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妹の婚約が破綻したと思ったら、私が尻拭いさせられる事になった

作者: yurihina
掲載日:2026/08/30

「メイベルの婚約が破談になった。だから、お前の婚約者を譲りなさい」


 父の言葉を理解するより先に、妹の首元で揺れている青い石が目に入った。ヴィクトルの母上が、私たちの婚約祝いに選んでくださった首飾りだった。昨日まで私の部屋にあったはずのものを、メイベルが身につけている。父の机には、私ではなくメイベルの名が書かれた新しい婚約書まで置かれていた。


 私が何と答えるかは、最初から家族の予定に入っていないらしい。


「メイベルとの婚約書だ。こちらへ署名してもらいたい」


 父が書類をヴィクトルの前へ滑らせる。ヴィクトルは最初から最後まで目を通し、机へ戻した。


「お断りします」


 いつもの、礼儀正しい声だった。怒鳴ったわけでも、机を叩いたわけでもない。それでも、その一言で、すでに決められていたはずの話が止まった。胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しほどける。


「何を言っている。家同士の条件は何も変わらない」


 父の眉が寄った。


「メイベルもセラフィナも、同じ我が家の娘だ。メイベルは婚約を解消されたばかりなのだから、姉として今後を考えてやりなさい」

「あなたなら、また良いご縁が見つかるわ」


 母は私を慰めるように言った。


「メイベルは今、とても傷ついているの。お姉様なのだから、分かってあげられるでしょう?」


 メイベルは何も言わなかった。私の首飾りへ指を添えたまま、向かいに座るヴィクトルを見ている。


 応接室へ呼ばれた時、家族と婚約者を交えた結婚準備の相談だと思っていた。三か月後に迫った式について、決めなければならないことはいくつもある。けれど、用意されていたのは私の婚約を終わらせるための書類だった。


「僕が婚約したのはセラフィナです」

「婚約は家同士で結んだものだ」

「始まりはそうでした。ですが、三年間婚約してきた相手まで同じになるわけではありません」


 ヴィクトルは書類へ触れようともしなかった。


 母が困ったように私を見る。


「セラフィナからも説明してあげて。あなたはメイベルの事情を理解しているでしょう?」


 今度は、私の了承まで用意されようとしていた。いつもなら、ここで家族が求める答えを探したかもしれない。どこまで譲れば場が収まるのか。私一人が我慢すれば終わる話なら、それでよいと思ってきた。けれど、ヴィクトルとの結婚を失うことは、小さな我慢ではなかった。


「セラフィナ」


 ヴィクトルは父との話を続けず、私を見た。


「君は、僕との婚約をメイベルへ譲りたいのか?」


 父も母も、私が譲る理由ばかりを並べた。ヴィクトルだけが、私がどうしたいのかを尋ねている。答えれば、この部屋はもう元の静けさへ戻らない。父は怒り、母は私を薄情だと言うだろう。メイベルも、自分が見捨てられたと思うかもしれない。それでも、望んでもいない答えを口にすれば、三か月後にヴィクトルの隣へ立つのは私ではなくなる。


「いいえ。譲りたくありません」


 声は思っていたより、はっきり出た。母が息を呑んだ。


「セラフィナ、あなたまで何を言っているの?」

「私も、ヴィクトル様との結婚を望んでおります」

「メイベルは婚約を失ったのよ。あなたにはまだ余裕があるでしょう?」


 余裕があるから失ってもよいという話にはならない。私はメイベルを見た。青い石は、今も彼女の首元にある。


「メイベル。その首飾りを返して」


 妹は、初めて自分へ話が向けられたことに驚いたようだった。


「でも、お母様が使っていいとおっしゃったのよ」

「お母様のものではないわ」

「姉妹なのだから、首飾りの一つくらい――」

「失礼ですが、それは僕の母が、セラフィナとの婚約を祝って彼女のために選んだものです。メイベル嬢へ贈った品ではありません」


 ヴィクトルに言われ、母は言葉に詰まった。メイベルの手が首飾りへ上がる。外そうとはせず、青い石を守るように握った。


「今までだって、お姉様は貸してくれたじゃない」

「今回は貸していないわ」

「私がこんな目に遭ったばかりなのに?」

「あなたの婚約が破談になったことと、私の首飾りを持っていってよいことは別でしょう」


 メイベルは納得していなかった。それでも、ヴィクトルと私の視線を受け、ようやく留め具へ手を回した。外した首飾りを母へ渡そうとしたので、私は手を差し出す。


「私に返して」


 妹はためらった末、青い石を私の掌へ落とした。冷たい重みが戻ってくる。自分のものを返してほしいと言っただけだった。それなのに私は、ようやく何かを一つ取り戻したような気がした。


