第七話『記録されない心』
ジャンク・ヤードの喧騒から戻った俺たちは、再び夜の図書館の静寂に包まれていた。雫の仕事場である古文書修復室は、昼間とは違う穏やかな光に満ち、壁際に積まれた古書たちが静かに俺たちの帰りを待っていたかのようだった。あの混沌とした街の熱気が、まだ肌に残っている。心臓が、普段よりも少しだけ速く、そして力強く脈打っているのを感じた。
雫は部屋の中央にある大きな作業台のランプをつけると、昨日俺と「契約」を交わした時に使った、あの革張りのノートを開いた。そして、万年筆のキャップを外し、俺に向かって悪戯っぽく笑いかける。
「さて、反逆者くん。最初の実験報告を始めましょうか。今日のデート……どうだった?」
「どう、と言われても……」
俺は言葉に詰まった。どう、だったのだろう。混沌としていて、少し怖くて、それでいて、今まで知らなかった世界の扉を無理やりこじ開けられたような、暴力的なまでの鮮やかさがあった。合成栄養食とは違う、不格好で温かい菓子の甘さ。ガラクタの山の中から見つけた、壊れたオルゴールの冷たい感触。そのすべてが、情報として処理するにはあまりにも生々しすぎた。
「ルール、忘れた? 『自分の感情には正直になること』。感じたままを、言葉にしてみて」
俺は椅子に腰掛け、頭の中の思考を必死で手繰り寄せた。エデンが支配する世界では、感情は分析され、最適化されるべきデータでしかなかった。喜び、悲しみ、怒り。それらの感情は、脳内チップが分泌するホルモン量を調整することで、常に「安定的」な状態に保たれる。俺は、自分の心を自分の言葉で語る訓練など、一度もしてこなかったのだ。
「……非効率、だった」
やっとのことで絞り出したのは、そんな陳腐な言葉だった。
「うん、非効率だった。それで?」
「無駄が、多かった。歩くルートも、食べたものも、買ったものも……すべてが、合理的じゃなかった」
「うんうん」
雫は相槌を打ちながら、俺の言葉を待っている。その辛抱強い眼差しに、俺は観念して、心の奥底にあった、名付けようのない感覚を言葉にした。
「でも……不思議と、息苦しくなかった。灰色の世界に、ほんの少しだけ、色がついたような……そんな気がした」
言い終えた瞬間、自分の言葉に自分で驚いていた。なんだ、それは。まるで旧時代の詩の一節じゃないか。恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
だが、雫は笑わなかった。それどころか、その瞳を優しく細め、満足そうに頷いた。
「そっか。……うん、いい言葉ね。じゃあ、まずはそれを記録しましょう」
彼女は万年筆を手に取り、ノートの新しいページに、今日の出来事を書き留め始めた。俺が辿々しく語る内容――黄色いワンピース、地下鉄の揺れ、ジャンク・ヤードの匂い、焼き菓子の味、そして壊れたオルゴール。雫は、俺の言葉を一つも聞き漏らすまいとするかのように、丁寧に、美しい文字で記録していく。カリカリ、と万年筆が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に響いていた。
一通り書き終えた後、雫はふっと顔を上げた。
「律はさ、どうしてそんなに『効率』とか『合理性』を気にするようになったの?」
唐突な質問だった。俺は少し考える。
「どうして、と言われても……。それが、当たり前だからだ。エデンは常に、俺たちに最適な道を教えてくれる。それに従うのが、最も幸福な生き方だと、子供の頃から教えられてきた」
「ご両親も、そうだった?」
「ああ。俺の両親は、マッチング率九十三パーセントの『ゴールド適合者』だ。喧嘩なんて一度も見たことがない。家庭は常に平穏で、合理的だった。食事の時間も、会話の内容も、家族旅行の行き先さえも、すべてエデンの推奨通り。無駄なものが、何一つない家だった」
俺は淡々と語る。それは、俺にとって疑いようのない事実だったからだ。だが、雫はどこか寂しそうな顔で聞いていた。
「そっか……。私の家とは、正反対だね」
