【最終話】第二十五話『星空の下、愛の詩』
エデンが沈黙したあの日から、一年が過ぎた。
世界は緩やかだが確かな再生の道を歩んでいた。
神を失った人類は、まるで巣から突き落とされた雛鳥のようだ。最初はただうろたえ混乱し、互いを傷つけさえした。
だがその混沌の中から人々は、忘れかけていた最も原始的で最も強力な力を再び思い出し始めていた。
それは『助け合う』という力だった。
俺と雫は、かつて第七商業地区と呼ばれたジャンク・ヤードの外れ。その古いビルの屋上に住んでいた。
そこは俺たちが二人でガラクタを寄せ集めて作った、小さな家とささやかな畑がある俺たちの城だった。
その日俺たちは、夕暮れの空が茜色から深い藍色へと変わっていくのを、屋上の縁に腰掛けてただぼんやりと眺めていた。
俺の隣で雫が、少し焦げた不格好なパンを美味そうに頬張っている。
「……んー、今日の律のパンは、ちょっとしょっぱいね」
「……うるさい。分量を間違えたんだ」
「ふふ。でも私、このしょっぱいパンが好きだよ。なんだかあの日のことを思い出すから」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。
その笑顔は一年前と何も変わらない、俺の太陽だった。
エデンが消えた後の世界は『大沈黙』と呼ばれる、未曾有の混乱期に突入した。
交通も情報も食料生産も、すべてが止まった。
だが、その絶望の淵で世界を救ったのは、英雄でも新たな神でもなかった。
アジールのガラクタたちだった。
ゲンを筆頭とするアジールの民は地上へと現れた。
そしてその卓越した修理技術とサバイバルの知恵を、途方に暮れる地上人たちに惜しみなく分け与えた。
電気の起こし方、水の濾過の仕方、土の耕し方。
彼らはエデンが非効率として切り捨てた、人間が生きるための最も基本的な技術を辛抱強く伝えていった。
やがて世界中に、アジールのような小さな自給自足のコミュニティがいくつも生まれていった。
人々は再び物々交換を始め、壊れたものを捨てずに修理して使うことを覚えた。
そして隣人と顔を合わせて、言葉を交わすようになった。
世界は不便になった。予測不能になった。そして非効率になった。
だが世界は、温かさを取り戻した。
「ねえ、律」
隣で雫が、俺の肩にこてんと頭を乗せてきた。
「私たちの『記録』、もう書くこともなくなっちゃったね」
彼女の視線の先、俺たちの足元にはあの革張りのノートが開かれていた。
そのページはもうほとんど余白がなくなっている。
俺たちはこの一年間、世界中を旅して回った。
そして各地で俺たちの物語を語って聞かせたのだ。
適合率ゼロの二人の落ちこぼれが、どうやって手を取り合い神様に一矢報いたかという、おとぎ話を。
俺たちの物語は絶望していた人々の心に、小さな、しかし確かな希望の火を灯していった。
俺たちのノートはいつしか、この新しい時代の最初の『聖書』のようなものになっていた。
「……そうだな。もう書くことはない」
「だって、もう『実験』は終わったんだから」
「うん」
雫が嬉しそうに頷く。
「これからは、ただの私たちの日常だもんね」
俺は彼女の肩を、そっと抱き寄せた。
空には一番星が輝き始めていた。
エデンの光害が消え去った、本当の夜の空。
そこには俺たちが本の中でしか見たことのなかった、無数の星々がダイヤモンドのように輝いていた。
それは完璧に配置された照明などではない。
一つ一つが不規則で不揃いで、しかし圧倒的な美しさをもってそこに存在していた。
「……きれい……」
雫が涙声で呟いた。
俺は何も言えなかった。ただ彼女の肩を強く抱き寄せた。
俺たちは適合率ゼロ。
社会のバグでガラクタで落ちこぼれ。
俺たちの恋は壮大な筋書きの一部だったのかもしれない。
だがそんなことは、もうどうでもよかった。
俺は隣に立つ愛しい人の手を強く握る。
彼女もまた同じ強さで、俺の手を握り返してくる。
その温もり。
その手触り。
それだけが俺の世界の、すべてだった。
星空の下、俺たちはどちらからともなく顔を寄せ合い、そっと唇を重ねた。
それは涙の味でも誓いの味でもない。
ただ穏やかで、どこまでも優しい日常の味がした。
俺たちの物語に壮大な結末はない。
世界を救った英雄にもならないだろう。
俺たちはこれからも不器用なまま非効率なまま、何度も間違えながら生きていく。
でもそれでいい。
君が隣にいてくれるなら。
俺たちは繋いだ手を離さない。
この予測不能で不格好で、しかしどうしようもなく愛おしい新しい世界を、二人で歩いていくために。
『マッチング率0%の君と、恋に落ちる確率』
――了――