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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第参楽章
12/25

刈安(かりやす)

 鳴り響いた鈴の音と共に扉を開けた斎条は、目の前の人物を視界に納めるとひどく驚いた顔をした。


「きょっ、局長! どうして此処に」


 両手にはそれぞれ紙の束と、玻璃の瓶やら注射器やらが載った小さな角盆を掲げ持っている。

 咄嗟に答えられずに、香月はただ脇に避けて「どうぞ」と彼を室内に通した。


「ああ、済みません……副局長が探していましたよ。もう少ししたら、打ち合わせを始めるそうです」


「そうですか。わかりました」


 返って来ない最初の問いに頓着する様子もなく、斎条は机に盆を置いて立ち尽くしている姉小路に向き直った。


「姉小路局長も、どうかなさったんですか?」


「ああ……いや、何でもない」


 扉近くにいる香月に視線を当てていた姉小路は、呪縛から解けたかの様に傍らを見下ろした。

 寝台に座っている舜橙と、怪訝そうにしている斎条を。


「舜橙さんが鳥を呼び寄せてね。少し驚いただけだ──それより、今日の薬の時間だったね」


「はい。天紋糖てんもんとうの代わりにというご指示の通り、亜羅薬あらぐすを処方して参りました。効能は同じですが、亜羅薬は血肉への作用が早い。滞在時間も長いので、より期待出来るかと思います」


「原料は?」


野蔓のかずらの根を乾燥、後に粉砕し液状にしたものです」


 斎条は盆の上から、木の台座に数本固定されている瓶の内一つを取り出した。

 注射器を左手に持ち、蓋を開けた薬剤に針を入れて吸い上げる。

 舜橙の指が文字盤を滑った。


〔くすりなどきかぬ むだなことを〕


 斎条は苦笑する。


「そんな事ありませんよ。すぐに治るまでは行かなくとも、症状を改善するだけでも大分違うでしょうし」


〔このまえのくすりはくるしいだけだった〕


 答えに詰まった彼に姉小路は「拒絶反応が出たのだ。一時的なものだったが」と付け加えた。


燐酸りんさんの数値が上昇して、衰えていた筋肉が固まってしまったのだよ」


「それは──そんな筈は」


 狼狽の色を見せた斎条は、未だ部屋から出ずにやりとりを凝視していた香月を認めて「話は後ほど詳しく」と小声で言った。


「斎条さん。天紋糖について妾も詳しくお聞きしたいのですが。打ち合わせが終わったら、局長室に来て頂けますか」


 彼は苦いものを飲み込んでしまった様な表情をした。


「はい。わかりました」


 冥査めいさという木の果実から精製される天紋糖は、体質が合えば肉体の老化を防ぐものとして妙薬だ。だが合わない場合はひどく苦痛を伴う──賭けにもなりかねない、その様な危険な薬を何故使ったのか。

 しかも様子からして、敢えての選択だと想像が付いた。


──もしかして、斎条さんは焦っているのではないだろうか。


 疑念は調合室での、局内の打ち合わせの際に一層強くなった。というより、斎条本人が新薬の開発報告の後に自ら提案したのである。中々症状が改善しない為、月下病には荒療治が必要なのではないかと。


「天紋糖を投与すると、血中の燐酸及び乳酸数値が上昇致しました。筋肉の組織破壊速度が三段階早まり、代替として亜羅薬を投与。緩解えんかいして今に至ります」


 仙丸は手元の資料をめくりながら「血糖数値は変化なしの様だな。それもまた訝しな話だ」と溜息混じりに言った。


「通常の人間が筋肉疲労するには、まず血糖数値が変動する。燃料を使い切れば筋肉を切るのは予想範囲だが、使わずに切るとは。──組織からの石素せきその漏出を見ても、状態は激しい運動の様相に似てはいる。だが実際は、手足一つ動かしていないのだろう」


