。お前処方箋の変更報告出したのか? 私はまだ見ていないが」


「あ、はい。石動いするぎさんがお休みで承認を頂いておりませんでした」


「今日彼女は登殿しているだろう。確認して来い」


「わかりました。──局長、まだ外出はされませんか?」


 会話の後半、斎条は香月に顔を向ける。


「は、はい。午前中はもう無理かと思いますので、ひる過ぎに出る予定です」


「午過ぎですね。では後程」


 にこやかに彼は立ち去り、薬庫内には香月と仙丸の二人が取り残された。

 彼女もまた薬を掴んで足を踏み出し、扉付近に立ったままの彼をそそくさとやり過ごそうとする。

 扉の把手に横から手が伸びて来た。金属音と共に内錠が下ろされる。


「副局長……」


「局長にはお話があります」


 全身から剣呑な気配が立ち上っていて、一気に香月の緊張が増した。


「話なら、局長室で伺います」


 冷静を装っても、どうしても声が硬くなる。


「いえ、ここがちょうどおあつらえ向きです。実は最近、薬庫から定期的に薬が紛失しているので、内密にご報告申し上げるつもりでした。──もしかしたら、局長はすでにご存知だったかもしれませんが」


「それは」


 彼女は己の迂闊さを責めたくなった。

 仙丸が有能な副長なのはわかっていたではないか。自分などよりもよほど局内を把握している、薬の在庫に目がいかないわけがない。遅かれ早かれこういう展開になるはずだった。なのにただ黙っていて、自分が調査すれば済むだろうと心のどこかで思ってしまっていた。

 尤も、彼自身が犯人である場合はそれはそれで黙っているだろうと、高を括っていたというのもある。


「やはりご存じだったのですね。何故ご自分の胸に収められていたのか、理由を伺ってもよろしいですか?」


 問いかけの形を取ってはいたが、明らかな弾劾だった。


──では仙丸は犯人ではないのだろうか。


「……まだ、確証を掴めていなかったのです」


 本当は玲彰から極秘裏に依頼を受けたものの、頓挫していたとはとても言えなかった。

 調査が滞っていたのは事実だからだ。


「確証? 現に麻珍は減失しているではありませんか。本来ならこれは局員総出で犯人を挙げるべき大不祥事ですよ」


 声を荒げないところがまた抑えられた怒りを如実に表していて、反論が出来ない。

 黙ったままの上司に、仙丸のただでさえ険しい眉間が一層狭められた。


「それとも、隠さなければならない理由でも? まさか、局長ご自身が持ち出されているわけではありませんよね?」


 この場をどうやり過ごそうかと視線を外していた香月は、驚きに顔を上げた。


「違います! 私ではありません」


「では黙って減るに任せていた本当の理由は、何ですか? まさかこんな風に疑われるとは、露ほども思っていらっしゃらなかったとでも?」


「黙って見ていたのではありません。上には報告してあります、しかし」


「局長が玲彰様から何を言われているにせよ、私には私の責務があります。発見してしまった以上、見過ごすわけには参りませんね」


 踵を返して部屋を出ようとする仙丸に、香月は追いすがった。


「待って下さい、どちらへ」


「局員に盗難だと公示します。明るみに出ればなりを潜めるか、逆か。何らかの行動を起こすでしょうから」


「今は駄目です。せめて玲彰様に改めてお話をしてから──」


「局長ご自身はどうお考えなのですか?」


 漆黒の瞳は蔑みの色をたたえてこちらを覗き込んでいる。少なくとも永久凍土と冷たさ争うのではと思える位に。

 局長室で喉元を絞め上げられた時の恐怖が蘇って、香月は瞬時に身を引こうとした。

 その手首を掴まれる。


「──放して、ください……っ」


「誰を疑っているのか、聞かせて下さい。そうしたら放します」


 強く引き寄せられ、息が掛かるほどに顔が近い。困惑して見上げ、迫力に呑み込まれそうになる。悲鳴にも似た声が漏れた。


「ですからそれは……っ、まだお話出来る段階にないと申し上げているではありませんか。情報が集まれば皆さんにも知らせます」


「──貴方の行動は迂遠に過ぎる」


 手首を握る力は強く、精一杯抵抗しても振りほどけない。


「玲彰様から直々に命を受けたのではないですか? 皐乃街にばかり目を向けられている様ですが、手が回らないのでは?」


 真正面から『手際が悪い』と批判されて、香月の忍耐が限界を越えた。

 何故ここまで、執拗に責められなければならないのだ。

 それに──似ている。仙丸の目は冷たいのに──かつて自分はこんな眼差しに始終さらされて夜を恐れた──

 幻惑だと、振り払って彼女は声を精一杯荒げた。


「昨日、この調温器に触れませんでしたか」


 仙丸が眉をひそめる。指し示された器材を眺めた。


「いいえ。これがどうかしたのですか」


「設定した温湿度とははるかに違うものになっていたのです」


「まさか。では乾燥に失敗して、腐っていたと?」


 疑いの被膜が覆う目で見れば、彼の狼狽はひどく真に迫っていたと言わねばならない。


「一体誰がそんなくだらない真似を」


「貴方では、ないのですか。鍵を自由に出来る人間は限られています」


「馬鹿な!」


 苛立たしげに、短く吐き捨てる。


「鍵ならば許可を得られさえすれば誰でも手に入れられる。局員の誰かを抱きこんだ外部の人間の可能性も考えればさらに広がります」


「しかし。実際ここしばらく薬庫の出入りを観察していましたが、妾の他には貴方と斎条さんしかいません。記録簿だって」


「一日じゅう見ているわけではないでしょう。第一そこまで邪魔をするほど、私は暇ではない。生薬も無尽蔵ではないし、無駄にする様な愚挙は致しません」


 「非効率な行動が大嫌いなので」と鼻で嗤う態度は決して好印象ではないものの、嘘を言っている様には見えなかった。


「……なるほど、そういう事でしたか」


 香月の手が、突然開放される。

 弾みで軽く一歩、後ろによろめいてたたらを踏む。掴まれていなかった右手で解放された左手首を擦った。抵抗していなければ、恐らくは彼にぶつかっていたのではないだろうか。


「どうやら、疑われているのは私の様ですね。ならば気を付けた方がいい」


 仙丸はくらい愉悦をたたえた笑みを浮かべた。


「周りの者を信用してはなりません。貴方が見ているものは恐らく、真実ではなく『誰かに見させられているもの』だ。あまり寄り掛ると、霧が晴れた時にその『誰か』に捕まってしまうかもしれませんよ」


「……何が仰りたいのですか」


「つまり私も貴方を信用しないと言う事です。こちらはこちらで麻珍を持ち出した犯人を捜しますので」


 扉の錠を開け、把手に手を掛けた。


「副局長! お願いですからこの事はまだ、公開しないでくださいませんか」


 それは確約出来ませんね──一瞬だけ顔をこちらに向けたものの、捨て台詞を残して彼は部屋から出ていった。


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