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第2話【救い / The Salvation】
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「目が覚めた?」
低い声がすぐ近くで響いて、凛は閉じていた瞼を震わせた。
一度目はゆっくりと、二度目、三度目は少し早めに。
瞬きをするたびに、紗のかかった視界が輪郭を持つ。
目の前に立っている女は、幻ではなかった。
黒い服に身を包んだ女が、仰向けに倒れた凛の顔を覗き込んでいる。
「ねえ、起きてる?」
鈴を鳴らしたような澄んだ声。青紫の瞳。
宝石を嵌め込んだような不思議な虹彩の瞳から、凛は視線を離せなかった。
茫然としながら、凛は首を小さく縦に落とした。
「そう。それならよかった」
女が頷くと、波打つ濡れ羽色の髪が肩から流れ落ちた。屈んでいた彼女が身を起こすと、すらりとした高身長が際立った。
「ぁ、こ――……、ここ、は」
喉がひりついた。
息を吐くと、胸の奥がきゅうと軋む。
眩しさに目を細め、凛は恐る恐る周囲を見渡した。
雪景色よりもなお無機質な、白一色の空間だった。
白すぎて現実味がなかった。凛と目の前の女だけが異物のように置かれている。
起き上がろうとして凛は床に手をついた。
だが、自分の身体は鉛のように重たい。腕が震えて、肘ががくんと折れ落ちた。
「ひ、あ……ひ、が……あッ!」
頭の奥に、針に刺されたような鋭い痛みが走った。凛は頭を抱え込んだ。遅れて、焼けつくような熱の記憶が押し寄せる。
――喉に刺さる黒煙。
――耳の奥まで揺るがす轟音。
――焦げた匂い。
――熱で溶ける空気。
「あ――っ、いや、火……! 私、火に……っ!」
凛は胸を押さえ、息を乱した。息が浅い。吸っているつもりなのに、入ってこない。指先だけが冷たくなる。
「――あなたは、死んだの」
女の声は、ひどく落ち着いていた。
「え……?」
「あの青い炎で、あなたは死んだの」
同情も哀れみもなかった。
深い湖面みたいな静けさだけが、凛をまっすぐ見据えている。
その冷静さにさらされているうちに、凛の呼吸が、ひとつ、またひとつと整っていくのが分かった。
――落ち着いていく、というより、勝手に冷える。
こわばっていた凛の肩からわずかに力が抜けていった。
「あ……」
「落ち着いた?」
凛はこくりと首を動かした。
「私、火事に巻き込まれて……」
口に出した途端、理解が追いついた。
死んだ――。死んだのか。
妹のこと。朝陽の声が浮かぶ。
残してしまったものに、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
「わたし、はは……」
言葉は続かなかった。
悲しいのか、安堵なのか、誇らしいのか、悔しいのか。全部が混ざって、どれが本物か分からない。
凛は、乾いた笑いを漏らした。笑ったというより、息が抜けた。
「なぜ、笑うの?」
女が首を傾げる。感情の読めない声音だった。
「人を助けて死ぬなんて、馬鹿らしいと思った? それとも――生きたかった?」
「え……」
凛はすぐに答えられなかった。
生きたい。そう言うのは簡単だ。だが、言った瞬間にあの場面が戻ってくる。
倒れた箪笥。血。子どもの泣き声。
「助けて」と言った声。
自分の手が勝手に動いた感覚。
――あれは、選んだのか。
――選ばされたのか。
凛はその時初めて、女の姿をきちんと見た。
女は、闇に溶けてしまいそうなほどのブラックスーツを身に纏っていた。
そして華奢な肩には、金糸の刺繍があしらわれた真っ黒なローブを軽く羽織り、裾を足元で引きずっていた。
――綺麗だ。
今までに見たことがないほど美しい女性だった。
モデルのような均整の取れた手足に、透き通った雪肌。
ほんのり赤く色づいた潤う唇。
まるで精巧な人形のように無機質な瞳。
ゆるくウェーブのかかる艶やかな黒髪は、曲線の美しい胸元に掛かっている。
何より目を引くのは、光の加減で色味を変える青紫の瞳と、すっと伸びた背筋。
それが、女の気高い雰囲気をさらに醸し出している。
凛は息を呑み、そして身体を起こした。
「あ――あなたは、神様? でもここは、えっと……あの世、ですか?」
死ねばどうなるか、考えたことはあっても信じていたわけではなかった。