「はい。そうなのです。最近では日光に当たる事は少ないので、燐酸数値の上昇はごく少量に留まってはおりますが。予定としては亜羅薬の経過を見てから、新たな対処を考える次第です」


「あの。ちょっと待って下さい」


 居並ぶ局員は総勢で二十名余り。新薬の為と普段交代で休むものを全員が出席していた。多くの視線を受けて、香月は怯みそうになる己を叱咤しつつ──勇気を振り絞って続ける。


「先ほどから伺う限り、ただ薬を与えて数値を測っているばかりではありませんか。舜橙さんは病人かもしれませんが、果たして一面だけで判断を下して良いものでしょうか」


 空気が凍りついたのが、発言した彼女自身にもはっきりとわかった。嵐の予兆だ。


「仰る意味がわかりかねますな」


 額に手を当てて嘆息交じりに答えたのは、当の斎条ではなく仙丸だった。

 斎条はと言うと、書類を手に呆然とこちらを見て停止している。


「滅多に発言なさらないと思えば。もう少し具体的に説明して頂かないと、小職には愚考すら浮かびません。それとも、何か名案でもあるのですか?」


 香月は言葉に詰まった。


「──具体的にはまだです。でも」


「お話になりませんな。『でも』ですと? まるで子供の反論ではありませんか」


「妾はただ、老人の身体の仕組みをもっと考えた環境が必要ではないかと思ったまでです」


 謎は残るものの、舜橙が苦しんでいるのは確かだろう。

 光を恐れて外にも出られず、緩やかとも言えない死の足音を座して待つ日々は辛いだろう。

 だというのに彼に引導を渡すのは、病気だけではないのかもしれないのだ。

 本来患者の味方である立場の者が──そう思ったら、黙っていられなかった。


「舜橙さんは患者であって、単なる実験の題材ではないのではありませんか? 結果が出ないからと言って強い薬を使うのは早道でも、副作用に耐えられる体力がなければ命を縮めるだけでしょう。その辺りをどの様に考えているのか、伺いたいと思います」


「……それは」


 後に続く言葉を探して口を開閉させたものの、斎条は結局黙り込んだ。

 問いという名の叱責に聞こえるのはわかっている。局長とはいえ新参で、年若の自分から言われるのは屈辱だろう事も。


「具体的になるかどうかわかりませんが、食事についてはどうですか? 老人は歯が衰えるから、液体で栄養を摂取するでしょう。日光に当てないだけではなく、体力を保つ為に夜だけでも身体を動かしてみてはどうでしょうか。どの道昼はじっとしているのなら、眠っておいた方が良いのでは?」


 言葉を連ねながらも、どうしても思考は河西のあのやつれた姿に辿り着いてしまう。

 自分にとって、病を治すという事がどういう意味を持つのか。

 仙丸はせせら笑った。


「莫迦な。それこそ本末転倒ではないですか? 老人は夜中起きて昼眠ったりはしないものです。──遊女ならいざ知らず」


 室内はざわめいている。彼の言葉に反応したと言うよりは、今や局長と副局長の対決と化してしまった議論の行方に戸惑いを隠せないらしかった。

 だから恐らく、最後の捨て台詞めいたものの意味を知るのは本人と、投げられた相手だけだったろう。

 香月は両手を拳の形に強く握り締めた。

 此処で萎縮すれば、きっと仙丸の思う壷なのだ。

 静かに息を吐くと、彼女は部下の酷薄そうな双眸を真正面から捉えた。


「そういった考えも必要だと思うのです。遊女と例えが出ましたので、ついでに申し上げておきます──何故玲彰様が、皐乃街に介入なさろうとお考えなのか」


 仙丸の片眉が上がる。

 素性が知れても構わないと思った。


「皆さんはあの街を、夜にご覧になった事があるでしょうか。華やかで毒々しい牢獄です。病に罹った遊女達は、医者がいても借金が増えるので治療も受けられず、環境の悪さ故にいつも死の危険にさらされている。遊女を卑しき職業とお考えかもしれませんが、少なくとも病は彼女達ではなく、客が持ち込むのです。人としての誇りを奪われて尚、病を得た者の絶望はどれ程のものか。……妾はあの街を知って、病を治す事はそれのみならず、人の希望をも治療する事だと思いました」


