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月夜の霞に梟鳴きて  作者: 藤橋峰妙
第二話「救い / The Salvation」
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07

 

第2話【救い / The Salvation】




 ✧• ─────────── •✧

 



「目が覚めた?」



低い声がすぐ近くで響いて、凛は閉じていた瞼を震わせた。


一度目はゆっくりと、二度目、三度目は少し早めに。

瞬きをするたびに、紗のかかった視界が輪郭を持つ。




目の前に立っている女は、幻ではなかった。

黒い服に身を包んだ女が、仰向けに倒れた凛の顔を覗き込んでいる。



「ねえ、起きてる?」



鈴を鳴らしたような澄んだ声。青紫の瞳。


宝石を嵌め込んだような不思議な虹彩の瞳から、凛は視線を離せなかった。


茫然としながら、凛は首を小さく縦に落とした。



「そう。それならよかった」


 

女が頷くと、波打つ濡れ羽色の髪が肩から流れ落ちた。屈んでいた彼女が身を起こすと、すらりとした高身長が際立った。



「ぁ、こ――……、ここ、は」

 


喉がひりついた。

息を吐くと、胸の奥がきゅうと軋む。

眩しさに目を細め、凛は恐る恐る周囲を見渡した。



雪景色よりもなお無機質な、白一色の空間だった。

白すぎて現実味がなかった。凛と目の前の女だけが異物のように置かれている。



起き上がろうとして凛は床に手をついた。

だが、自分の身体は鉛のように重たい。腕が震えて、肘ががくんと折れ落ちた。



「ひ、あ……ひ、が……あッ!」



頭の奥に、針に刺されたような鋭い痛みが走った。凛は頭を抱え込んだ。遅れて、焼けつくような熱の記憶が押し寄せる。



――喉に刺さる黒煙。

――耳の奥まで揺るがす轟音。

――焦げた匂い。

――熱で溶ける空気。



「あ――っ、いや、火……! 私、火に……っ!」



凛は胸を押さえ、息を乱した。息が浅い。吸っているつもりなのに、入ってこない。指先だけが冷たくなる。


「――あなたは、死んだの」



女の声は、ひどく落ち着いていた。



「え……?」


「あの青い炎で、あなたは死んだの」



同情も哀れみもなかった。

深い湖面みたいな静けさだけが、凛をまっすぐ見据えている。


その冷静さにさらされているうちに、凛の呼吸が、ひとつ、またひとつと整っていくのが分かった。

――落ち着いていく、というより、勝手に冷える。



こわばっていた凛の肩からわずかに力が抜けていった。



「あ……」



「落ち着いた?」



凛はこくりと首を動かした。



「私、火事に巻き込まれて……」

 


口に出した途端、理解が追いついた。



死んだ――。死んだのか。



妹のこと。朝陽の声が浮かぶ。

残してしまったものに、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。



「わたし、はは……」



言葉は続かなかった。

悲しいのか、安堵なのか、誇らしいのか、悔しいのか。全部が混ざって、どれが本物か分からない。



凛は、乾いた笑いを漏らした。笑ったというより、息が抜けた。



「なぜ、笑うの?」



女が首を傾げる。感情の読めない声音だった。



「人を助けて死ぬなんて、馬鹿らしいと思った? それとも――生きたかった?」


「え……」



凛はすぐに答えられなかった。

生きたい。そう言うのは簡単だ。だが、言った瞬間にあの場面が戻ってくる。



倒れた箪笥。血。子どもの泣き声。

「助けて」と言った声。

自分の手が勝手に動いた感覚。



――あれは、選んだのか。

――選ばされたのか。




凛はその時初めて、女の姿をきちんと見た。



女は、闇に溶けてしまいそうなほどのブラックスーツを身に纏っていた。

そして華奢な肩には、金糸の刺繍があしらわれた真っ黒なローブを軽く羽織り、裾を足元で引きずっていた。



――綺麗だ。

今までに見たことがないほど美しい女性だった。



モデルのような均整の取れた手足に、透き通った雪肌。

ほんのり赤く色づいた潤う唇。

まるで精巧な人形のように無機質な瞳。

ゆるくウェーブのかかる艶やかな黒髪は、曲線の美しい胸元に掛かっている。



何より目を引くのは、光の加減で色味を変える青紫の瞳と、すっと伸びた背筋。

それが、女の気高い雰囲気をさらに醸し出している。



凛は息を呑み、そして身体を起こした。



「あ――あなたは、神様? でもここは、えっと……あの世、ですか?」



死ねばどうなるか、考えたことはあっても信じていたわけではなかった。



――そして、もし叶うなら。

涼に会いたかった。凛は会って、「ごめん」を言いたかった。



すると、女はどこか困った様子で、「うーん」と首を傾げる。氷のようなその顔ばせに、初めて感情の気配が映った。



「説明が出来ないけど、少なくとも『あの世』――死後の世界かしら、そういう場所ではないわ」

 

