一斤染(いっこんぞめ)
「河西に飲ませた薬は、それで本当に腐敗していたのか?」
香月は悄然とした面持ちで、鷹信の問いに「はい」と力なく答える。
朝からずらりと料理の並んだ食事にも、少ししか手を付けていない。食欲がないのは昨日の疲労が取れないから、だけではなかった。
昨日あれから彼女は皐乃街から取って返し、薬の検査に取り掛かった。
だが原因を突き止め代わりの薬を作るという作業はひどく時間が掛かり、倉嶋邸に戻ったのは夜十一時を越える辺りだったと記憶している。
前日に引き続き夕餉も摂らずに自室に直行した為知る由もなかったが、鷹信が自分が戻るまで眠らずに待っていたのだと翌朝苑寿が教えてくれた。
心配させない為に「今日は遅くなりますので食事はいりません」と、供の者に連絡させたのが仇となったらしい。気遣いへの礼と一緒に、香月は昨日の出来事を彼に相談した。
「検査の結果では、ごく少量の黴が発生していました。本来あるはずの薬効成分が黴に食べられてしまった様です。本来すぐさま乾燥させるものなので、見た事のない種類のもので……姐さんの熱はそのせいだと思います。瘍頭は抵抗力を奪いますから……」
「私も河西が熱を出して寝込んでいると、報告を受けていたからちょうど昨日其方に伝えようとしていたところだったのだが……まさか薬に原因があったとはな。他の原因の可能性はないのだな?」
香月は頷いた。
「だとしたら確かに、今の所は仙丸殿が一番怪しいという事になるな」
それまで手にしていた箸を止めて、鷹信もまた渋面を作って考え込んでいる。
「麻珍毒の盗難についても、犯人はまだわからないのだろう。同一人物の可能性も捨てきれないが、だとしたら河西の薬については目的が不明だな。一体何の得があるのか……」
目的、の言葉に香月の表情は一層暗くなった。
「──妾を排除したいから、かもしれません」
「香月」
「卑屈で言っているのではありません。実は仙丸様は私が局長の地位にいるべきではないとお考えなのです。新薬の開発にも関わって欲しくないご様子でした。姐さんの方が心配だったから、構わないと答えたのですが」
望み通りに引き下がったのに。唯一の目的さえも、奪おうと思われるほど嫌われていたのだろうか。
鷹信はどこか納得いかない様子だ。
「まだ尚暁殿が犯人と決まったわけではないだろう。それに彼は──」
言い淀んで口を閉じる。
「鷹信様……?」
「いや、何でもない。ただ、私にはどうしても尚暁殿が其方を憎んでいるとは思えない理由があるのだ。他の犯人の可能性も考えた方がいいと思う」
何か含みを持たせた様子に、香月は眉をひそめた。
きっと鷹信は知らないに違いない。仙丸の外面の良さは身に沁みて知っている。
だが流石に、彼よりも玲彰の近くにいる自分に嫉妬しているのでは──などとは言えないので言及は避けた。
「ところで香月、麻珍毒は苦味無臭の白色の粉末と聞いているが、河西の薬の方はどうなのだ」
「え、はい。そうですね……色は少し黄味がかっているでしょうか」
「ではすり替える事も出来ないか。麻珍毒を盗んだのなら、必ず彼らは誰かをまた毒殺しようとすると思ったのだが」
今はとにかく薬庫から目を離さずにいるしか方法がないな、と彼は視線を香月から外して宙に泳がせた。考え込む時の彼の癖だ。
だが程なくして再び香月を見据えた時には、その顔には柔らかさが戻ってきていた。どこか悪戯を考え付いた様な笑みさえ浮かべている。
「私の部下を入れられれば良いのだが、玲彰様は許可を下さらないのだ。技術者以外を入れると、薬の管理の妨げになりかねないと。だが用事の『ついでに』私自身が薬処方局に出向くぐらいは構わないだろう」
鷹信の提案は、驚くと共に香月の心に希望を与えた。
「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「迷惑などではないぞ。元良候の研究も常々興味があったのでな。いつも亳令宮で報告を聞いているだけだから、そちらも見たいと思っているのだ」
河西の命に比べたら、もう自分のささやかな矜持など取るに足らないとしみじみ思う。
このお方ならきっと、という絶対的な信頼が彼女の中にはあるのだった。
「元良候の研究──舜橙さんという患者を観察して、『声なき声』の仕組みを調べるというものですね」
ああ、と彼は頷いた。
「聞けばその患者は、普通に話す事が出来ないそうだな」
舜橙の存在を思い出して、ふと香月は浮かんだ疑問をそのまま口に出してみた。
「あの、唐突に思われるかもしれませんが。長塚伯の研究で、その……彼の様な人を『創った』という事例はないのでしょうか」
自分の父を知っているという様子を見せた、特殊な能力を持った人間。『げんきゅうてん』という言葉、そして知られる以上の大きさの刹氏。
もし舜橙が尾上の仲間で、患者として研医殿に潜り込んでいたとしたなら?
