03 許してもらえるわけないけど
「……凛、あんたってさ」
何かを言いかけてやめた朝陽に、凛は問いかけた。
「どうしたの?」
「――本当に、すごいよね」
「何が?」
「さっきのやつ! おばあさんに席、譲ったでしょう?」
「困ってそうだったし、当たり前じゃん」
「当たり前のことが当たり前にできるのがすごいの」
「うーん、そうかな……」
凛は、まだ熱気を放つアスファルトに視線を落とした。
「目の前で困ってそうな人がいたら……私、見て見ぬふりはしたくないの」
「それがすごいんだって」
てらいもなく褒められ、凛はなんだか恥ずかしい気持ちになった。むしろストレートに人を褒めることが、朝陽のいい所でもある。
――でも、これは裏があるな。
凛は探るように目を光らせた。
「褒めてもなんも出ないよ?」
「……あ、バレた?」
朝陽はにやりと笑って、凛の数歩先に躍り出た。
「神さま仏さま凛さま、どうかここにいる哀れな学生をお助けくださいっ!」
自分の顔の前で手を合わせた朝陽。やっぱり、と凛は呆れた顔を向けた。
「ウーン、内容によるけど何、課題?」
「サトセンのやつ! 先週のレジュメ、保存、忘れたの。今週の課題やらないと、さすがに成績危なくてさ」
あぁ、と凛は納得した。サトセン――里山先生の授業だ。
「サトセンって、すーぐファイル削除するもんねぇ。いいよ、レジュメくらい」
「ほんと!?」
朝陽は光が弾けるように顔を輝かせる。
「このお礼は必ずするから!」
「いいって。帰ったらすぐファイル送るね」
「ありがとーっ、凛!」
「わっ! あっちゃん重い重い!」
嬉しそうに表情をほころばせて飛びついてくる朝陽を受け止める。
「もー、しょーがないなぁ」と、凛は仕方なく笑った。
バス停から数メートル先にあるコンビニに入り、スナック菓子とお茶を購入したあと二人は別れた。
朝陽のアパートは向かいの道路を渡って少し先にあるが、凛のアパートはコンビニの裏側にある。
横断歩道を渡っていく朝陽の背中を見送り、踵を返したところで、スマホを取り出した。
バイト先から、明日のシフトの連絡が来ていた。
凛のバイト先は二つあった。一つは飲食チェーン店で、朝からお昼過ぎまでの時間帯。
その後は大学の授業を一コマ受けて、個人経営のこぢんまりとした塾で講師のバイトがある。
『明日の朝、大学いつ頃いく?』
その時、画面の上方に通知が届いた。
朝陽からのメッセージだった。凛は返信をしようと、アプリを開く。
その時、もう一件、通知が重なった。
『ごめん、連絡できなくて。本当にごめん』
「あ……」
メッセージ主の名前が優翔だと分かった瞬間、心臓がぐっと下に引っ張られたような気がした。
いまさら。既読無視でもしておこうか――そう思った瞬間、ぶるる、とスマホが手の中で震えた。
「わっ!」
いきなり着信音が鳴り響いて、驚きのあまり、思わず凛はスマホを落としそうになった。
表示された名前は、彼氏の優翔だ。
出るか、出ないか。
迷っている間にも、ずっと着信音が鳴り続く。
十五回ほど――いや、もっと鳴っていたかもしれない。それでも切れる気配がなく、スマホは手のひらに振動を与え続けていた。
凛は噛んでいた唇を緩めて、通話に出た。
「……長廻ですけど、なに?」
精一杯の抵抗でそう告げると、耳元で息を呑む音がする。
『あ――凛、俺だよ、優翔。その、ごめん。本当に、許してもらえるわけないけど……、ごめん』
優翔は言いたいことだけ言って、凛の返事を待った。
小さく呼吸を整えてから、凛は重たい口を開いた。
「それだけ?」
『あ、……いや』
「それだけなら、私もう、切る」
お互いに黙り込み、それしか言葉が出てこなくて、凛は震える唇を結んだ。
先に声を出したのは優翔だった。
『――待って、待ってくれ』
「なに」
『その……理由を……本当に悪かった。こんなに忙しいことになるなんて思っていなかった』
切羽詰まった声に、凛は眉をひそめた。隠し切れていない狼狽の色が手に取るように分かる。
傾けたスマホの向こうからは喧騒が聞こえてくる。
通勤時間の息の詰まるような駅のホーム、大勢の人でごった返したお祭りのような。おかげで優翔の声は途切れがちだった。
『ね~ぇ~、ゆうちゃん? 誰と電話してるのぉ? もぉ電話なんかしないでよぉ~!』
だが、その声だけははっきりと凛の耳に届いた。
思わずスマホが手から滑り落ちそうになるのを何とか堪えたが、逆にスマホがみしりと音を立てるくらい、凛は力を込めてスマホを握っていた。
甘ったるい声だ。全神経がザワリと不快な痺れを感じて、目の前が真っ暗になる。
凛はめまいを覚えた。くらくらする頭を支えるように、額に手を当てる。
「……ねぇ。今どこにいるの、優ちゃん?」