「あ、あの世じゃない? じゃあ、天国か、地獄……」


「そういう場所でもない」



女は一歩近づき、凛の前に屈んだ。

距離が詰まっただけで、凛の喉が乾く。逃げたいのに、身体が動かない。



「ここは私たちの世界。――私たちの魂の中」


「た、たましい?」



凛は困惑した。魂。

言葉の輪郭だけが浮いて、意味が追いつかない。



不思議な瞳と目が合わさって、凛はドキリと肩を揺らした。

同時に、目の前の女の凍てついた瞳が恐ろしく思えてきて、逃げるように身を仰け反らせる。



「あなたは後悔してる? 誰かを助けて、代わりに死んだことを」



「こう、かい……」



凛は、唇の裏を噛んだ。

後悔。ある。ないわけがない。だが、それだけでもなかった。


女は淡々と続けた。



「あの時、すぐに逃げればよかったの。

 部屋を出た時、声を聞いた時、箪笥を動かそうと思った時、天井が崩れた時。あなたが生きるための分岐点は、いくらでもあった。

 違う道を選んでいれば、あなたは死ななかった。もちろんその代わり、あの子供と女性は死んでしまったかもしれないけど」



凛は口を閉ざした。

心の中を見透かされたように、女の言葉は後悔を閉じ込めた蓋を撫でる。



「だから、もし分岐点に戻れるとしたら、あなたは生きるために、やり直したい?」



凛は、しばらく黙った。



「……後悔、してる」



声が小さく震えた。悔しさで喉が詰まる。凛は胸に手を当てた。心臓が速い。まだ火事の中にいるみたいだった。



「私は、妹の分も、生きなきゃいけなかったから」



――でも。

凛は息を吸った。吸った瞬間、喉がひりつく記憶が蘇り、咳が出そうになるのをこらえる。



「妹――涼は、四年前、逃げ遅れた子供と私を助けてくれた」



言うたび、心のどこかが痛む。

涼の顔が、青い炎の向こうにちらつく。



「あの子はそういう子だった」



女が問い返す。



「死んだ妹のために、妹と同じことをしたの?」


「……違う」



凛は即答した。

違う――と言い切ったのに、胸の奥のざらつきは収まらない。凛は、涼が死んだあの日から、まだ自分の中に存在する気持ちを整理しきれていなかった。



「――私は、あの子を助けられなかった」



声がかすれた。



「助けられたのは、いつも私だった」



守る側になりたかった。

けれど現実では、凛はいつも涼に守られていた。

だから今度は凛が、涼がしてくれたみたいに、誰かのそばに立つ番だと思った。



「いつかまた同じことが起きても、助けに行く。私は誰も見捨てないって、それだけは決めたの」



凛が言い切ると、女の目元がわずかに緩んだ。

氷のようだった表情に温度が宿ったように、彼女は小さく微笑んだ。



「つよいのね」



凛は目を伏せる。



「……強くなんて、ないよ」



「いいえ。あなたはつよい」



女は静かに言った。



「あなたなら、青い炎にも打ち勝てる」



「……青い、炎?」


 

凛の喉の奥が乾ききった。

焼ける匂い。肌を裂いた熱。叫び声。

それは、忘れたくても忘れられない記憶。



あのとき、妹を吞み込んだ青い炎。

そして凛を呑み込んだ炎。青い炎――。



青い色の炎は高温だったことを表すものだ。

メタンやプロパンなどの炭化水素系ガスが、十分な酸素とともに完全燃焼をしている時に発生する。



しかし、普通の火災で、建物の一面が青い炎に包まれることが果たしてあるのだろうか。

 


青い炎は、四年前にも妹を呑み込んだ。そして今回は凛を呑み込んだ。

禍々しく、美しく、この世のものとは思えないほど恐ろしい光景を覚えている。



なぜ、四年前の事を忘れていたのだろう。

なぜ、あの時の炎と、自分が死んだ火事に、既視感を覚えるのだろう。

 


今でも、肌に残るあの焦げるような痛みと、血の気が引いていく感覚が蘇る。

妹の声と、自分の最後の息が混じって、何もかもが消えていったあの瞬間。



――あれは、何だったのか。



凛が混乱しているのを見て、女はそっと目を細めた。



「もし、私があなたに助けてほしいってお願いしたら」



女は、凛の目をまっすぐに捉えた。



「あなたは私を、助けてくれる?」




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