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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第四楽章
13/25

鳥の子(とりのこ)

 薬処方局の重大事──

 彼の言葉で真っ先に香月の頭に浮かんだのは、先日発覚した麻珍毒の減失だった。


「い……」


 薬庫に入り、後ろ手に扉を閉めながら次にどう言葉を継ごうと考える。

 先に入室した斎条は、足早に部屋の中央の卓近くに歩み寄ってこちらを振り返った。

 何か質問しなくてはと気ばかりが焦る。万一違う内容だった場合には、重大事項を漏らす羽目になってしまうのだ。慎重にならざるを得ない。


「一体──どうしたと言うのですか」


 結局紡がれるのは、狼狽を押し隠した陳腐な質問だった。


「僕は今日、調温器を使おうとして管理簿を見たのですが。最後にこれを使ったのは局長ですよね?」


「え……ええ」


「変な事を訪ねるとお思いになるかもしれませんが──薬は大丈夫でしたか?」


 質問の意図を量りかねて、香月はやや困惑した。


「確かに散薬を乾燥させる為に使いましたけど……大丈夫、とは何を指して仰るのですか」


 こちらに来てください、と差し招かれるままに調温器の側に寄る。

 機械に特に変わった様子は見られない。一昨日開けた時と全く同じ温湿度を保っているはずだ。

 と思いつつ、正面にある計器部分の数値を観察していた香月の面が凍り付いた。


「──これは」


 湿度が変更されていた。

 しかも通常の適湿度を遥かに超える数値に。

 生薬を粉末状にした散薬だったが、手順としてはまだ水分が多少ある為腐りやすい。故に直前まで決まった湿度で乾燥させ、一種の「蓋」を粒子に行うのが通常だった。それを。

 言葉もなくただ驚愕に立ち尽くす上司の前で、斎条もまた不安気に機械を見下ろしていた。


「もし、もう薬を誰かに渡してしまったのでしたら──至急ご確認なさった方が宜しいかと」


 視界が暗く傾いで、無意識に香月は近くの卓に手を突いた。


「だ、大丈夫ですか」


 斎条の腕が身体を支える。自分のものとはまた違った、薬の匂いが鼻腔をくすぐった。それすらも眩暈を覚える程に息苦しい。

 何とか押し退けて立ち上がるのにどれ程時を要しただろうか。


「すみません……大丈夫、です」


 混乱した頭で昨日の経緯を辿る。

 そんな筈はない、と結論はすぐさま彼女自身を打ちのめした。念入りに何度も確認したのは間違いないのだから。

 しかし現実に機械は一目瞭然の異常を訴えている──となれば、考えられる可能性は二つ。


「故障ではないと思います」


 考えを見透かしたかの様な言葉には答えず、香月は駆け出していた。


「局長!?」


「後は頼みます。すぐに戻って来ますから!」


 故障でなければ、誰かが故意に装置に手を加えた可能性しかない。

 だが今は──今重要なのは、そんな事ではなかった。

 局長室にとって返し馬車を呼んだが、退勤の時間でもない為手配には時間が掛かる。

 登記装置に「外出」と打ち込み、出入口前で歯噛みしながら用意が整うのを待った。

 ようやく目の前に馬車がやって来て、乗り込もうとする時に背後に人の気配を感じて振り返る。


「僕も付いていっていいですか」


「斎条さん?」


 青年は何処かふてぶてしく──といっても元来が菓子のごとく甘い風貌なのであまりそうは見えないが──笑って、当然の様に馬車の扉を上司の為に開けた。


「僕一人ぐらい乗れますよね。こんな立派な馬車なんですから」


「え、ああそれはそうですけど……」


「薬庫はきちんと元通りにして来ました。調温器は後々の為にそのままですし。ああ、きちんと外出の登記はしてきましたのでご心配なく」


 戸惑いと焦りに判断を躊躇っている内に、彼は軽々と馬車に乗り込み、香月の向かい合わせの席に座った。