だがその疑問は、鷹信の次の言葉で雲散霧消してしまった。
「いや、そこまでの報告はないな。言いたい事はわかるが、聞けば舜橙という患者は筋肉が衰えて病室付近しか動けないのだろう? 薬庫まで行って麻珍を持ち出すのは難しいだろう。万一演技であったとしたらすぐに姉小路に知れるだろうし」
「そうですよね……」
様々な検査の結果で彼は「月下病」と認定された。確かに身体の成分まで偽るなど無理だろう。思わず落胆を顔に出してしまった香月に、鷹信は優しく言った。
「あまり気落ちするな。念の為舜橙の身元を調べてみるといい。姉小路に言えばすぐにわかるだろう。全ての可能性を一つ一つ、消して行けば進展もあるかもしれない」
「はい」
「長塚の研究内容は確かに謎の部分がまだ多いのだ。知られているのは『特殊な食物を摂らせて生き物を変異させる』と『異種の生命の肉体を繋げる』というものの二つだった。後者は研医殿で成功例を見ない内に終わったらしいが、前者はある程度成果があったという」
香月はすぐに反応出来ずに戸惑っていた。想像もつかない実験である。世の役に立つというよりは、単に知的好奇心の満足の為ではないのか。
と同時に、やはり、と確信めいて頭の隅をよぎるものがあった。
「勿論『特殊な食物』の中には、毒の存在もあった。元々、ごく微量な毒を摂取して耐性を付けるのは王侯貴族の中でも伝わっていたが、彼はそれを更に強化させていったのだ。実験された対象は毒を以ても殺せないし、爪に毒を仕込んでも全く身体に害をなさないそうだ」
香月は尾上が皐乃街で河西を人質に取った時の事を思い出していた。
考えてみれば、毒は皮膚からも吸収されるものもあるのだから、その様な事情があったのだとしたら頷ける。あの時は何か爪に細工をしていたのだと思っていたのだが。
「で、ではもしかしたら」
思考が先走って、熱中のあまり今が出勤前だという事もすっかり脇に追いやっていた。
「通常よりも大きな生物なんかも摂取によって創れていたのでは──」
「姫様?」
横から声がしてふとそちらを見ると、苑寿が唖然とした顔で自分と鷹信を見つめていた。
「お二人とも、特に姫様はご出勤の時間ではないのですか? それにまあ何です、食卓で話す様な内容ではないでしょう!」
「あ、ああ済まない」
「ごめんなさい、苑寿」
二人はそれぞれ「職場」に向かうべく、逃げる様に席を立った。
「香月」
馬車に乗ろうと廊下を急ぐ背中に、同じく執務殿へと歩いていた筈の鷹信の声がした。
「行って参ります」
振り返った視線の先に、自分を見送る姿がある。
「ああ。気をつけて」
「頑張れ」とは言われなかったが、柔らかく向けられた微笑みはそれまでの疲れなどどこかに吹き飛ばしてしまうぐらいの威力を持っていた。
「はい!」
花の蕾が綻ぶのにも似た嬉しげな表情を浮かべて、香月は身を翻し屋敷を出て行った。
※※※※
新しく出来た薬を乾燥させる間、香月は外出を控えて局長室で仕事をするふりをしつつ外を伺うという方法を取った。覗き窓があるわけではないが、廊下を薬庫に向かう人の足音ぐらいは聞く事は出来る。今日は仙丸達は終日新薬の打ち合わせの筈だから、薬を取りに来る者は限られていた。
──そんなに打ち合わせばかりで、一体いつ実験に取り掛かるのだろう。
不思議に思ってさりげなく斎条に聞いてみると、「どうも方向性が定まらないんですよ」と複雑そうに返って来たものである。
「病を治療する薬なら、今までも散々作って来ましたからね。それに通常の業務も同時進行しなければならないので、中々まとまらないのですよ」
皐乃街での一件以来、斎条の態度は以前よりも気安くなった気がする。少なくとも、腫れ物を扱う様な不自然さはなくなった。河西の病状も、熱はまだややあるらしいが大分落ち着いたと聞く。後は新しい薬が完成すれば、今度こそ回復するだろう。
そうすれば、自分は長塚の残党探しに専念出来る。
香月は机の上にある玻璃の器に目をやった。昨夜散々調べた、腐敗した薬。器には蓋がされて密封状態だ。まだ縦置き型の拡大鏡の下に置かれている。
──姐さんの口から採取した組織片を入れたら、黴が一気に増殖した。それを撃退する為に熱が出たのだろう。
苦々しく思いながら器の中身を眺める彼女の目が、やがて驚きに見開かれていく。
昨日は見えなかった状態に、粉末が変化していたのだ。
「……これ……!」
慌てて拡大鏡を覗き込む。
確かに黴は増殖して組織片の周囲についていたのだが、肝心の組織片の色が昨日とは全く変わっていた。
瘍頭の患者にありがちな鈍い色ではなく──まるで、健常な人間のものの様に。
──そんな馬鹿な。でも、もしかしたら。
黴は異物だから、人の体内に入れば抵抗する力が働く。健常な人間ならば何事もなく速やかに排出されるが、抵抗力が落ちている場合一部を侵食され、身体は撃退しようとして戦う。それが発熱の正体だ。
黴には種類があり、薬処方局内でもまだ全てを発見したわけではないと言われていたが──
今までは、これらは毒にも似た扱いをされてこそすれ、治療に役立つという概念はなかった。
──昨日の調温器の温度、数値は確か。
心臓が早鐘を打っている。落ち着こうと深く息を吸った。
机の引き出しを探って、覚書を探す。実験結果を書きとめた記録の中に、書いておいた筈だ。
「……あった!」
半分だけ完成させて、もう半分はあえて黴を生えさせる。
後は河西の病状次第だ。元の薬で回復する様なら、なくなるまでにまた作ろう。その間に研究を進めればいい。
香月は覚書を掴むと局長室を出て薬庫へと向かった。