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月夜の霞に梟鳴きて  作者: 藤橋峰妙
第三話【混乱 / The Confusion】
20/20

17

 


透き通ったガラス玉の青い瞳が空を見つめている。

精巧な人形はベンチに背をつけて腰掛け、力なく腕を放り出していた。

 


子供の忘れ物だろうか。

燐は人形を拾い上げようとしたが、それは叶わなかった。

 


人形はまるで鉛のように重く、片手では持ち上がらなかった。

右腕を掴んでも、到底、人形とは思えないほどの重さがある。



虚ろな青い瞳を、燐は訝しんだ。

華やかなドレスを纏い、艶やかな赤毛が肩で緩やかに巻いていた。その顔立ちは、あまりにも人間のように精巧だ。



距離を置こうとしたその時、後退した燐の肩が何かにぶつかった。



「――人形はお好きですか?」


 

耳元に囁かれた甘ったるい男の声に、背筋が震えた。



反射的に振り向いた燐の視界に入ったのは、黒いハンチング帽を被り、深緑色のトレンチコートを纏った若い男だった。

その右手には、角ばった革製のトランクが握られている。



「またお会い出来て光栄です、氷月捜査官」



芝居がかった口調で男は笑った。

燐は言葉を失った。全身が、この男は危険だという警鐘を鳴らしているように、肌が粟立つのを感じる。



「今日はあなたのために一つご用意しましたよ」



男はそう言って、ベンチの上の人形を見やった。


どうですか、だって。男が一体何を言っているのか、燐には分からなかった。

この男と燐は、知り合いなのだろうか。東雲のような仲間には見えない。



「……わたし?」


 

「ええ、喜んでいただけると」


男はベンチに近づくと、人形を見下ろした。



「ですが、気に入ってもらえなかったのなら、この子も必要ないようですね。残念だ」


 

男は人形に向けて何かを囁いた。風の囁きのような、かすかな声だった。


すると人形はグニャリと歪み、次第に大きくなっていく。その姿は燐と同じくらいの背丈になり、人間そのものへと変わった。



魂が抜けたかのような蒼白な表情。虚ろな瞳が、燐を貫く。

恐怖で口が乾き、燐は飛び退いた。

男は微笑を崩さず、静かに続けた。



「以前ここでお会いした時、あなたは私と同じでお好きなのかな、と思ったのです。でも、お気に召しませんでしたか」

 


まるで若い女を模した蝋細工だ。

魂が抜け出したかのように半開きになった青白い唇。

恐怖と苦痛を塗りつけた真白な表情が、燐を射抜いて――。


 

そしてその頭が、かくり、と重力に従い前へ倒れ落ちる。

 


ドレスの袖から覗く腕は小枝のように細く、だらりと投げ出されたまま。

だが、その指の中ほどで光る指輪を見た瞬間、背筋の上を冷たいものがゾワリと撫でた。

 



人形を、そっくりそのまま、人間に作り替えたかのよう。

精巧だと称するにはあまりにも人間にそっくりだ。


男は人形であったものから目を離し、燐に向かって、にこりと笑いかけた。



「じゃあ、あなたを人形にしましょう」


「ハ……わ、たし?」

 

「良いと思ったんです、氷月捜査官。特にあなたのその、美しいタンザナイトの瞳。初めて見た時から気に入っていました。あまりにも珍しい色だ。」



男は笑みを崩さずに言う。

今すぐここから走り出したい。にもかかわらず、燐の全身が叫んでいた。



――目の前の男から逃げるな。

 

――目の前の男は、罪を犯した者。

 

――目の前の男は、燐の敵。

 

――魔法を紡げ。声を上げろ。



そう――あまりにも、異様な感覚だった。

胃の奥底から恐怖がせり上がってくるのに、頭は異様なほど冴え渡っている。それが、ひどく気持ち悪い。

この感情は、この感覚は――いったい誰のものなのか。




「燐さん!」



 

背後から東雲の叫び声が響き、白い閃光が男を襲った。

光が弾け、視界を奪われた燐は、東雲に腕を掴まれて引き寄せられる。




「何をしているんですか!」



唖然とする燐に対し、東雲は凄まじい剣幕で叫んだ。



「魔法の使い方すら忘れたんですか!?」

 


「あ――、ご」


燐はどもった。

「ごめん、なさ」



東雲が燐を一瞥する。

鋭い視線に、燐は口を噤むしかなかった。



「怪我は」

 

「な、ない」

 

「魔法は一秒が命だと、そう言ったのはあなたじゃないか」

 

「――さっきの、燃えてたやつ、は」

 

「あちらは大丈夫です。他の仲間も来てます。ですから残るは」



東雲は男を見据えた。



「『人形師』」

 

「……あの人は」



 燐はベンチにうなだれる身体へ、恐る恐る視線を向けた。

 


「残念ですが」



東雲は淡々と告げる。

燐の口内からは、水気と言う水気がほとんど乾ききって、喉の奥までもひりついていた。



「……よくも邪魔を」



地の底を這うような低い声が響く。

発光に目を眩ませていた男が、目元を押さえたまま、ふらりともう片方の手を上げた。

 