 役割を取られた馬丁が困惑の面持ちで室内を覗き込んでいる。


「お嬢様、宜しいのですか?」


 一瞬の沈黙の後、香月は「ええ、出してください」と答えた。

 細かい事は後で考える事にしよう。今は河西の病状が心配だ。


──もしあの薬が腐っていたら、一体どんな反応が出るのか計り知れない。


 単に効かないというのであればまだ救いはある。もう一度作り直せば済む事なのだから。

 しかしこれまで、そんな初歩的な過ちで出来たものを患者に与えた経験はなかった。結局、実践で患者と向き合う機会自体が、香月はこの目の前の青年にも及ばない。


──だから仙丸様は、あの様にお怒りになったのだろうか。


 実務経験もないくせに、とかつて言われた記憶。

 彼の罵倒は事実だった。

 信念そのものに揺るぎはなくとも、自分には圧倒的に足りないものがある。


「……先ほど言いかけた事なのですが」


 香月は思わず視線を上げた。斎条はまたも深刻な表情に戻っている。


「故障ではないと思う、という話の続きです。調温器は解体していないので、あくまでも憶測に過ぎません」


「え、ええ……」


 走り出した馬車はまだ王都の整備された路を走っている為、中は静かなものだった。緊張感がそのまま伝わる程に。


「しかも非常に申し上げにくい事で……昨日、局長が施術局に行かれた後に副局長が薬庫に入るのを僕は偶然見かけました」


 まさしく考えていた人物の話題に、香月は息を呑んだ。


「仙丸様が?」


 斎条は頷く。


「局長が施術局に向かわれたのは、恐らく昼二刻辺りでしたよね」


「そうですね……多分、その頃だったかと」


 研医殿を出る時に時計を確認したが、後は漠然とした記憶だった。河西の薬は昼過ぎに完成したのは間違いないので、逆算すると恐らく二刻かもしれない。


「僕は業務に必要な薬剤を求めて薬庫に向かったのですが、ちょうど部屋に入る副局長を見かけまして。施錠等面倒なのでこれ幸いと、後に続いて入ろうと思ったのですが──」


 すぐさま扉は閉められてしまい、しかも中から再び施錠する音が聞こえたという。


「普段はそんな厳重にはしないでしょう? これは迂闊に入っては大目玉を食らうなと思いまして、僕はまた別の作業をして時間を置いたのです。結局そっちの作業が難航して、入れたのは夕四刻前でしたが」


 言い終わって流石に決まり悪そうに「もしこれだけなら、僕も何とも思いません」と付け加えた。


「でも副局長は最初から局長を目の敵にしていました。正直どちらの肩も持つつもりはなかったけれど、余りに大人気ない。──今回の事も、あの人ならもしかしたらと思ってしまって」


 香月は答えられなかった。

 心配そうに見つめる斎条の目が反応を待っているのに、答えるべき言葉の何ものも浮かばない。

 それから皐乃街へ到着するまでの一刻の間、遂に彼女の口が開かれる事はなかった。


※※※※


 もうそろそろひるを迎えようかという皐乃街は、陽光にさらされてただの街と化していた。他のそれとは違うのは、大路はひどく閑散としている所ぐらいである。

 初めて遊里に入るらしく物珍しげに市中を見回す斎条に構わず、香月は真っ直ぐ河西のいるであろう切見世に急ぎ足を向けた。

 鷹信がどの様に手配したのか、具体的には何も聞いていない。一日一度見回るものなのか、それとも始終誰かを張り付かせているのか。

 一見周囲に誰もいないと思える荒家に辿り着いて、恐らく前者なのだろうと考えた。

 近寄るにつれ、香月の不安は増大していった。

 格子の中に河西がいない。


「姐さん!?」


 駆け寄って格子を両手で鷲掴み、顔を食い込ませて中を窺う。六畳ばかりの部屋は汚れた布団が敷き詰められていた。

 年中取り払われる事はないのだろうと思われる床には、今はほとんど使われている気配はない。だが一つ、一番奥にあるものが小さく膨らんでいた。枕に流れる、もつれた黒髪も。