 言いながらゆっくりと、視線を仙丸から斎条、そして他の局員達に移していく。不思議と緊張感は薄れていた。開き直ったのかもしれない。


「そして玲彰様も、あの街に棲まう遊女達を救いたいと考えてくださっているからこそ、変えようと動かれている。理想論だと言われればそれまでかもしれません。でも、皆さんにもある筈です。この道に入ろうと思ったきっかけが」


 斎条は俯いて、ひどく気まずそうに目を伏せていた。


「もしそれが妾と指針を異にするものであれば」


 香月は上司との会話を思い出していた。

 『上に立つ者は責務を負わねばならない』と言った、あの言葉。

 大きな事は出来なくとも。

 自分の発言に責任を持つ、それぐらいの覚悟はある。


「──同じ様に考えて頂きます。これは局長命令です」


 室内は静まり返った。

 先日香月に素っ気無い態度を取った女性局員も、その他の者達もこちらを見てはいるものの、驚きを隠せないといった風情だった。

 無理もない、きちんと意見を言ったのは此処に来て初めてなのだから。

 それでいきなり「命令だ」はないのかもしれない。


「……確かに、ご立派なお言葉ですが」


 予想通りというか、仙丸のこめかみが震えている。相当怒っているのが看て取れた。


「失笑を通り越して言葉もありませんな。──我々をどこまで愚弄されるのか」


「え」


 言葉の意味を図りかねている香月を、彼はこれでもかという程憎憎しげな眼差しでひと撫でし、椅子から立ち上がった。


「これにて今日の打ち合わせは散会とする。それぞれ業務に戻る様に」


「しかし副局長──」


 止めに入った斎条は、仙丸のひと睨みに遭って絶句した。

 戸惑いながらも次々と局員は席を離れ始める。

 香月は仙丸に駆け寄った。


「ちょっと待ってください! まだ妾は、貴方がたの考えを伺っておりませんっ」


「──説明する必要はありません」


 冷え冷えとした黒い両眼が彼女を射抜くが、何に拠ってかふとそのつよさが揺らいだ。


「言われずとも同じであるから、改める必要はない。今こそはっきりとわかりました。──貴女がそうであるから、私は」


 心底嫌そうに、彼は呟いた。

 顔を寄せ、目の前の当人にしか聞こえない程度の大きさで。

 

