黄櫨染(こうろせん)
「嵯峨局長。大丈夫なのですか、昨日の今日で」
懲りずに施術局にやって来た香月に、姉小路は戸惑いを隠せない様子だった。
登殿し玲彰に直に昨日の事を報告しようとしたものの、肝心の本人がまたも不在。よくよく間が悪い、と苦笑する坂ノ内に一礼して帰って来た。
そうなると今の彼女に打つ手はなく、書類に印を押して朝の業務が終われば此処に来るしかない。
「済みません。お仕事の邪魔はしませんから」
「いえ、こちらは良いのです。実はあの後、舜橙さんが貴女の事を気にかけていまして」
「妾の?」
「はい。此処に来てから彼が何かに興味を示したのは初めてだったもので……私としては、叶うなら貴女に話をしてもらいたいのですが」
ただ、万一彼がうっかりまた『歌』を唄うという可能性もあるかもしれませんし──彼は語尾を濁した。
香月は眉をひそめる。確かに今日自分は舜橙に近寄るつもりはなかった。興味がないわけではないが、ただ一声であれほどの不調を訴えたのだ。声なき声という未知の領域だけに、次に何が起こるかわからないという恐怖心があった。
「いや勿論、気が進まないのでしたら無理にとは言いません。忘れてください。今日は斎条君も施薬にやって来るので、他の患者に立会われると良いでしょうし」
表情から内心を読み取ったらしく、姉小路が慌てて言い添える。
「……いえ。話してみましょう」
「よろしいのですか?」
香月は強く頷いた。
「向こうに対話する気があるのなら、『歌』は出さないでいてくれるでしょう。それに、病が自分に害をなすとわかっていても──医者は逃げませんよね」
元気良く答えたというのに、姉小路の返答はない。
それどころかあまりに唖然とした顔をしていたので、徐々に気恥ずかしくなってしまった。
「済みません、偉そうな事を言いました」
「いえ。まあ、それが……理想ですし……」
ようやく答えるなり、何故か姉小路は言葉少なになってしまった。
──呆れてしまわれたのだろうか。
昨晩鷹信に元気をもらって、少し調子に乗りすぎたのかもしれない。
彼の後に付いて廊下を病棟に向かいながらそんな事を思う。
でも正直な気持ちなので仕方がない。
自分はこの道を選んだ。だから逃げてはいけないと、己に繰り返し言い聞かせる。
結局頼ってしまったが、あのお方が見守ってくれると知るだけで──こんなに力が湧いてくるなど、考えもしなかった。
「……倉嶋候」
ぼそりと出された名前に、彼女は耳を疑った。
思わず見やったものの、半歩先を行く姉小路の表情はよく見えない。
「人づてに聞いたので、間違っていたら申し訳ないですが……嵯峨局長は倉嶋候とご結婚なされるのですか?」
「はっ!?」
滅多になく大きな声を出してしまって、香月は慌てて口を押さえる。施術局は大声が厳禁なのだ。
「す……すみません」
姉小路は振り返り、精悍な面にほろ苦い笑みを浮かべた。
「いえ。私の方こそ、立ち入った事を聞いてしまって申し訳ない」
複雑そうな表情に首を傾げつつも、彼ならではの温かみを感じて香月は少しだけ安堵する。大分慣れて来たのだと思った。
「あの、そのお話は一体何方からお聞きになったのですか」
一瞬表情を凍らせた後、姉小路は「さあ。出所は忘れてしまいました。あくまで噂です」と再び半歩前へと遠ざかってしまった。
──元遊女の自分と結婚するなど、侯爵家の当主が立てられて良い噂ではない。
香月は慌てて彼に走り寄る。
「誤解です。そんな事全くありません!」
「え」
もう会話が終わったと思っていたのか、彼は虚を突かれた様な表情をしていた。
「あ……父がですね、少し倉嶋候と縁故がありまして。ご厚情により後見して頂いているのです。あくまでそれだけですから」
言いながらも香月は複雑な思いに駆られていた。
胸の辺りが苦しいのは、縁故があるなどと嘘を付いたからだろうか。悲しくなる様な内容ではない筈なのに。
彼の隣に立って協力出来る様になるのが、自分に許された分相応な望みなのだから。
「──そうですか。ならば良いのですが」
もの思いに耽りそうだった香月は、低い呟きに姉小路を見返し──期せずして彼と見つめ合う形になった。
「姉小路局長……?」
良い、というのはどういう意味だろう。
身分違いはわかっているが、世間の見る目の事を指しているのだろうか?