「こんな時に、首飾りの話をするなんて」


 母は責めるように言った。


「メイベルは婚約を失ったばかりなのよ。少しくらい優しくしてあげられないの?」

「少しくらいではありません」

「首飾り一つでしょう?」

「その一つを、私に黙って持ち出したのはお母様です」


 母は返事をしなかった。自分の物ではない品を妹へ渡したことより、私が返すよう求めたことの方が、母には重大らしい。


「お姉様には、ほかにもたくさんあるじゃない」


 メイベルは何もなくなった首元を押さえながら言った。


「ドレスも宝石も、ヴィクトル様との婚約まで。私には何も残っていないのよ」

「あなたの婚約が破談になったことは気の毒に思っているわ」

「それなら、どうして助けてくれないの?」


 助けるとは、私の婚約者を渡すことなのだろうか。


 社交界へ出る年、私のために仕立てていた銀色のドレスを、メイベルが気に入ったことがあった。母に頼まれ、私は別のドレスを着た。十七歳の誕生日には家族で小旅行へ出る予定だったが、前日にメイベルが熱を出し、中止になった。残念だったが、病気なら仕方がないと思った。どちらも、譲れば済むことだった。新しいドレスは作れるし、旅行も別の日に行ける。けれど、三年間をともに過ごした婚約者は、妹が欲しがったからと差し替えられる物ではない。


「ドレスや予定なら、これまでも譲ってきたわ。でも、私の結婚まであなたのものではない」

「姉妹でそんな言い方をするものではない」


 父が低い声で言った。


「家族が困っている時に、自分のことしか考えられないのか」

「ヴィクトル様は、私の所有物ではありません」

「ならば、お前が口を出す話でもないだろう」

「僕の話です」


 ヴィクトルが答えた。


「そして、セラフィナの話でもあります。僕たちのどちらも望んでいない婚約を、家だけで決めることはできません」

「お前の家にとっても、条件は変わらないと言っている」

「僕の両親は、この話を承知しているのですか?」


 父は黙った。その沈黙だけで、答えは十分だった。ヴィクトルは机の上の新しい婚約書を父の前へ押し戻した。


「僕は署名しません。持ち帰る必要もありません」


 父は今度は私へ書類を向けた。


「セラフィナ。お前が婚約解消に同意すれば済む話だ」


 署名欄の横には、すでにペンまで用意されている。私は手を伸ばさなかった。


「同意いたしません」

「この家に住みながら、家の決定へ逆らうつもりか」


 ここに残れば、今日断っても、明日また同じ話をされる。母は妹の涙を見せ、父は家のためだと言い、私が折れるまで何度でも続けるだろう。


「婚礼まで、叔母様の屋敷へ身を寄せます」


 母が立ち上がった。


「家を出るというの?」

「結婚準備に必要な物だけ持っていきます。叔母様には、これからお願いのお手紙を出します」

「そんな勝手なことを許すと思っているのか」

「私の婚約者を勝手に替えようとなさった方から、そう言われるとは思いませんでした」


 口にしてから、自分でも驚いた。けれど、謝ろうとは思わなかった。


「メイベルのためなのよ」

「私のためではありません」


 それだけ答えて、私は席を立った。母は引き止めたが、もう座り直さなかった。ヴィクトルも立ち上がり、父へ一礼する。


「この書類については、僕から両親へ報告します。セラフィナとの婚約に変更はありません」


 父の顔が険しくなった。


「庭園会までには、考え直すことだ」


 三日後には、我が家で毎年開かれている庭園会がある。親族や近隣の貴族も招かれていた。けれど、そこで何をするつもりなのかまでは、この時の私は考えなかった。


      ◇


 応接室を出たところで、ヴィクトルが私を呼び止めた。


「セラフィナ」


 振り返ると、彼は先ほどまでより少し迷った顔をしていた。


「先に断ってしまって、すまなかった」

「どうして謝るの?」

「僕が最初に拒否したから、君も断らなければならないと思わせたかもしれない」


 父も母も、私の返事を聞く前から決めていた。ヴィクトルは自分の意思をはっきり言った後でさえ、私の答えを奪っていなかったかと気にしている。


「違うわ。あなたが断ってくれて、ほっとしたのは本当です。でも、私も断りたかった」

「家族に責められても?」

「怖くなかったとは言えません」


 今も手が少し冷たい。これから叔母へ事情を説明し、必要な荷物をまとめ、家を出なければならない。父と母が簡単に諦めるとも思えなかった。それでも、婚約を妹へ渡してこの家に残るよりはよかった。


