05 どこまでも青い、海のように
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炎が床を這い、天井へと手を伸ばしている。
畳の縁から、壁紙の継ぎ目から、逃げ場を探すように炎が舌を伸ばし、轟音とともに燃えていた。
――青く。どこまでも青い、海のように。
『お姉ちゃん! 早く行って!』
熱で歪んだ空気の向こうから、声が飛ぶ。
凛が一歩踏み出そうとした瞬間、目の前の炎がばちばちと弾ける。火の粉が散り、頬を掠めた。
『お姉ちゃん! 早く行って!』
瓦礫の向こうから、力強い妹の声が飛んできた。
でも、と惑う凛を追い立てるように、目の前の炎がばちばちと弾けている。
『その子を早く連れて行って! 私は別の道を探すから』
「だめっ! 置いてけないって言ってるじゃん!」
『大丈夫だから――ゲボ、ッ、だから、私を信じて!』
凛は腕の中に抱えた子供を見る。震えている。汗と煤で濡れた背中が、凛の腕に張り付いていた。
炎の壁の向こうに妹の姿を探す。姿は見えない。
酷く咳き込む音だけ聞こえた。乾いた音で、肺の奥を削るような咳だった。自分もまた喉が焼けて、声が掠れてきている。
「で――、でも!」
『大丈夫! ね、お姉ちゃん、お願い!』
「そ、――」
その言葉に、凛はなんて返したのだろう。
――その時、凛は分かっていた。妹と炎を前にして、気づいていた。
妹の後ろに、逃げ道なんて無いことを。
気付いていたのに、妹を助けられなかった。
炎の壁に、熱くて、熱くて。息を吸うたびに、胸の奥が焼ける。
全身が燃えていた。青い炎が、世界を焼き尽くしていく。
――そういえば、この炎はなぜ青いのだろう。
そのことに気づいた直後、凛が感じたのは、焼け付くような喉の違和感と熱さだった。
息を吸った瞬間、喉の奥がひっくり返る。
夏の夜のじわりとした暑さではなく、それは熱したフライパンに手をかざした時のような、皮膚が縮む感覚を伴った、はっきりとした熱だった。
――あつい……それになんだか……うるさい……
――あっつい……頭が痛い……
――あれ
――へんな匂いが……
――なんだろう、何かが、燃えてるような……
泣いて寝てしまったのか、目頭と頬が焼け付いたように痛んでいる。
瞼が重く、まぶたの裏に赤が染みていた。
腫れぼったく開かない目を擦りながら、凛は身体を起こした。
視界がやけに暗く、そして、赤かった。
ばちばちと弾ける赤い光が、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。
「……え、え、……まっ、か?」
ごうごう燃え上がる蒼い炎。
鼻につく嫌な匂い。
ぱちぱちと全てが焼ける音。
肺に突き刺さる熱い波。
空気が揺れ、肺の奥まで熱が流れ込む。
「えっ、か、火事!?」
凛の部屋には火の海が広がっていた。
畳の表面が黒く波打ち、壁が鳴っていた。その熱さによって凛は夢から叩き落された。
「うぁっ、ああ! にげ、な……、うっ、ゲホッ!」
煙を吸い過ぎてしまったのか、ひゅうっ、と喉の奥でイヤな空気の音がする。
クラクラとする頭を抱えながら、凛は口元に服の袖を当てる。
まず窓から外を見たが、下の階から黒い煙が巻き上がり、何も見えなかった。
窓の向こうは、灰色の分厚い壁のよう。飛び降りることはできそうにない。
恐怖に竦んだ足を立て直しながら、凛は玄関へと急いだ。
充満した黒い煙が体にまとわりつく。髪が頬に張り付き、服が重くなる。目に煙が染みて、恐ろしくて、凛は必死に涙をこらえた。
「ひっ――あ、あと――うッ、ヒュ!」
廊下にはまだ火の手は回っていなかったが、熱い空気と煙が充満していた。数メートル先が霞んで見える。天井や壁をちらちらと這う炎を避け、凛は部屋から足を踏み出した。
その時。
煙の奥から、子供の泣き声と弱々しい女性の声が聞こえてきた。
二階の一番端の部屋だ。そこには、足の悪い高齢の女性と、小さな男の子が暮らしていた。
ほがらかに笑う優しそうな高齢の女性の顔。
いつもすれ違うと、元気に挨拶をしてくれる男の子。
――考えるよりも先に、凛は駆け出していた。
「だ、れか――だれかっ、ゲホっ、います、か……!」
咳込みながら声をかけると、引きつったか細い声で、「たすけて」と返ってくる。
凛は扉を押し開けて急いで部屋の中に入った。隣室は丸見えで、すでにちらちらと床に火が這っていた。
部屋の中で、男の子が泣きながら何かを必死に引っ張っていた。凛の姿を見つけた男の子は、涙に濡れた顔で縋るように見上げた。
倒れた箪笥があった。
腰から下を挟まれた小柄な女性が、うつ伏せのまま動けずにいる。
男の子は女性の服を掴んでいた。凛は、その光景に言葉を失った。
「ぬ、ぬけだせないんです。足が悪くて」
早口でそう言った女性は、いつも杖をついて歩いていたことを、凛は思い出す。
「お願いします、その子を――」
「お、おばあちゃん!」
女性は焦燥した表情で凛を見上げた。
凛はすぐ男の子の口布を当てて抱き上げると、まだ煙の回っていない反対側の壁際に下ろした。
「な、なにを……うぅっ! その子を、つれてって……!」
「いやだ!」
男の子が叫ぶ。
「煙、吸わないようにして!」
口に当てていた腕を離して、凛は男の子にそう呼びかけた。
「うぅっ、ま、まだ、大丈夫ですから!」
「でもっ」
「どこか怪我を?」
「う、ぐ……っ。た、たぶん、もう足が……」
女性はその問いに表情を苦痛に歪め、挟まれた自分の足へと視線を落とした。
もともと足は悪かったようだ。折れてしまっているのかもしれない。
凛は唇を噛む。
大丈夫だなんて簡単に言ってしまったが、その選択は正しかったのだろうか。
もしかしたら、子供だけでも助けた方が良いのだろうか。
――そうしたら、またあの時と同じ?
見捨てて行くことはできない。凛は倒れた箪笥を持ち上げようと手をかける。
「ぐっ、うぅぅ……ッ! も、う少し……!」
ずしりとした重みが、手のひらから腕へと伝わった。
歯を食いしばって力を込めると、箪笥が数センチ上へと持ち上がった。助けないと。その一心で、凛はさらに力を込めた。わずかに箪笥が浮いた。
「一気に上げますから、せぇのっ!」