民間出身の姉小路局長でも、やはり階級社会を無視してはいないらしい。
「そ、そうですよね。妾があんなご立派なお方となんて、釣り合わないですし」
「あ、いや──違います。私は」
慌てて何かを言おうとした姉小路は、ふと周りを見回して咳払いをした。
病棟に差し掛かり、ちらほら歩いている患者も見られる。
「……この話はいずれ、また改めて」
特にもう話す必要もないのではと憮然としつつ、香月も頷いた。
舜橙の病室の前に立つと、やはり前日の記憶が少しばかり警戒を呼び起こさせる。
「本当に、大丈夫ですか?」
姉小路も彼女の態度から察したらしく、訪問を室内に告げながらも心配そうにこちらを伺って来た。
「はい」
淀みなく答えて、香月は扉に手を掛け中に入る。
舜橙はこの前の時と全く変わらぬ位置に座っていた。無気力そうな表情、丸めた背中もそのまま。
ただ違うのは、香月の入室にほんの僅かではあったが首を向ける動作をした事だった。しかも文字盤を膝に自ら置き、指を動かし“話しかける”様子を見せた。
〔ぐあいはもうよいのか〕
唖然とする姉小路からも、それがどれほど珍しい事かわかる。
香月は苦笑した。
「それはこちらの質問ですね。妾はもう平気です」
〔としはいくつだ〕
「十八になります。少しお話をしても宜しいですか?」
〔わたしもおまえにききたいことがある〕
香月は部屋の片隅に立てかけてあった椅子を並べると、姉小路と並んで腰掛け舜橙と向かい合った。
「何でしょうか」
〔げんきゅうてんをもっていないか〕
「え? すみません。何を持っている、ですか」
聞き慣れない言葉に、字すら浮かばず首を傾げる。
〔おまえのちちおやがもっていたはずだ〕
焦れた様に彼の指は早く動いて──香月は表情を凍らせた。父親。
この男は父の事を知っている?
──あの、夢。
何かを探していた侵入者。見つからず、別の方法を探そうとしてはいなかったか。
「……知りません。貴方は一体」
思わず舜橙の顔をまじまじと見つめる。皺とたるんだ皮膚に包まれた顔を。
碧い瞳だけが鈍い光を放ってこちらを鋭く見返していた。
「嵯峨局長? どうされたのですか」
姉小路の声に緊張が破られたかの如く、彼は再び文字盤に視線を落とした。
〔わたしはただのかんじゃ いぜんはやまあいのいなかにすんでいた〕
「そう……ですか」
会話をしなくてはと思うのだが、香月の喉から出るのは掠れた短い相槌だけだった。
もう舜橙は彼女を見なかった。次々と滑る指が言葉を繋ぐ。
〔さびしいばしょだ わたしとこどもたちと けものしかいない〕
深い闇と、どこまでも続く階段と。
険しい山に囲まれた土地で、いつも光を恐れて暮らしていたと。
──一体何の意図があって、こんな話を?
