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月夜の霞に梟鳴きて  作者: 藤橋峰妙
第二話「救い / The Salvation」
16/21

13 若返りましたか、御主人


「わっ、な、なに! えっ、なにっ!? なんなの!?」

 

『新鮮な反応をありがとうございます。だけど……、おやおや? 若返りましたか、御主人』

 

「めちゃくちゃ良い声……じゃなくて! ま、前がみえない!」

 

『これは失礼いたしました。ボク、久しぶりの外につい気が(はや)ってしまいまして』



どこからともなく聞こえてくる低く落ち着いた声に、まばゆい光が弱まり始めた。

燐は恐る恐る、薄く目を開いた。

目の奥がチカチカと点滅しており、瞬きを何度か繰り返す。



視界の端で、丸くふわふわとした白いものが揺れた。

燐は真っ白になった思考のまま、手の中にある本へ視線を落とした。



本の表紙は真っ新だ。奇妙な題名も、掠れた絵も、跡形もなく消えている。


その代わりに、燐の目の前には、小麦色をした丸い生き物が浮かんでいた。



身体は犬のようだが、耳は兎のようにピンと真上に向かって立ち、身体を覆う毛は犬よりも随分と柔らかくふんわりとしている。



細身の見た目であれば、狼や狐のごとく格好の良い姿であろう。だが、その丸いフォルムがなんとも残念だ。

ぱっと見は、餌を与えられすぎて肉付きが良くなりすぎた丸い犬――燐はそう思った。



そう思ったものの、そうは思えなかった。


何しろ、綿毛のような尻尾は身体の倍ほど長く垂れさがっていた。背中には小さな羽が二つも付いているのが、現実離れしている。


そこへさらに、この生き物は燐に通じる言葉を喋っているのだ。


人と意思疎通をすることができる。しかも宙に浮いている。それは燐の知る『犬』じゃない。



「――へんなせいぶつ」



浮遊していた生物は目を見開き、勢いよく、ぐっと顔を燐に近づけた。

 


「ひぃっ!」



『へんな生物!? いくら御主人であってもヘンと言われる筋合いはありませんとも! 

 ボクにはきちんと『アンバー』という名がありますし、ボクはれっきとした幻想生物種(レヴェリー)有翼(ゆうよく)クレイスティパノルスいぬです。

 名前の無いそぅーこらへんのヘンな生物と一緒にされては困ります!』

 


「れべ……ゆうよ、くれ……へ、へんなせいぶつが、しゃべってる……」

 


『喋りますし喋れますとも! あなたが喋れるようにしてくれたじゃないですか!』



絶句した燐をよそに、頬を膨らませて憤慨した小麦色の生物が()()()()をスンと動かして匂いを嗅いだ。


大きな金色のドングリ眼がぱちぱちと動く。きょとんと、首が身体ごと右へ傾いた。



『もしやあなた、御主人ではない?』



こてんと傾いたままの首。つぶらな瞳が燐を射抜く。



「そ、そうなの! もしかして分かる? 私はこの人じゃなくて……」

 

『この人じゃなくて? じゃあ、あなたはいったい誰?』

 

「私は――……わたし……あれ」



燐は頭を抱えた。

思い出そうとしても、その先にどんな言葉も浮かばない。喉の奥まで出かかって、記憶の塊がそっくりそのまま、もうすぐ出てきそうなところで、何かに遮られている。



頭に当てた手を見ると、記憶が全て、両手から零れ落ちていくような気がした。

そして、きっとこれから、記憶を忘れたことさえも忘れて――。



「わ、わたしは誰だっけ……私は凜っていう名前で、ここに来る前の名前は……」



『燐。御主人。あなたが元の御主人じゃないことは分かりました。

 きっと魂が器に定着し始めたんですね』


 

「え……?」



可笑しな獣は愉快そうに口角を上げた。



『あらためて、新しい御主人、こんにちは。

 ボクはアンバー。幻想生物種(レヴェリー)の有翼クレイスティパノルス犬です』

 


「アンバー?」



たどたどしくその名前を紡ぐと、アンバーは嬉しそうにはにかんだ。

契約した相手の中身が違うというのに、朗らかで、少しの戸惑いも無い表情。まるで、こうなる事を()()()()()()()()()()かのように。



幻想生物種(レヴェリー)も、有翼ナントカ犬という動物も、燐にとっては理解不能な言葉の羅列にすぎなかった。



そのはずなのに、燐の脳はその言葉の意味を理解し始めている。

知らない言葉や知識が、雨垂れの様にポツポツと落ちて、燐の中に新しい水溜りを作っていた。




幻想生物種(レヴェリー)

