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――ぐん、と引っ張られた。
身体は自らの意思の制御下になかった。
全身が痙攣を起こしている。手足はまったく動かず、びくん、びくんと身体が何度も飛び跳ねる。
皮膚の下が痛みを帯び、熱いものが駆け巡って、内側が焼き切れてしまいそうな熱を持つ。
肢体が引き千切られた。凛は、錯覚するほどの痛みに侵されていた。
「あ……ガ、アッ、ぅく、……みっ、みず、水……!」
言葉にできないほどの喉の渇きに襲われていた。
喉の内側が締め付けられ、鋭い痛みが走る。
口内には唾液も無く、乾いて干乾びた砂漠のようだ。凛は喉を掻き毟った。
「ハッ、はっ、ぅ、ハ――」
水。水が欲しい。水が。
凛は朦朧とする意識の中で、何とか立ち上がる。視界は何重にも歪んで見えていた。
ぐるぐると景色が回った。
今、自分がどこにいるのかも定かではないのに、身体は水を求め続けている。
「ぁぁあああああ――ッ!」
ふらつく身体が、壁や家具にぶつかる。
呼吸ができない。空気を求めるように口がはくはくと動いた。
それなのに、肺は動いていないようだった。
――死んでしまう――ちがう、死んだ。
――死んだのに、なぜ。どうして。
――痛い、痛い、痛い!
――助けて、助けて。
――誰か、おばあちゃん。朝陽、だれか、助けて――
ガン――大きな音が頭上で聞こえた。
「うグッ!」
音が耳元で爆ぜ、その次の瞬間、熱いものが頭から流れ落ちてくる。
痛みは脊椎を走り、身体を上から下へ駆け巡った。
凛は立ったまま、ふらふらと頭に手を当てた。
歪んだ視界の中が真っ赤に染まる。どくどくと体温が失われていく。
生暖かな熱がこめかみを伝い、瞼の上を滑り、耳の裏へと流れていった。
前後も上下も左右も不確かになって、身体を支える力が失われていく。
そしてまた視界は黒く染まり――。
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はっと、身体が起き上がる。
凛は、深い眠りから突然叩き出されて覚醒した。そこには、微睡みも睡気も倦怠感も存在していなかった。
座り込んだまま、凛は、呆然と自分の周囲を見渡した。
窓を隠すように引かれたカーテンの隙間から、柔い光が漏れ出ている。
外は明るい。だが、室内は仄暗く暗然と静寂に包まれていた。
床一面が散々な状態でなければ、とても整った部屋であったはずだ。
誰も暮らしていない、生活感のない、モデルルームのように。
統一感のあるシックな部屋の中は荒らされたようにぐちゃぐちゃだった。物が落ち、椅子と机がひっくり返り、本棚は倒れている。
誰かが荒らしたのだろうか。
けれども床に散った赤い点と、その中で割れていた陶器の破片を目にした時、凛はその考えを止めた。
――血?
まだ乾いておらず、凛は白い指先を合わせて床にすっと線を描いた。飾り物の陶器にも赤い染みが付着している。
誰の血だ。自分の頭や身体には痛みがない。周囲を見渡しても、凛以外の人の気配はなかった。
一体、この場所で何があったというのだろう。
「――ここは、どこ」
疑問を口に出してすぐ、凛は自分の口を抑えた。
今の声は、誰のものだ。
柔らかくて、鈴のような声。聞いたことのある声質。だが、自分の声とはまるでかけ離れていた。
「え、あ……声が」
指が触れた先で、喉が震えている。
凛は自分の体温が、さーっと下へ抜けていくのを感じた。
急いで立ち上がろうとして、視界にウェーブのかかった黒髪が揺れた。
自分の髪色ではないことに気が付いて、凛は慌てて鏡を探した。
ゆっくりと立ち上がり、洗面台へと向かう。
何故だか、凛は、この部屋の間取りを知っている。
洗面台に向かえば、勝手に頭上でダウンライトが明かりを灯した。
照らし出された洗面台の鏡に、見覚えのあるスーツ姿の女がいる。
「……だ、れ」
艶やかな黒髪と青紫の瞳をした女。
彼女が、鏡の中から、凛を驚きの表情で見返している。
凛は目を丸くして、ぺたぺたと自分の顔に触れた。
頬を引っ張って、口端を上げて笑ってみて、髪を持ち上げ、ぐるりとその場で一回転をする。
鏡の中の美しい女も、同じ動きをした。
「なんで!?」
叫ぶと、鏡の中の女も同じ言葉を口で形作った。
凛は恐ろしくなって、よろけながら、洗面台から距離を取る。
「あ、あの女の人? そんなっ、まって、まってまって――そう、そうだ!
たしかあの時助けてって言われたんだ。それで、わたし、わたしは……、なんで!?」
予想もしていなかった。どれだけ考えても、この現象に対する答えは見つからない。
凛は座り込んで口を開けたまま、ただぼんやりと洗面所の床を眺めた。
一人で放り出され、訳も分からないまま時間だけが過ぎていくような気分だ。
考えれば考えるほど、訳が分からなくなっていく。
一体全体、何が起きたのか、考えること自体が億劫になってきた。
身体を見下ろせば、スタイルの良い身体がそこにある。自分の貧相な身体ではないことは確かだ。
今度は洗面台に置かれていた小さな手鏡を手に取る。
その答えは同じだった。別の顔が映っている。
これは、悪い夢だ。
「ゆ、ゆめ……?」
頭が空っぽになった時、外から物音が聞こえた。
扉が開く音と、足音。誰かが部屋に入って来たのだ。
「燐さん、いますか、燐さん! 一時間前に招集がかかって……わっ!
なんだこれ、すっごいな。空き巣か?」
若い男の声がした。
自分の名前が呼ばれているはずなのに、何故か別人の名前を呼んでいるようにも思えた。
聞き覚えのない声だった。顔を上げると、背後の廊下を、黒髪の青年が横切った。
真っ黒なスーツを着ていて、いかにも普通の人には見えなかった。
青年は、部屋の惨状を目にしたのだろう。
驚いた声を上げて、もう一度、「燐さん?」と名前を呼んだ。
凛は座ったまま後ずさり、その拍子に洗面所の下の扉に背中がぶつかった。
上から白いボトルが落ち、ごとりと音を立てる。
「ああ、そこに。どうしたんです、座り込んで。それにひどい汗だ」
青年が顔を覗かせて優しげに笑ったが、すぐにその視線は壁際の床に向かった。
視線を追うと、そこには白く丸い錠剤が散らばっていた。
錠剤に見覚えはなかったが、良いものではないような気がして、凛は身体をさらに縮めた。
仕方ないな、という表情で、青年は座り込んだ凛に視線を合わせてくる。
「もしかして、またやってしまったんですか。
だけど薬は一つずつだって言われていたじゃないですか」
「……わっ、わたしは」
凛は何と言っていいか迷い、口を噤んだ。
「立って、まずは着替えましょう。もしかして帰宅してからずっとその格好だったんですか?」
紳士みたく、青年は膝をついて手を差し伸べた。『燐』と呼ばれていたのは、紛れもなく凛だ。
その手と青年の顔を何度も往復して見ていれば、黒髪の青年は端正なその眉を寄せた。
「具合が悪いんですか。困ったな、佐伯さんにも連絡を……」
「えっと、あの」
「はい、どうしたんですか。そんなにかしこまっ――」
「……あなたは、誰」
凛は混乱した頭を抱えたまま、青年の言葉を遮った。
「は――……、冗談、ですよね」
青年は大きく目を見開い、唖然と呟いた。