「た……いへんですね。その様な場所では、隣の村に行くのも難儀するでしょう」
きっと世間話に変えようとしているのだと、ようやく言葉を返した。
〔だいじょうぶ わたしたちにはせつしがいたから〕
またも聞いた事がない言葉が出てきた。
「せつし? ご家族か何かでしょうか。字はどの様な──」
窓をこつ、と軽く叩く音が聞こえて香月は振り返った。
鋭く舜橙に視線を戻すが、彼は全く頓着していない様子だ。
大丈夫だ、今日は何も聞こえないと彼女は自らを宥める。
〔せつなのせつに うじのし〕
──刹氏。
変換されて始めて、何処かで見覚えがあると気づく。
また窓が音を立てた。今度はさっきよりも強く。
〔よんだから よかったらみてみれば〕
姉小路が突然勢い良く立ち上がり、窓に近づいた。
彼もまた厳しい表情をしている。
「姉小路局長!?」
「また、窓の外に何かいるのではないかと思いまして」
間髪を置かずに窓を覆う遮光布に手を掛ける。
「駄目です! 見てはいけない」
ひどく不吉な予感がして、香月は思わずそう叫ぶと彼に駆け寄った。
間に合わず少しばかり開けられた布、覗いた姉小路が絶句している。
「もしかして……」
彼の横に割り込み、脇から外を見た彼女もまた言葉を失った。
優に人の背丈の数倍はあろうかという大きな黒い翼が、窓のすぐ傍でゆっくりと羽ばたいている。
嘴は鋭く曲線を描き、足の鱗は禍々しく突起を連ね金色に光る。
先端には猛獣であろうとも一捻りに出来そうな爪が覗いていた。
「……刹氏!」
頭の中で繋がった知識と共に、香月は悲鳴混じりにその名を口に上らせていた。
実在する中でも、最も大きな鳥の名前を。
※※※※
刹氏は正式な鳥名を東鳥と言い、雄を刹氏、雌を那白と呼ぶ。
古来より生存を確認されている猛禽だが、普段は険しい山に棲んでいる為に人目に触れる事はまずない。
彼女達が驚いたのは、何も珍しい鳥がいるからばかりではなかった。
空中で羽ばたきながらこちらを見ている刹氏の大きさは、凡そ聞き知る範囲のものを超えていた。二倍、いや三倍はあるかもしれない。地域に拠って差があるのか、それとも偶然に生まれついたのか。
言葉もなくただ凝視したまま立ち尽くす人間達を刹氏は赤い目で一睨みすると、大翼を翻して去って行った。
「一体今のは──」
狼狽を隠せないまま、部屋の中に視線を戻すと舜橙のそれとかちあった。
まるでこちらが観察されていた様な気がして、香月は寒気を覚える。
──確かに呼んだ、と言った。
声なき声を出せる彼ならば、きっと可能なのだろう。
前日の様なもの以外にも、様々な諧声数を出せるという訳か。
「……刹氏、というのですか? 今の大鳥は」
隣の呆然とした声に、香月は己の過誤を悟った。
「いやあ、びっくりしたなあ。しかし大きいものだ──嵯峨局長はよくご存知でしたね。見た事があるのですか?」
「そ、それは……」
単純にただ驚いている姉小路から視線を移す事が出来ない。
けれど舜橙が自分を見ているのは痛い程わかった。
──何故知っているのか、という目だ。
答えはわかりきっている。幼少の頃より香月は父親の書物を読み耽って育った。王都近辺を出た例はなく、情報源は其処から以外にありえない。
では、父がそれに関する書物をどうして持っていたのか。たまたまの知識欲に拠るものだと思いたい。しかしこうなると──
「……さあ。何かの本で読んだのかもしれませんし、人から聞いたのかもしれません。忘れてしまいました」
硬い笑顔しか作れなかったが、何とか笑って誤魔化した。
「ほお、流石に博識でいらっしゃいますね」
姉小路は素直に感心しているというのに、どういうわけか室内の奇妙な緊張感は緩む気配を見せない。
「わ、妾もう今日はこれ位で失礼しますね──」
そそくさと扉に香月が手を掛けたその時、向こう側から三回扉を叩く音が聞こえた。
「舜橙さん、斎条です。入ってもいいでしょうか?」