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月夜の霞に梟鳴きて  作者: 藤橋峰妙
第一話「青い炎 / The Blue Flame」
8/22

05 どこまでも青い、海のように

✧• ─────────── •✧




炎が床を這い、天井へと手を伸ばしている。

畳の縁から、壁紙の継ぎ目から、逃げ場を探すように炎が舌を伸ばし、轟音とともに燃えていた。



――青く。どこまでも青い、海のように。




『お姉ちゃん! 早く行って!』



熱で歪んだ空気の向こうから、声が飛ぶ。

凛が一歩踏み出そうとした瞬間、目の前の炎がばちばちと弾ける。火の粉が散り、頬を掠めた。



『お姉ちゃん! 早く行って!』



瓦礫の向こうから、力強い妹の声が飛んできた。

でも、と惑う凛を追い立てるように、目の前の炎がばちばちと弾けている。



『その子を早く連れて行って! 私は別の道を探すから』


「だめっ! 置いてけないって言ってるじゃん!」




『大丈夫だから――ゲボ、ッ、だから、私を信じて!』



凛は腕の中に抱えた子供を見る。震えている。汗と煤で濡れた背中が、凛の腕に張り付いていた。

炎の壁の向こうに妹の姿を探す。姿は見えない。


酷く咳き込む音だけ聞こえた。乾いた音で、肺の奥を削るような咳だった。自分もまた喉が焼けて、声が掠れてきている。



「で――、でも!」


『大丈夫! ね、お姉ちゃん、お願い!』


「そ、――」



その言葉に、凛はなんて返したのだろう。



――その時、凛は分かっていた。妹と炎を前にして、気づいていた。

妹の後ろに、逃げ道なんて無いことを。



気付いていたのに、妹を助けられなかった。

炎の壁に、熱くて、熱くて。息を吸うたびに、胸の奥が焼ける。

全身が燃えていた。青い炎が、世界を焼き尽くしていく。



――そういえば、この炎はなぜ青いのだろう。



そのことに気づいた直後、凛が感じたのは、焼け付くような喉の違和感と熱さだった。


息を吸った瞬間、喉の奥がひっくり返る。

夏の夜のじわりとした暑さではなく、それは熱したフライパンに手をかざした時のような、皮膚が縮む感覚を伴った、はっきりとした熱だった。



――あつい……それになんだか……うるさい……


――あっつい……頭が痛い……


――あれ


――へんな匂いが……


――なんだろう、何かが、燃えてるような……



泣いて寝てしまったのか、目頭と頬が焼け付いたように痛んでいる。


瞼が重く、まぶたの裏に赤が染みていた。

腫れぼったく開かない目を擦りながら、凛は身体を起こした。



視界がやけに暗く、そして、赤かった。

ばちばちと弾ける赤い光が、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。



「……え、え、……まっ、か?」



ごうごう燃え上がる蒼い炎。

鼻につく嫌な匂い。

ぱちぱちと全てが焼ける音。

肺に突き刺さる熱い波。

空気が揺れ、肺の奥まで熱が流れ込む。



「えっ、か、火事!?」



凛の部屋には火の海が広がっていた。

畳の表面が黒く波打ち、壁が鳴っていた。その熱さによって凛は夢から叩き落された。



「うぁっ、ああ! にげ、な……、うっ、ゲホッ!」



煙を吸い過ぎてしまったのか、ひゅうっ、と喉の奥でイヤな空気の音がする。

クラクラとする頭を抱えながら、凛は口元に服の袖を当てる。


まず窓から外を見たが、下の階から黒い煙が巻き上がり、何も見えなかった。

窓の向こうは、灰色の分厚い壁のよう。飛び降りることはできそうにない。



恐怖に竦んだ足を立て直しながら、凛は玄関へと急いだ。

充満した黒い煙が体にまとわりつく。髪が頬に張り付き、服が重くなる。目に煙が染みて、恐ろしくて、凛は必死に涙をこらえた。



「ひっ――あ、あと――うッ、ヒュ!」



廊下にはまだ火の手は回っていなかったが、熱い空気と煙が充満していた。数メートル先が霞んで見える。天井や壁をちらちらと這う炎を避け、凛は部屋から足を踏み出した。



その時。

煙の奥から、子供の泣き声と弱々しい女性の声が聞こえてきた。

二階の一番端の部屋だ。そこには、足の悪い高齢の女性と、小さな男の子が暮らしていた。


 


ほがらかに笑う優しそうな高齢の女性の顔。

いつもすれ違うと、元気に挨拶をしてくれる男の子。


――考えるよりも先に、凛は駆け出していた。




「だ、れか――だれかっ、ゲホっ、います、か……!」



咳込みながら声をかけると、引きつったか細い声で、「たすけて」と返ってくる。

凛は扉を押し開けて急いで部屋の中に入った。隣室は丸見えで、すでにちらちらと床に火が這っていた。



部屋の中で、男の子が泣きながら何かを必死に引っ張っていた。凛の姿を見つけた男の子は、涙に濡れた顔で縋るように見上げた。



倒れた箪笥があった。

腰から下を挟まれた小柄な女性が、うつ伏せのまま動けずにいる。

男の子は女性の服を掴んでいた。凛は、その光景に言葉を失った。



「ぬ、ぬけだせないんです。足が悪くて」



早口でそう言った女性は、いつも杖をついて歩いていたことを、凛は思い出す。



「お願いします、その子を――」


「お、おばあちゃん!」



女性は焦燥した表情で凛を見上げた。

凛はすぐ男の子の口布を当てて抱き上げると、まだ煙の回っていない反対側の壁際に下ろした。



「な、なにを……うぅっ! その子を、つれてって……!」


「いやだ!」



男の子が叫ぶ。



「煙、吸わないようにして!」



口に当てていた腕を離して、凛は男の子にそう呼びかけた。



「うぅっ、ま、まだ、大丈夫ですから!」


「でもっ」


「どこか怪我を?」


「う、ぐ……っ。た、たぶん、もう足が……」



女性はその問いに表情を苦痛に歪め、挟まれた自分の足へと視線を落とした。

もともと足は悪かったようだ。折れてしまっているのかもしれない。

 


凛は唇を噛む。

大丈夫だなんて簡単に言ってしまったが、その選択は正しかったのだろうか。

もしかしたら、子供だけでも助けた方が良いのだろうか。



――そうしたら、またあの時と同じ?



見捨てて行くことはできない。凛は倒れた箪笥を持ち上げようと手をかける。



「ぐっ、うぅぅ……ッ! も、う少し……!」



ずしりとした重みが、手のひらから腕へと伝わった。

歯を食いしばって力を込めると、箪笥が数センチ上へと持ち上がった。助けないと。その一心で、凛はさらに力を込めた。わずかに箪笥が浮いた。



「一気に上げますから、せぇのっ!」





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