「ヴィクトル様。私は、あなたと結婚したいです」


 先ほどは、譲りたくないと答えた。今度は、失いたくないものを言うだけでは足りないと思った。


「家のためでも、メイベルに渡したくないからだけでもありません。三か月後、あなたの隣で誓いを立てたいと思っています」


 ヴィクトルは、私の言葉を最後まで受け取ってから答えた。


「僕も、君と結婚したい。誰かと条件が同じだからではない。三年間、一緒に過ごしてきた君とだ」


 胸の奥へ、確かな温かさが広がった。


「叔母上への手紙は、君が書く?」

「ええ。私からお願いします」

「分かった。僕は両親へ今日のことを伝える。必要なことがあれば、その後で相談しよう」


 私の代わりにすべてを決めるとは言わなかった。私も彼へ任せきりにはしなかった。


 その日のうちに叔母から、いつでも来なさいという返事が届いた。翌朝、私は婚礼衣装の仮縫いに必要な物と、青石の首飾りを持って実家を出た。


 もう譲る話を聞かされずに済む。そう思っていた。けれど両親は、私が断ったことそのものを、なかったことにするつもりだった。


 叔母の屋敷へ移って二日目の朝、食事を終えたところで一通の手紙を見せられた。


「明日の庭園会で、あなたが妹のために婚約を譲ったと発表するそうよ」


 叔母の知人から届いたものだった。すでに何人かの親族へも、同じ話が伝えられているらしい。私は婚約を譲っていない。ヴィクトルも、新しい婚約書へ署名していない。それでも父と母にとっては、私が拒んだ事実より、妹思いの姉として譲ったことにする方が都合がよかったのだろう。


 驚きより先に、腹が立った。私の返事を聞かずに婚約を替えようとしただけでは足りず、今度は私が言ってもいない言葉まで作ったのだ。


「庭園会へ参ります」

「そう言うと思ったわ」


 叔母は止めなかった。


「ただし、一人では行かないこと。ヴィクトル様のお家にも、この話は伝わっているはずよ」


 その日の午後、ヴィクトルが訪ねてきた。


「僕の家にも、婚約変更を祝う手紙が届いた」


 彼は向かいの椅子へ座るなり、そう告げた。


「父も母も、もちろん認めていない。今日中に訂正を求めることもできる」

「明日の庭園会には、もう招待客が集まるのよね」

「ああ」

「それなら、私もそこで訂正したいわ」


 ヴィクトルは少しだけ黙った。


「無理をする必要はない」

「無理をしてでも行きたいのではないの。私が譲ったという話を、私自身が否定したいのよ」


 今度も誰かに代わりに答えてもらえば、家族はまた、私の言葉を好きな形へ変えるかもしれない。


「分かった。僕も行く。両親も同行するそうだ」


 それだけ決めれば十分だった。


      ◇


 翌日、ヴィクトルとともに庭園へ入った時、父はすでに壇の前で話し始めていた。親族や近隣の貴族が壇へ顔を向け、母とメイベルも父の近くに立っている。メイベルは新しい淡い桃色のドレスを着ていた。私の青石の首飾りは、もう彼女の首にはない。母がこちらに気づき、顔色を変えた。けれど、その時にはもう、父の口から私の名が出ていた。


