12
しょうしゅうって、なに。
そう聞き返してしまいそうで、凛はなんとか口を閉ざした。
「ええ。そのコーヒーを飲んだら、準備してくださいね。そのまま行きますが、まず服を着替えて……。
あー、何着かありましたよね。俺は外で待っていますから」
そう言い残して、東雲は素早く部屋から出て行った。
静けさが訪れる。凛は、しんと静まり返った部屋を見渡した。
この部屋に、誰かが暮らしていた気配はほとんどない。
手にしていたカップを置こうとキッチンへ向かうと、一度も使われていないような調理器具が整然と並べられている。戸棚も格納庫も、ほとんど空っぽだ。
冷蔵庫のような冷たい四角い箱がある。
その中には、何が入っているのか分からない茶色の瓶が、数本だけ残されていた。
よく見ればこの部屋のあちこちに、あの摩訶不思議な力の痕跡がある。
窓際の棚に置かれた小瓶の中には、見たこともない石の結晶。
花を象る水晶が、柔らかい光を明滅させている。まるで息をしているかのように。
花と分かるものもあれば、蕾もある。
形も色も、大きさもバラバラだったが、淡い光が溢れる光景は幻想的だった。
「わっ……、すご……。いや、なんなの、これ」
その隣にある木が、小さな葉をふるりと震わせた。見事な黄色の花がぽっと咲く。
にゃあ、と声が聞こえて振り返ると、ベッドボードに置かれていた金色の猫の置物が、前足を出して背をしならせている。
本の表紙に描かれた絵が、紙の上とは思えない滑らかさで動いていた。
壁に掛けられた小さな額縁の中では、夕焼けに染まる草原を背に、少女と老婆が並んで立ち、こちらに向かって手を振っている。
凛は言葉を失ったまま、試すように小さく手を振り返した。
すると少女はぱっと顔を輝かせ、身をかがめて足元の花を摘み始める。
何本か束ねた花を、こちらへ差し出すような仕草をした、その次の瞬間だった。ぽん、と軽い音がした。
振り返ると、机の上の花瓶に、今しがた絵の中にあったはずの花束が生けられている。
凛は、しばらくそれを見つめることしかできなかった。
この光景はまるで物語のよう。そう、例えば――。
「魔法みたい……」
凛の混乱の中で、一本の糸だけが、するりと解けた。
一つの真相が透き通るように心の中に入ってくる。
ここはきっと、そういう世界なのだ。
凛の生きていた場所とは違う。
この身体の持ち主――氷月凛が生きていた、別の世界。
ここはいったいどこなのか。
それすらも分からないまま、この世界にたった一人、放り投げられたのだ。
途方に暮れてソファの背もたれに手をつくと、柔らかな感触が掌に伝わった。
指先の下には、見覚えのあるローブが掛かっている。
「この服……ん?」
ローブを持ち上げた拍子に、白い便箋が一枚、ひらりと床に落ちた。
真白な紙面には、細い線で宛名が記されている。
見覚えがあるようで、ない文字。そう感じた瞬間、黒い線が跳ねるように弾け、形を変えた。
燐は、くらりと眩暈を覚えた。直線の多い文字に、ところどころ柔らかな曲線が混じっていった。
――日本語だ。
燐はすぐさま手紙の封を開けた。
手触りの良質な白い便箋が二枚、中に入っていた。
まず最初の一行を目にした瞬間、燐は目を見張った。
〈新しい私へ〉
考えるより先に、視線がその下へ滑る。
『この手紙を読めるのは私だけ。そしてこの手紙を読むあなたは、もう私になっているということね』
「……私に、なってる?」
『新しい私、こんにちは。
私の名前は燐。氷月燐。魔法使い。そしてこれはこの先あなたの名前になるものだから、よく覚えておきなさい』
「そう……私は、りんって名前で……そうだ、魔法……、私も魔法が使えるの?」
燐は、腕に掛けていたローブを見下ろした。
物語の中で見たことのある、魔法使いの装いのよう。それに青年――東雲という彼も、摩訶不思議な力を使っていた。
「……もしかして浮いたりする?」
どきどきと心臓が波打つ。
夢みたいな期待に背中を押されて、燐は小さく声を出した。
「浮けっ」
何も起こらない。
「あ……ち、ちがうか。あは……はは……恥ずかしいな」