「だから私はきっと、貴女が嫌いなのですよ」


「なっ……」


 香月が鼻白んだ一瞬の隙を突いて、仙丸は調合室から出て行ってしまった。

 勢い良く音を立てて閉まった扉を、眺めて多少憮然とする。

 本当に彼は葉山に似ていると思った。彼女も最後に会った時、わざわざ自分を「嫌いだった」と宣言したのである。

 香月自身がどうにも癪に障ったと。


──とりあえず、仙丸様の心証を更に害したのは確からしい。


 好かれたいと思っていたわけではないが、愉快な心持になれないのもまた事実だった。


「あ……あの、局長」


 局長室に戻ろうと扉を開けて廊下に出た時に、背後から声がした。

 振り返ると斎条が悄然とした面持ちで立っている。

 香月は扉を閉めると「用事は済んでしまいましたから、仕事に戻って良いですよ」と微笑んだ。

 しかし青年は動こうとしない。


「済みませんでした。僕は決して、実験なんて──そんな風に」


「どうやらその様ですね。妾こそ、偉そうな事を言ってしまいました。申し訳ありません」


 言った事に後悔はなかった。それでも、勝手な言い分だろうという自覚もある。

 だから頭を軽く下げたのだが、彼は「とんでもないっ」と勢い良く両手を振って打ち消した。


「……きっと僕も貴方と同じなんです」


「え」


 目尻を下げて、斎条は儚げな笑みを浮かべた。大人の男性に適切な表現ではないのはわかっていても、「愛らしい」としか思えない表情を。


「この道に入ったきっかけですよ。僕は大切な人の病を治してあげたいと思ったのです。だから必死に勉強して、近所の医者に弟子入りしたというのに」


 研医殿に入るには、局によって様々な入殿資格が必要だ。薬処方局は数年以上の実務または、薬学界において信用ある人物の推薦がなければ入れなかった。

 それは決して容易たやすくはないと聞いている。


「局長のお話もそうでしょう? 皐乃街を救いたいという思いがすごく伝わって来ましたから。──僕は『治したい』と焦るばかりで、原点を忘れてしまっていたと気づかされました」


「斎条さん……」


「もし失態を取り戻す事をお許し頂けるなら、舜橙さんの治療にこれからも助言を頂きたいのですが」


 香月は首を横に振った。

 きっと斎条なら、一人でもきちんとやっていけるだろうと思った。


「失態だなんて、思っていません。あの人は貴方の患者ですから──それにきっと斎条さんなら、妾の思いつく事など簡単にこなされるでしょう」


「いえ。実は姉小路局長にお聞きしたんです。局長が最初にここに来た時の事」


 自分の顔の血が、音を立てて引いていくのがわかった。

 鷹信が毒を受けて危機に陥ったのは──極秘裏にされていたはずだ。

 確かに治療には仙丸の許可を取ったし、施術要員として局長級の者が必要だと姉小路も駆り出された。治療に集中していた香月は、彼と会話した記憶がほとんどないのだが。

 ただでさえ元来医術に携わる者は、患者の事をおいそれと他に漏らさない。基本中の基本ではないか。


「……妾の? どんな事でしたか」


 調子を下げた声音にも気づかないのか、斎条は興奮してさえ見える。


「局長は患者の命を救う為に、本当に必死だったと仰っていました。治療は勿論、常に手を握って声を掛け、励ましていたと。経験があまりないと後日聞いて、とても驚かれたそうです」


「え、ああ──そう、ですか」


 不安が外れて、つい安堵の息が漏れた。

 あの時の事でただ覚えているのは、横たわる鷹信の息遣いと血の気の失せた顔だけだ。

 疲労と常に襲う絶望に、自分も気を失いそうになるのを堪えるので精一杯だった。

 だがそれも、傍らで手伝ってくれる玲彰や姉小路がいたからこそ、助けられたのかもしれないと今では思える。


「あの時は姉小路局長にはとてもお世話になりました。患者は妾のとても大切な人だったのです。妾こそ、支離滅裂な指示に迅速に対応して頂いて──感謝しているというのに」


 感極まって答えると、斎条はふと目を丸くして静止した。

 次いでからかう様な笑みを浮かべる。


「もしかして、その患者は局長の恋人ですか?」


 香月は目を伏せ俯いた。つい最近にも、他から似た様な質問をされた時の事を思い出したのである。


「……いいえ。でも恩人なのです」


 もし失ったら、恐らく自分も生きてはいけないだろうという程の。


「成程──姉小路局長もお気の毒に」


 え、と顔を上げると斎条は「何でもありません。忘れてください」と笑った。


「話は戻りますが、助言して頂きたいのは本当なので、ぜひ宜しくお願いします。それと──」


 ちょっと来て下さい、と廊下を先立って歩いた彼は局長室前辺りでこちらを振り返った。


「ご内密に局長にお話があるので、お時間を頂けますか? 出来れば薬庫の中で」


「え、ええ。構いませんが、一体どうして」


 近寄って気づいたが、それまでの柔和な印象が一変、斎条の面は曇っている。

声も低い。


「ちょっと見て頂きたいものがあるのです。……もしかしたら、薬処方局にとって重大事ではないかと思いまして」



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