17
透き通ったガラス玉の青い瞳が空を見つめている。
精巧な人形はベンチに背をつけて腰掛け、力なく腕を放り出していた。
子供の忘れ物だろうか。
燐は人形を拾い上げようとしたが、それは叶わなかった。
人形はまるで鉛のように重く、片手では持ち上がらなかった。
右腕を掴んでも、到底、人形とは思えないほどの重さがある。
虚ろな青い瞳を、燐は訝しんだ。
華やかなドレスを纏い、艶やかな赤毛が肩で緩やかに巻いていた。その顔立ちは、あまりにも人間のように精巧だ。
距離を置こうとしたその時、後退した燐の肩が何かにぶつかった。
「――人形はお好きですか?」
耳元に囁かれた甘ったるい男の声に、背筋が震えた。
反射的に振り向いた燐の視界に入ったのは、黒いハンチング帽を被り、深緑色のトレンチコートを纏った若い男だった。
その右手には、角ばった革製のトランクが握られている。
「またお会い出来て光栄です、氷月捜査官」
芝居がかった口調で男は笑った。
燐は言葉を失った。全身が、この男は危険だという警鐘を鳴らしているように、肌が粟立つのを感じる。
「今日はあなたのために一つご用意しましたよ」
男はそう言って、ベンチの上の人形を見やった。
どうですか、だって。男が一体何を言っているのか、燐には分からなかった。
この男と燐は、知り合いなのだろうか。東雲のような仲間には見えない。
「……わたし?」
「ええ、喜んでいただけると」
男はベンチに近づくと、人形を見下ろした。
「ですが、気に入ってもらえなかったのなら、この子も必要ないようですね。残念だ」
男は人形に向けて何かを囁いた。風の囁きのような、かすかな声だった。
すると人形はグニャリと歪み、次第に大きくなっていく。その姿は燐と同じくらいの背丈になり、人間そのものへと変わった。
魂が抜けたかのような蒼白な表情。虚ろな瞳が、燐を貫く。
恐怖で口が乾き、燐は飛び退いた。
男は微笑を崩さず、静かに続けた。
「以前ここでお会いした時、あなたは私と同じでお好きなのかな、と思ったのです。でも、お気に召しませんでしたか」
まるで若い女を模した蝋細工だ。
魂が抜け出したかのように半開きになった青白い唇。
恐怖と苦痛を塗りつけた真白な表情が、燐を射抜いて――。
そしてその頭が、かくり、と重力に従い前へ倒れ落ちる。
ドレスの袖から覗く腕は小枝のように細く、だらりと投げ出されたまま。
だが、その指の中ほどで光る指輪を見た瞬間、背筋の上を冷たいものがゾワリと撫でた。
人形を、そっくりそのまま、人間に作り替えたかのよう。
精巧だと称するにはあまりにも人間にそっくりだ。
男は人形であったものから目を離し、燐に向かって、にこりと笑いかけた。
「じゃあ、あなたを人形にしましょう」
「ハ……わ、たし?」
「良いと思ったんです、氷月捜査官。特にあなたのその、美しいタンザナイトの瞳。初めて見た時から気に入っていました。あまりにも珍しい色だ。」
男は笑みを崩さずに言う。
今すぐここから走り出したい。にもかかわらず、燐の全身が叫んでいた。
――目の前の男から逃げるな。
――目の前の男は、罪を犯した者。
――目の前の男は、燐の敵。
――魔法を紡げ。声を上げろ。
そう――あまりにも、異様な感覚だった。
胃の奥底から恐怖がせり上がってくるのに、頭は異様なほど冴え渡っている。それが、ひどく気持ち悪い。
この感情は、この感覚は――いったい誰のものなのか。
「燐さん!」
背後から東雲の叫び声が響き、白い閃光が男を襲った。
光が弾け、視界を奪われた燐は、東雲に腕を掴まれて引き寄せられる。
「何をしているんですか!」
唖然とする燐に対し、東雲は凄まじい剣幕で叫んだ。
「魔法の使い方すら忘れたんですか!?」
「あ――、ご」
燐はどもった。
「ごめん、なさ」
東雲が燐を一瞥する。
鋭い視線に、燐は口を噤むしかなかった。
「怪我は」
「な、ない」
「魔法は一秒が命だと、そう言ったのはあなたじゃないか」
「――さっきの、燃えてたやつ、は」
「あちらは大丈夫です。他の仲間も来てます。ですから残るは」
東雲は男を見据えた。
「『人形師』」
「……あの人は」
燐はベンチにうなだれる身体へ、恐る恐る視線を向けた。
「残念ですが」
東雲は淡々と告げる。
燐の口内からは、水気と言う水気がほとんど乾ききって、喉の奥までもひりついていた。
「……よくも邪魔を」
地の底を這うような低い声が響く。
発光に目を眩ませていた男が、目元を押さえたまま、ふらりともう片方の手を上げた。