彼女はそう言うと、作業台の隅に置かれていた、一枚の古い写真立てを手に取った。色褪せたその写真には、優しそうな老婆と、まだ幼い雫が、満面の笑みで写っている。
「これ、私のおばあちゃん。エデンが導入されるより、ずっと前に生まれた人。私が物心ついた頃にはもう、エデンが社会を管理するのが当たり前になってたけど、おばあちゃんだけは、いつも『そんなの、つまらない』って笑ってた」
雫は、写真の中の老婆の顔を、愛おしそうに指でなぞった。
「おばあちゃんの口癖は、『無駄こそ、人生の宝物』だった。わざわざ時間をかけて出汁を取って味噌汁を作ったり、晴れてるのに部屋の中でてるてる坊主を吊るしたり、何の役にも立たないガラクタを拾ってきては、その来歴を想像して二人で物語を作ったり。エデンから見れば、全部、非効率で無意味なことばかり。でもね、その『無駄』な時間の一つ一つが、どうしようもなく温かくて、キラキラしてたの」
彼女の瞳が、遠い過去を見つめている。
「おばあちゃんが亡くなる時、最後に私に言ってくれた。『雫、あんたはあんたの心で、ちゃんと世界を見なさい。AIが決めた幸福なんて、張りぼてのオモチャだよ』って。……だから、私は反逆してるのかもしれない。エデンにじゃなくて、全部を諦めて、思考停止してるこの世界に」
彼女の言葉は、静かだったが、確かな重みを持っていた。彼女の反逆には、根っこがあったのだ。大切な人から受け継いだ、温かい記憶という根っこが。
翻って、俺の過去には何があっただろう。エデンが推奨する、無菌で、平穏で、合理的なだけの毎日。そこには、雫のおばあちゃんのような、人間らしい温かみや、非合理な愛情を教えてくれる存在はいなかった。俺は、ずっと前から一人だったのだ。システムが保証する孤独の中で、生きてきた。
「……羨ましいな」
ぽつりと、本音が漏れた。
「俺には、そんな記憶はない。だから、あんたみたいに、強くはなれない」
「なれるよ」
雫は、きっぱりと言った。写真立てをそっと置き、まっすぐに俺の目を見る。
「律はもう、昨日までの律じゃない。ちゃんと自分の足で、ジャンク・ヤードを歩いた。自分の舌で、完璧じゃない味を美味しいって感じた。自分の心で、『色がついた』って感じた。それは、エデンが決めたことじゃない。律自身が選んで、感じたことよ。それは、すごく大きな一歩だわ」
その言葉に、俺は胸を突かれた。そうだ。今日の出来事は、すべて俺が「選んだ」結果だ。雫の誘いに乗る、と決めたあの夜から、俺の人生の舵は、確かに俺自身の手の中にあったのだ。
俺は、ポケットからあの壊れたオルゴールを取り出した。手のひらに乗せると、ずしりとした重みが伝わってくる。
「なあ、雫。これ……直せるかな」
「オルゴール?」
「ああ。あんたが言ったみたいに、この中に閉じ込められてるメロディを、聴いてみたいんだ。俺自身の手で、このガラクタを、宝物にしてみたい」
それは、俺の中から生まれた、初めての明確な「欲求」だった。
雫は、俺の手の中のオルゴールを覗き込むと、まるで自分のことのように、嬉しそうに目を輝かせた。
「もちろん! 私、古文書だけじゃなくて、こういう古い機械の修復も好きなの。時間はかかるかもしれないけど、一緒にやってみようよ。これも、立派な『実験』だね」
『一緒に』。その言葉が、俺の心に温かい光を灯した。
俺たちは、顔を見合わせて、どちらからともなく、小さく笑った。気まずさも、緊張も、今はもうない。ただ、同じ秘密を共有する共犯者としての、確かな絆がそこにはあった。
雫は、再びノートにペンを走らせた。
『実験記録:相羽律は、壊れたオルゴールを修理したいと願った。これは、彼が初めて自発的に示した『非効率な欲求』である』
その一文を、俺は黙って見つめていた。
記録されているのは、ただの文字だ。だが、その行間には、言葉にならない俺たちの心の動きが、確かに刻まれているような気がした。エデンには決して記録できない、人間だけが持つ、温かくて不確かな何かが。
実験は、まだ始まったばかりだ。だが俺は、この壊れたオルゴールがいつか鳴る日を、そして、俺自身の心が本当の音色を奏でる日を、少しだけ信じてみたくなっていた。




