06 タンザナイトの視線
掛け声に合わせて、凛は箪笥を持ち上げた。
女性が肘で床を掻き、離れていた男の子が駆け寄って祖母の腕を引く。
身体が、ずるりと外へ出る。凛は歯を食いしばり、もう一段だけ持ち上げた。
「――で、でたわ!」
「おばあちゃん!」
凛が箪笥から手を離すと、箪笥が重たい音を立てて床に落ちた。
這い出した女性の右足は血で真っ赤に染まっていた。見るからに歩けそうにはない。それを本人も分かっているのだろう。困ったように、それでいてほっとしたように笑った。
「ゲホッ……つかまってください。急ぎましょう!」
凛は女性の右肩を支えて立ち上がり、左手に子供の手を握った。震えている。――いや、震えているのは、自分の手かもしれなかった。
男の子は、煤けた顔で凛を見上げてくる。
「おねえちゃん、ありがとう」
場違いなほど無邪気な笑顔だった。
「ありがとう……本当にありがとう……」
祖母も凛の肩口で繰り返す。けれども、その顔色は青い。煙を大量に吸ったのか、喉からはひゅうひゅうと擦れた息がずっと漏れ出していた。
服の袖で口を塞いでいても、咳込む回数が増えてきている。三人とも、もう長くはもたない。
「お――ゲホ、ゲホッ! う、……お礼は、あとで……!」
部屋中の物が、腕を広げた火中に掻き込むようにして飲み込まれていく。扉の縁も、もう黒く焦げていた。
凛は口元を押さえ、腰を低くして二人を促した。三人で部屋を出ると、外の廊下の壁を、炎が音を立てて這っていた。
「おねえちゃん、早く!」
「待って、すぐ――、っ!」
ぎしり、と。頭上で、梁が鳴った。
その時、凛の全身に、ぞわぞわとした嫌な予感が駆け抜けた。
「なっ……あ、危ないっ!」
――バンッ!
頭上で何かが弾け、天井が割れた。熱い粉が雨みたいに降ってくる。
叫んだ瞬間、視界が煙で潰れた。
キーン、と耳鳴りだけが残る。音が遠い。
熱風と黒い煙が巻き上がり、凛は反射で女性の頭を抱えて床にうずくまった。
喉が刺される。息を吸うたび、肺が焼ける。
目の前で天井が、崩れ落ちた。
――あの子は?
「おねえちゃんっ! おばあちゃんっ……ケホッ、ケホ!」
瓦礫の向こうから男の子の声が聞こえる。生きてる。凛は息を吐いた。
「――あ、よ、よかっ……こっ、――はやく――」
階段に近い位置にいる男の子へ声を投げようとして、凛は喉に手を当てた。
息が、入らない。
――早く、どうにかしないと――……そう思った瞬間、肩に重みが落ちてきた。
女性がぐったりと凛に体重を預けてくる、意識を失ってしまったのだ。
――まずい!
凛は足を踏み出し、鋭い痛みに顔を歪めた。瓦礫を踏み抜いた。
踝の上が裂けて、血がだらだら落ちる。
「う……、く……っ」
声にならない呻きが漏れた。凛は肩からずり落ちそうな女性を支え直し、また前へ向かう。
崩れた瓦礫を避ければ、進めなくはない。行けるんだ。もう少しだ。もう少しなのに――。
その「もう少し」が、やけに遠い。
酸素が足りないのか、意識が朦朧としてきていた。
ぐらぐらと世界が揺れて、視界を格子状に区切る線の中が、一つずつ黒く塗りつぶされていく。
その視界の半分以上が黒くなったところで、遠くに、大きな人影が二つほど見えた。
子供じゃない。甲冑のようなシルエット。
その人影が、こちらに走ってきているような気がする。
よく見ると、男の子はもう一人の人影に抱えられている。
良かった。もう少しだ。
必死に歩くのに、距離が縮まらない。むしろ伸びていく気さえする。
バチバチと爆ぜる赤い炎をくぐり抜けて、あと少しだと足に力を入れた――、が。
どすん――凛の足元が一気に揺れた。
凛は体勢を崩した。身体の重心が、一気に下へと落ちていく。
――あ、これで……、助かるのか。
不思議なほど落ち着いた思考が過ぎった。凛は咄嗟に、肩にあった身体を思い切り前方へ突き出した。
突き飛ばしたというより、投げ飛ばしていた。どこにそんな力があったのか。おそらく、火事場の馬鹿力というのだろう。
「うぁっ」
その代わり、自分の身体は後ろへと倒れていく。
体が打ち付けられる衝撃を待てど、痛みは現れなかった。
ぼやけた視界の中で、あのシルエットが、凛に手を伸ばしているのが見えた。
――足場が崩れたのか。
凛は自分の状況を他人事みたく理解する。
――助けられたなら、良かった。
もしかしたら妹もあの時、そう思ったのだろうか。
炎の向こうに見える人影を想いながら、そう安堵したのだろうか。
世界から音が消えた。
轟々と立ち上る炎も、軋む建物の音も、外から聞こえるサイレンの音も、自分の呼吸さえも。
――凛の記憶の中に、母の姿はほとんど残っていなかった。
声も、匂いも、抱きしめられた感触も、思い出そうとすると霧の向こうへ溶けていく。
気づけば、凛の人生から母は抜け落ちていた。最初から、いなかったように。
父もまた、そうだ。
母がいなくなってから父は少しずつ壊れていき、凛が中学生の時に自死した。
誰もいなくなって、凛の世界は、涼と母方の祖母の二人だけになった。
祖母は、優しい人だった。
高校卒業までは共に暮らしていたが、凛が大学に進学してすぐ、役目を終えたというかのように亡くなった。病気だった。
二十年間の出来事が、フラッシュバックのように、点いては消えていく。
もういない祖母。大学の友人。バイト先の同僚。
いつもそばにいてくれた親友の朝陽。憎たらしい優翔。
そして、唯一無二の妹。助けられなかった涼
凛はせり上がる涙を堪えた。
妹の代わりにしてあげたいことが、まだたくさん残っているのに。
――こんなところで死にたくない。
『誰かの手を取って、誰かに寄り添える、優しい人になって』
『凛、私たちずっと友だちだよ』
『お姉ちゃん、大好きだよ』
死ぬんだ。
そう改めて考えると、言葉が泡のように弾けた。
凛が押しやった二人が、せめて無事に助かっているといい。今はもう、凛はただそれだけを願った。
――あ。
背中に衝撃が走るその瞬間。熱い波が全身を包んだ。そして赤かった視界が、気が付けば《《青く》》色付いている。
青の紫陽花、遠く晴れ渡る空、透き通った青い海原。
どこまでも、青い炎。
――青?
――なんで、青いの?
そういえば妹が死んだあの火事の夢も、青かった。
ぱちん、ぱちん。
視界の隅が黒ずみ、世界が白く光る。
ぱちん、ぶつん。
耳の奥で何かが切れた。
何もかもが消え、意識は暗闇の底へと沈んでいく。
『凛、――!』
最後に聞こえたその声が誰のものだっただろう。
過去の、冷たくて静かな雪の匂いがする。
その記憶をたどる前に、凛の意識は奥深くへと落ちていった。
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真白の四角い部屋。そこに、美しい女性がいた。
輝きを消したタンザナイトの視線が、凛をじっと捕まえて離さない。
神様かと思ったそのひとは、皺一つないブラックスーツを着ていて。
その上に、これまた闇に溶けてしまいそうな金刺繍の黒いマントを羽織っていて。
――そして、そっと凛の顔を覗き込んでいた。