東雲に押されるまま、燐は右へ倒れ込んでいた。
二人が立っていた場所の地面が抉れ、石礫と砂埃が舞い上がる。
東雲が跳ね起きながら杖を振る。それを弾き飛ばした男の胸元で白い幕が散り、続けざまに男が杖を振りかぶった。
「うッ!」
腹部に衝撃が走り、燐の意識は一瞬、痛みに塗りつぶされた。
何が起きたのかすら分からない。後方へ吹き飛ばされ、木の幹に身体を打ちつける。
「【レヴィス・アステ】! ――しっかりしてください、燐さん! 燐さん!?」
男と東雲の攻防は、目で追えないほどの速さで展開されていた。
杖を振るたびに放たれる互いの魔法を、また互いが打ち消していく。
石畳を粉砕しながら迫る魔法に、東雲はそれを防ぐように杖を前へ翳した。
燐には何もできなかった。ただ腹部を押さえ、蹲ることしかできない。
全身が痛いのか、それとも別の何かなのか分からない。
だが、腹部のスーツが歪むほど、ぐっと力が入る。それでも燐は歯を食いしばり、足に力を込めて立ち上がった。
男は東雲の攻撃を防ぎながら数歩退き、にやりと笑う。そしてベンチに座る人形の躯へ近づくと、手にしていたトランクケースを地面へ落とした。
――ケースが、ぱかりと口を開けた。
途端、轟音と共に、石礫を含んだ黒煙が鞄の奥底から噴き出した。
巻き上がる砂塵は生き物のように口を開け、ベンチ上の躯を飲み込むと、再びケースの中へ吸い込まれていく。
一拍、静寂。
次の瞬間だった。
火山口から溶岩が噴き出すように、何かが激しく湧き上がった。それは巨大な獣の形を成し、そのまま東雲へと噛みつこうとする。
「【セディエルア】――ッ! 東雲、そいつは『ホルトゥ』だ! 噛まれるなよ!」
「『ホルトゥの死霊』か!?」
一閃が空気を裂いた。
厳しい声と共に、先ほど燐が見たサングラスの男がが駆け付けた。
その後ろにはもう一人、誰よりも――もしかしたら燐よりも――青白い顔をした茶髪の青年もいる。
二人とも夜に紛れるような黒い衣服に身を包んでいる。
サングラスの男は白峰。茶髪の青年は晴野。どちらも燐の同僚だ。
「クソッ! あの番犬よりタチが悪いな!」
白峰が苦々しく吐き捨てる。その表情は、どこか疲弊した色を帯びていた。
「分裂していないだけましか……」
「ははっ、ですね。死霊もさっきみたく骨を投げれば喰いついてくれるかな」
晴野が冷や汗を流しながら笑いを漏らし、燐のほうを向いた。
「燐さん、大丈夫ですか」
「え、あ、ええ……大丈夫、動ける」
「本当か?」
白峰は怪訝そうに眉をひそめた。燐はうなずき返す。
「なら良いが、気が抜けてるぞ……、っ!」
白峰の魔法障壁が、五つ頭の獣の首をひとつ切り落とした。
残った四つの頭が悲痛な叫び声をあげたが、切り落とされた首から、ぬめるようにまた新しい頭が再生する。
東雲は強張った表情で、白峰の隣に並んだ。
「流石、梟。よくご存じですね。『ホルトゥの死霊』……噛まれたら最後、そこから呪いに侵され、死に至ります」
「よくもまあ、こんなたいそうな〈幻想生物種〉と契約を結べたな。ディゼバの炎に、アウセンディーヤの番犬、それに死霊? そろそろ魔力が限界なんじゃないか」
「私はそこらにいるヤワな魔法使いじゃない」
黒いサングラスの向こうにある表情は見えない。肩をすくめた白峰に向かって、男はうっそうとした笑みを深めた。
「ですが、贄となるものは掃いて捨てるほど、そこら中にいる。死霊は死んだ人間が好みなんです」
「……作った人形を、人間を、贄にしていたのか」
東雲が低く問いかける。
「人間も本望ではないでしょうか。私の人形になれば、いつまでも綺麗なままでいられる。人間は我々とは違って百年も生きられない。短命で、すぐに老いる――哀れな生き物なのだから」
「まったく、歪んでる」
――東雲はひとつ息を吐き、深い紺青の瞳を細めた。
「魔法による大量殺人、及び魔法による人間の魂の変形行為、そして登録禁止魔法の使用。
お前の行為も、その魔法も、我々は見逃さない。
魔法法第一章第一項『魔法使用に関わる基本的規定』を明確に違反している。それは理解しているのか?」
「あはは、ええ。分かっていますとも。だが、私たちは魔法使いだ。
人間が決めた人間のためのルールに従ってやる義理はなどない。――そうでしょう?」
「いいや。これは人間と魔法使いのためのルールだ」
力強い眼差しで、東雲は男を見据えている。
その瞳に宿る光は、まるで群青の波間に揺れる眩い陽光のようだと、燐は思った。
「我々は『梟の魔法使い』。よって――お前の身柄を拘束する」