「長女セラフィナの申し出により、ヴィクトル殿との婚約を次女メイベルへ引き継ぐこととなりました。妹の将来を思って決断した姉の心を、皆様にもご理解いただきたい」


 拍手は起こらなかった。戸惑ったような囁きが広がる。メイベルがヴィクトルの隣へ立とうと、一歩こちらへ近づいた。私は彼女より先に前へ出た。


「私は婚約を解消しておりません」


 声が庭園へ響き、何十人もの視線が一斉に向けられる。怖くないわけではなかった。それでも、ここで黙れば、父の言葉が私の返事として残ってしまう。


「ヴィクトル様との婚約を、メイベルへ譲ると同意したこともございません」

「セラフィナ」


 父が低い声で呼んだ。


「家の決定を、公の場で否定するものではない」

「公の場で、私の意思ではない話を発表なさったのはお父様です」

「これは家として決めたことだ」

「僕の家は、その決定を承知していません」


 ヴィクトルが私の隣へ立った。


「僕の婚約者は、今もセラフィナです。メイベル嬢へ求婚したことは一度もありません」


 続いて、ヴィクトルの父君が招待客へ向き直った。


「我が家は婚約変更に同意しておりません。新しい婚約書を受理した事実も、署名した事実もありません」


 父の顔から、強気な色が消えた。


「両家の条件は変わらない。娘を一人からもう一人へ――」

「娘であれば、誰でもよいという婚約ではありません」


 ヴィクトルは静かに言った。


「僕が結婚したいのは、セラフィナです」


 メイベルが唇を震わせた。


「でも、お姉様は今まで譲ってくれたじゃない。どうして今回だけ――」

「今まで譲ったものは、私の人生ではなかったもの」


 妹は何も言えなくなった。ドレスも旅行も首飾りも、欲しがればいずれ手に入ると思っていたのだろう。けれど、私の婚約も、ヴィクトルの意思も、メイベルのために用意された物ではない。


「本日の発表は誤りです」


 私は招待客へ向き直った。


「私とヴィクトル様の婚約に、変更はございません」


 今度は、誰も父の言葉を待たなかった。招待客たちは父と母を見て、次にメイベルを見た。妹から婚約者を奪った姉ではない。本人たちが拒否した婚約変更を、両親が勝手に公表した。ここにいる全員が、同じ事実を見ていた。


 父が作った新しい婚約は、誰にも受け取られないまま、その場で崩れた。


      ◇


 庭園会の翌日、父は招待客と親族へ訂正の手紙を出した。手紙には、私が妹のために婚約を譲ったという発表は誤りであり、私とヴィクトルの婚約には何の変更もないと書かれていた。ヴィクトルの家へも、家名を無断で使ったことについて正式な謝罪が届けられた。


 その手紙を私が直すことはなかった。


 父と母が自分たちで伝え、自分たちで頭を下げた。庭園会にいた人々の記憶までは消せないけれど、少なくとも、私が望んで婚約を譲ったという嘘は残らなかった。メイベルの破談も、もちろん元には戻らない。今後の縁談は、私の婚約を使わず、本人と両親で探すことになった。


 数日後、父と母は叔母の屋敷まで謝罪に来た。


「あなたがこれほど嫌がるとは思わなかったの」


 母はそう言った。まだ少しだけ、私が我慢できなかったことを問題にしているようにも聞こえた。


「私は、最初から嫌だと申し上げました」


 そう返すと、母は目を伏せた。父も、勝手に婚約変更を発表したことは間違いだったと認めた。


 謝罪は受け入れた。けれど、私が断ってもなお押し切ろうとした家へ、すぐに何もなかった顔で戻る気にはなれなかった。婚礼の準備は、叔母の屋敷で続けた。


      ◇


 式を一週間後に控えた日、ヴィクトルが婚礼衣装の確認を終えたあと、私を庭へ誘った。冬の名残はもう薄く、植え込みの間には小さな花が咲き始めている。


「セラフィナ」


 立ち止まった彼の声は、いつもより少しだけ硬かった。


「もう一度、聞いてもいいだろうか」

「何を?」

「僕と結婚したい?」


 あの日と同じ問いだった。ただし今は、父も母もメイベルもいない。誰かへ反発するために答える必要もない。婚約を守ったことと、本当に結婚を望んでいることは、似ているようで同じではなかった。けれど、答えは少しも変わらない。


「ええ。あなたと結婚したいわ。三年間を一緒に過ごしたあなたと、これからも一緒にいたいの」


 ヴィクトルの肩から力が抜けた。


「僕もだ。これからも君と一緒にいたい」

「知っているわ」

「それでも、もう一度言いたかった」

「では、何度でも聞くわ」


 ヴィクトルが笑い、私も笑った。


      ◇


 三か月前から決まっていたその日、私たちは予定どおり結婚式を挙げた。叔母が、最後に青石の首飾りの留め具を確かめてくれた。家族会議の日、メイベルの首から取り戻したものだ。青い石は、初めて贈られた時と同じ場所で、私の胸元に収まっている。


 式場の前方で、ヴィクトルが待っていた。彼の隣へ進む間、あの日の応接室を思い出した。私の名前を消した婚約書。返事を聞かないまま進められた話。譲りなさいと言われ、初めて譲りたくないと答えたこと。


 あの時に守ったのは、婚約だけではなかった。


 ヴィクトルが差し出した手を取った。誓いの問いかけが終わり、ヴィクトルが私の返事を待った。


「はい」


 そう答えると、ヴィクトルが笑った。首元では、あの日取り戻した青い石が揺れていた。

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