「河西姐さん!」


 入り口を探して左手に回る。格子の横手に段差のある上がりかまちを見つけて中に踏み込んだ。

 家の中は静かだった。人が息をしている気配など感じられない。


──まさか。


 枕元に近寄り、横たわっているのが紛れもない河西その人だとわかる。

 身体の芯が一瞬にして冷え、震えが襲って来た。


「局長! しっかりして下さいっ。まだ生きてますよ!」


 悲鳴を洩らしかけた香月は、すぐそばにある顔に驚いた。

 我に返って初めて、自分が彼に抱えられていると気づく。


「──ほら。きちんと呼吸もしています」


 いきなりの抱擁に何の言及もせずに香月から手を離すと、斎条は膝を付いて河西の額に手の甲を当てた。


「しかし熱が高いな……皮膚に硬結こうけつがありますね。瘍頭の症状に似ていますが、そうなのですか?」


 落ち着き払った声と眼差しに、彼女もまた何とか平静を保とうとする。


「は、はい。此処から動かせず、まだ血液を調べてはいませんが。実際に聞き知る瘍頭の初期症状にそのまま当てはまります。……なので硬結と腫瘍を防ぐ調薬をしました」


「成程。潜伏時期は?」


「一昨日診た時はまだ第一期程度のものでした」


「第二期には発熱するとも聞いていますが、そんな短期間で転換するとは考えにくいですね……これはやはり、薬が変異していたのかもしれません」


 悄然として床に座り、膝に両の拳を握り締めて香月は俯く。

 ごめんなさい、と小さく呟いた。

 堪えていた涙が頬を伝う。


「妾の、せいで」


「──局長」


 どうしてこうなるのだろう。

 これは自分の考えが甘かったという事に対しての罰なのだろうか。だとしたら、河西を巻き込むなんてあんまりだ。

 頬を撫でる感覚がした。斎条が零れ落ちた涙を布で拭って苦笑している。


「先ほどの話ではありませんが……副局長が貴方について話していた通りですね」


 まだ諦めなくても大丈夫ですよ、と柔らかく微笑んだ。


「局長は何て言うか、懸命過ぎて危なっかしいです。此処に付いてきて正解でした」


「斎条さん……?」


「とりあえず薬は止めて、解熱薬を飲ませましょう。残りを持ち帰って調査する、今はそれが急務ですよね」


 言って彼は上着の懐から小さな玻璃の器を取り出し、更に蓋を開け中から匙を取り上げた。河西の口元に向ける。

 僅かに開いた唇の隙間からそれを差し込んで、掬い取る仕草をした。

 静かに抜き取った匙をまた器に戻し、そのまま香月に手渡す。


「血を採れないのであれば、何か手がかりになるかもしれません」


「何と言っていいのか……色々とありがとうございます」


 きっと自分一人では、脆く心砕けていただろう。

 座ったまま深々と頭を下げると、すぐさま手を添えて顔を上げさせられた。


「気にしないでください。僕も最初は局長みたいな状態でしたよ。今でもこんなんですし」


 それより患者の看病ですが、と表情を改めた。


「誰か傍に付いていてあげないといけませんね」


「薬を飲ませる様に頼んでいる人が少し離れた場所にいるから、聞いてみます」


 立ち上がろうとして、香月はふと傍らの河西に目を向けた。

 化粧すらもしていない血の気の失せた面は皮膚も荒れていて、瞼は微動だにしない。それでも耳を寄せると、僅かながら呼気が感じられた。


「……姐さん、また来ます」


 重ねての謝罪も励ましも、今は無意味に思えたから──短く、それだけを。

 立ち上がり斎条の待つ戸口に向かう。と同時に、近づく第三者の足音に気づいた。


「おや、またあんたなの」


 二人の目の前に立ち塞がったのは、先日見かけた端遊女だった。

 女は相変わらず不躾な視線で香月をひと撫でした後、斎条を穴が開こうかという程眺め倒した。


「こちらの兄さんは何だい? まさか端女郎を買う趣味があるとも思えないけど。あんたの情夫かい」


 斎条は目を白黒させている。白粉に血の様な口紅。襟を大きく抜いた背徳的な着物姿の女に、面食らっているらしかった。


「どちらも違います。──それより姐さん、お願いがあるんですが」


「は?」


 あの人を、と香月は部屋の中の河西を指し示した。


「見守る程度で構いませんから、看病してやってくれませんか。定期的に他の人も来ますが、それ以外の時に何かあるかもしれないので」


「ああ、あの瘍頭持ちかい?」


 冗談じゃない、とその渋面が物語っている。


「瘍頭は一緒にいるだけでは伝染りません。私達は医者です、安心してください」


「でもねえ、あたしも結構忙しいのよ。あんたそんな事言うなら、さっさと引き取れば?」


「もう少ししたら引き取ります。短い間だけでいいんです」


 煮え切らない女の態度は、香月が懐から金子を取り出すや否や豹変した。


「ああ、わかったよ。様子見てりゃいいんだろ」


 上機嫌に部屋に入る女の背中に一礼する。

 歩き出した香月の後から、「いやあ初めて見ました。強烈ですね」という斎条の呟きが聞こえて来た。

 切見世の遊女は概ねあんなものだと言ってやりたかったが、心は河西の看病の事で一杯である。

 特に何も言わずに彼女はそのまま寿楽へと急いだ。


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