それは古来より語り継がれてきた、伝承と幻想に生きる種族だ。



伝説の生物。超自然的で神秘的な精霊や神の存在。其らは遙か古代より、人を魅了してきた。

有翼クレイスティパノルス犬も、その一欠片として比較的よく知られている生物種だ。


 

『ボクたちは血の契約によって絆を結んでいますので、たとえ御主人の中身が別物でも、契約は有効なのです』



アンバーは、綿飴のようにふわふわとした尻尾を揺らした。



『新しい御主人には色々と言いたいことがありますが……まずは、準備をしなければならないのでは?』



「じゅんび?」



燐はすっとんきょうな声を上げた。



そうだった。外であの東雲という青年が待っていることを思い出す。




「燐さん! まだですかーっ!」



ちょうどよく声が飛んできて、燐は玄関に向かって慌てて声を張り上げた。



「ちょっ、ちょっと待って!」



『アイツ、随分と生意気になりましたね。

 ああ! 御主人の服はこちらですよ! 

 毎日同じデザインの服なんて着てますから、迷うことはありません』

 


「え、ア……うん」



アンバーは空中を歩くように足を動かして、自由自在に部屋を飛び回り、クローゼットらしき扉の前で足を揃える。



燐が扉を開くと、待ってましたと言わんばかりの黒いスーツが何着も並んでいた。



スーツ以外の服もあるが、どれも暗い色の服ばかりだ。

燐は眉をひそめるしかなかった。クローゼットの中は喪中みたいだった。


 

どれも似たようなスーツを端から端へと引っ張って、燐はそのうちの適当な一着を手に取った。

元々来ていたヨレヨレのジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外したところで、じっとこちらを窺う生物を見る。



「……あ、アンバー。見られていると、ちょっと恥ずかしいんだけど」



『どうして?』



「あなたは……その、性別はなに?」



『性別ですか。ボクに性別はありません! 

 あぁ、もしかして見られていると気まずいのですか? 恥ずかしいのですか? 

 あはは! 新しい御主人は変わったお方ですね。もうボクは御主人の着替えなんて、数えきれないくらい見てるんですよ!』



「そ……それは、この……氷月さん、の話でしょ」



『ウハハ! あの燐にも恥じらいの感情があったなんて! ウアハハハハ!』



「恥ずかしいことだってあるよ!」



空中で回りながら腹を抱えるアンバーに、燐は小さく息を吐いた。

相手は人の言葉を話しているが、犬だ。気にしなければ良い。



燐は仕方なくスーツに着替えた。じろじろと此方を窺う視線を背中に感じながら。



そうして着替えた後に、燐は立て鏡に身体を映した。自分ではない姿が決まったスーツを着てそこに立っている。

これまた葬式に行くと言った方が腑に落ちるようなスーツは、やけにこの身体に似合っていて、そして、特別な装いのように思えた。

 

けれども、記憶の中に残るあの人とは、何かが違っていた。中身が違うからだろうか。



「なんか……足りない?」



もう一度、クローゼットを開いた。

足りないのは、ネクタイとローブだ。

扉の裏にしわのないネクタイが掛かっていて、燐は慣れない手つきでネクタイを締め、最後にソファに残していたローブを羽織った。



『お仕事に行くのですから、きっちりとね』



見計らったように、アンバーがくるりと縦に一回転すると、燐の顔には薄化粧が施されていた。

幽鬼のような顔が人並み以上になり、鏡の中にはあの美しい女性がいた。



『今日だけ特別、明日からは自分で』



燐はそっと、鏡の向こうの自分に手を伸ばす。

自分であるはずなのに、自分ではない。そんな感覚が、ずっと小骨のような違和感となって、喉の奥に刺さっている。



『それが御主人です』



長い耳を片方だけ折りたたんでいたアンバーは、燐の肩に乗って一緒に鏡を見ていた。



『御主人。あなたは本当に、氷月燐になるのですか?』



アンバーは静かに問うた。



『なぜ突然与えられた別人の人生を、歩もうとしているのですか?』


 

 

 

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