――そして、もし叶うなら。
涼に会いたかった。凛は会って、「ごめん」を言いたかった。
すると、女はどこか困った様子で、「うーん」と首を傾げる。氷のようなその顔ばせに、初めて感情の気配が映った。
「説明が出来ないけど、少なくとも『あの世』――死後の世界かしら、そういう場所ではないわ」
「あ、あの世じゃない? じゃあ、天国か、地獄……」
「そういう場所でもない」
女は一歩近づき、凛の前に屈んだ。
距離が詰まっただけで、凛の喉が乾く。逃げたいのに、身体が動かない。
「ここは私たちの世界。――私たちの魂の中」
「た、たましい?」
凛は困惑した。魂。
言葉の輪郭だけが浮いて、意味が追いつかない。
不思議な瞳と目が合わさって、凛はドキリと肩を揺らした。
同時に、目の前の女の凍てついた瞳が恐ろしく思えてきて、逃げるように身を仰け反らせる。
「あなたは後悔してる? 誰かを助けて、代わりに死んだことを」
「こう、かい……」
凛は、唇の裏を噛んだ。
後悔。ある。ないわけがない。だが、それだけでもなかった。
女は淡々と続けた。
「あの時、すぐに逃げればよかったの。
部屋を出た時、声を聞いた時、箪笥を動かそうと思った時、天井が崩れた時。あなたが生きるための分岐点は、いくらでもあった。
違う道を選んでいれば、あなたは死ななかった。もちろんその代わり、あの子供と女性は死んでしまったかもしれないけど」
凛は口を閉ざした。
心の中を見透かされたように、女の言葉は後悔を閉じ込めた蓋を撫でる。
「だから、もし分岐点に戻れるとしたら、あなたは生きるために、やり直したい?」
凛は、しばらく黙った。
「……後悔、してる」
声が小さく震えた。悔しさで喉が詰まる。凛は胸に手を当てた。心臓が速い。まだ火事の中にいるみたいだった。
「私は、妹の分も、生きなきゃいけなかったから」
――でも。
凛は息を吸った。吸った瞬間、喉がひりつく記憶が蘇り、咳が出そうになるのをこらえる。
「妹――涼は、四年前、逃げ遅れた子供と私を助けてくれた」
言うたび、心のどこかが痛む。
涼の顔が、青い炎の向こうにちらつく。
「あの子はそういう子だった」
女が問い返す。
「死んだ妹のために、妹と同じことをしたの?」
「……違う」
凛は即答した。
違う――と言い切ったのに、胸の奥のざらつきは収まらない。凛は、涼が死んだあの日から、まだ自分の中に存在する気持ちを整理しきれていなかった。
「――私は、あの子を助けられなかった」
声がかすれた。
「助けられたのは、いつも私だった」
守る側になりたかった。
けれど現実では、凛はいつも涼に守られていた。
だから今度は凛が、涼がしてくれたみたいに、誰かのそばに立つ番だと思った。
「いつかまた同じことが起きても、助けに行く。私は誰も見捨てないって、それだけは決めたの」
凛が言い切ると、女の目元がわずかに緩んだ。
氷のようだった表情に温度が宿ったように、彼女は小さく微笑んだ。
「つよいのね」
凛は目を伏せる。
「……強くなんて、ないよ」
「いいえ。あなたはつよい」
女は静かに言った。
「あなたなら、青い炎にも打ち勝てる」
「……青い、炎?」
凛の喉の奥が乾ききった。
焼ける匂い。肌を裂いた熱。叫び声。
それは、忘れたくても忘れられない記憶。
あのとき、妹を吞み込んだ青い炎。
そして凛を呑み込んだ炎。青い炎――。
青い色の炎は高温だったことを表すものだ。
メタンやプロパンなどの炭化水素系ガスが、十分な酸素とともに完全燃焼をしている時に発生する。
しかし、普通の火災で、建物の一面が青い炎に包まれることが果たしてあるのだろうか。
青い炎は、四年前にも妹を呑み込んだ。そして今回は凛を呑み込んだ。
禍々しく、美しく、この世のものとは思えないほど恐ろしい光景を覚えている。
なぜ、四年前の事を忘れていたのだろう。
なぜ、あの時の炎と、自分が死んだ火事に、既視感を覚えるのだろう。
今でも、肌に残るあの焦げるような痛みと、血の気が引いていく感覚が蘇る。
妹の声と、自分の最後の息が混じって、何もかもが消えていったあの瞬間。
――あれは、何だったのか。
凛が混乱しているのを見て、女はそっと目を細めた。
「もし、私があなたに助けてほしいってお願いしたら」
女は、凛の目をまっすぐに捉えた。
「あなたは私を、助けてくれる?」