急に顔が熱くなり、燐は慌ててローブをソファに掛け直した。
『今のあなたは、私の身体の中に、あなたの魂が入っている状態』
燐は、手紙に目を戻す。
『魔法を使って、私の魂と、あなたの魂を代置した。
きっとあなたも魔法は使えるはずだけど、もしかしたら今後、あの術式の副作用が発現するかもしれない。その時は、まあ、頑張ってね』
「魂を置き換えたって、どういう……」
燐は、もう一度、その一文に目を落とした。
――私の魂と、あなたの魂を置き換えた。
胸の奥が、ひやりと冷える。
つまり、この身体の中には燐の魂が在った。今はその中身が、凛という人間の魂に置き換わっているということだろうか。
『なぜこの手紙を書き残したのかというと、あなたに伝えたいことがあったから。
まず一つ目、これはとても大切なことなのだけど、私あなたにとても感謝している。
感謝してもしきれないくらい感謝してるの。本当に、私のことを助けてくれてありがとう。
もしよければ、その身体は自由に使って。なんでも好きなことをして。
この部屋や、ここにある物、私の資産の全て、何をしても構わない。
これから大変なこともあると思うけど、あなたの第二の人生が良いものになることを願っているわ』
「……第二の人生」
燐は、手紙から顔を上げた。
木枠に嵌め込まれている窓硝子。そこに映っているのは、美しい別人の顔と、自分の部屋のように感じる他人の部屋。
この身体の持ち主は、全てをそのままにした状態で去った。
どのような事情があって、身体を受け渡せたことに感謝し、助けられたと礼を言うのか、燐にはさっぱり見当がつかなかった。
この身体に入っているのが燐だというのなら、元の燐は、何処へ行ってしまったのだろう。
ふと、洗面台に落ちていた錠剤が脳を過ぎる。
燐の背筋に嫌な予感が走った。
若い女性が大量の薬剤を摂取する機会。病気か――自分の命を絶つための――。
「――自殺?」
思わず声に出ていた。燐は慌てて首を横に振る。
「もしかして……死んじゃったの? 死にたかったから私を助けた……? や、でも……それならなんで……」
燐は途方に暮れた。全ては彼女の思惑の内、手のひらの上で転がされている。
――私の願いは一つ。
――あの青い炎の魔法を消すこと。あの魔法を、裁くこと。
あの静かな眼差しが蘇る。その願いは、決して軽いものではなさそうだ。
しかし、その願いがあるのに、なぜ燐に身体を渡したのだろう。
魔法を裁くとは、どういうことなのだろう。
燐はその先に答えがあることを期待して、手紙に視線を戻した。
『二つ目、あなたを支えてくれる召喚獣が部屋にいるわ。
私が契約しているけれど、きっとあなたにも有効であるはず。
その子なら、身の回りの世話もなにもかも、あなたを助けてくれるでしょう。
今は眠っているから、右端の本棚の一番右上にある本を開いてみて』
「しょ、召喚獣……いよいよファンタジー……」
燐は手紙から顔を上げ、本棚に目を滑らせた。
煤けた背表紙が所狭しと敷き詰められ、褐色系のグラデーションを作っている。
図書館の奥底で眠る、古い辞書棚のようだ。
燐は、一番右端の本を手に取った。
重厚な書籍はずっしりと重たく、表紙に描かれた文字や絵は擦り切れたように掠れている。
「『汝の名を告げよ』……?」
文字が自動で組み変わり、辛うじて読めるタイトルに燐は首を傾げた。
「汝って私のこと? えっと……私の名前は、燐。燐……えー、……氷月、燐? 日本人の――」
名前みたいだ、と口に出そうとしたその時。
心臓のあたりで何かが熱く迸り、燐は咄嗟に胸元の服を掴んだ。
全身の体温が一気に上がる。まるで運動をした後のように身体が火照る。
本が、風に煽られるように、ひとりでにページをめくった。分厚い紙束が半分ほど進んだところで、
その動きが、ぴたりと止まる。
次の瞬間。ページの隙間から、眩いほどの光が溢れ出した。白い光線が部屋を包みこみ、燐は瞬時に両腕で目を覆った。
「ちょ、ちょっとまって! まぶし――!」
「おはようございます、御主人!
約一週間ぶりに、我が黄金の輝きを浴びたご感想をどうぞ!」