東雲に押されるまま、燐は右へ倒れ込んでいた。



二人が立っていた場所の地面が抉れ、石礫と砂埃が舞い上がる。

東雲が跳ね起きながら杖を振る。それを弾き飛ばした男の胸元で白い幕が散り、続けざまに男が杖を振りかぶった。



「うッ!」



腹部に衝撃が走り、燐の意識は一瞬、痛みに塗りつぶされた。

何が起きたのかすら分からない。後方へ吹き飛ばされ、木の幹に身体を打ちつける。



「【レヴィス・アステ】! ――しっかりしてください、燐さん! 燐さん!?」



男と東雲の攻防は、目で追えないほどの速さで展開されていた。



杖を振るたびに放たれる互いの魔法を、また互いが打ち消していく。

石畳を粉砕しながら迫る魔法に、東雲はそれを防ぐように杖を前へ翳した。



燐には何もできなかった。ただ腹部を押さえ、蹲ることしかできない。

 


全身が痛いのか、それとも別の何かなのか分からない。

だが、腹部のスーツが歪むほど、ぐっと力が入る。それでも燐は歯を食いしばり、足に力を込めて立ち上がった。

 


男は東雲の攻撃を防ぎながら数歩退き、にやりと笑う。そしてベンチに座る人形の躯へ近づくと、手にしていたトランクケースを地面へ落とした。



 ――ケースが、ぱかりと口を開けた。


 

途端、轟音と共に、石礫を含んだ黒煙が鞄の奥底から噴き出した。

 


巻き上がる砂塵は生き物のように口を開け、ベンチ上の躯を飲み込むと、再びケースの中へ吸い込まれていく。



一拍、静寂。

次の瞬間だった。


火山口から溶岩が噴き出すように、何かが激しく湧き上がった。それは巨大な獣の形を成し、そのまま東雲へと噛みつこうとする。

 


「【セディエルア】――ッ! 東雲、そいつは『ホルトゥ』だ! 噛まれるなよ!」


「『ホルトゥの死霊』か!?」



一閃が空気を裂いた。


厳しい声と共に、先ほど燐が見たサングラスの男がが駆け付けた。

その後ろにはもう一人、誰よりも――もしかしたら燐よりも――青白い顔をした茶髪の青年もいる。

 


二人とも夜に紛れるような黒い衣服に身を包んでいる。

サングラスの男は白峰。茶髪の青年は晴野。どちらも燐の同僚だ。



「クソッ! あの番犬よりタチが悪いな!」



白峰が苦々しく吐き捨てる。その表情は、どこか疲弊した色を帯びていた。



「分裂していないだけましか……」

 

「ははっ、ですね。死霊もさっきみたく骨を投げれば喰いついてくれるかな」



晴野が冷や汗を流しながら笑いを漏らし、燐のほうを向いた。



「燐さん、大丈夫ですか」

 

「え、あ、ええ……大丈夫、動ける」

 

「本当か?」



白峰は怪訝そうに眉をひそめた。燐はうなずき返す。



「なら良いが、気が抜けてるぞ……、っ!」



白峰の魔法障壁が、五つ頭の獣の首をひとつ切り落とした。

残った四つの頭が悲痛な叫び声をあげたが、切り落とされた首から、ぬめるようにまた新しい頭が再生する。



東雲は強張った表情で、白峰の隣に並んだ。


 

「流石、梟。よくご存じですね。『ホルトゥの死霊』……噛まれたら最後、そこから呪いに侵され、死に至ります」

 


「よくもまあ、こんなたいそうな〈幻想生物種(レヴェリー)〉と契約を結べたな。ディゼバの炎に、アウセンディーヤの番犬、それに死霊? そろそろ魔力が限界なんじゃないか」

 


「私はそこらにいるヤワな魔法使いじゃない」



黒いサングラスの向こうにある表情は見えない。肩をすくめた白峰に向かって、男はうっそうとした笑みを深めた。



「ですが、贄となるものは掃いて捨てるほど、そこら中にいる。死霊は死んだ人間が好みなんです」

 

「……作った人形を、人間を、贄にしていたのか」



東雲が低く問いかける。

 


「人間も本望ではないでしょうか。私の人形になれば、いつまでも綺麗なままでいられる。人間は我々とは違って百年も生きられない。短命で、すぐに老いる――哀れな生き物なのだから」

 

「まったく、歪んでる」



――東雲はひとつ息を吐き、深い紺青の瞳を細めた。



「魔法による大量殺人、及び魔法による人間の魂の変形行為、そして登録禁止魔法の使用。

 お前の行為も、その魔法も、我々は見逃さない。

 魔法法第一章第一項『魔法使用に関わる基本的規定』を明確に違反している。それは理解しているのか?」

 


「あはは、ええ。分かっていますとも。だが、私たちは魔法使いだ。

 人間が決めた人間のためのルールに従ってやる義理はなどない。――そうでしょう?」


 

「いいや。これは()()()()()使()()()()()()ルールだ」



力強い眼差しで、東雲は男を見据えている。

その瞳に宿る光は、まるで群青の波間に揺れる眩い陽光のようだと、燐は思った。



「我々は『梟の魔法使い』。よって――お前の身柄を拘束する」





 

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