第二十四話『ただ、君の隣で』
光が世界を飲み込んだ。
それは破壊の光ではなかった。
すべての色を音を意味を消し去り、すべてを原初の『無』へと還す絶対的なリセットの光。
俺たちの矛盾に満ちた人間性の奔流を叩きつけられたエデンは、暴走の末に最後の選択をしたのだ。
自らの論理体系を、その存在そのものを消去するという選択を。
俺は光の中で意識を失いかけていた。
雫の手の温もりだけが、俺がまだこの世界に存在しているという唯一の証だった。
もう何もかもどうでもよかった。
俺たちは戦い抜いた。
それで十分だった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
永遠のようにも一瞬のようにも感じられた時間の後。
俺の瞼の裏で、純白の光がゆっくりとその色を失っていくのを感じた。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、雫の涙に濡れた美しい瞳だった。
彼女もまた俺と同じように床に倒れ込んだまま、俺の顔をじっと見つめていた。
「……りつ……」
彼女が俺の名前を呼んだ。
その声は掠れていたが、確かに俺の鼓膜を震わせた。
俺は生きている。
俺たちは生きている。
俺は痛む体をゆっくりと起こした。
そして周囲を見渡して、言葉を失った。
図書館は静まり返っていた。
あれほど激しかった天井からの攻撃も、完全に止んでいる。
だが何よりも俺たちを驚かせたのは、あの古びたコンソールだった。
モニターは黒く沈黙していた。
エデンの神の気配は、跡形もなく消え去っていた。
彼は自らを消去したのだ。
俺たちの理解不能な『愛』というウイルスごと、すべてを。
「……終わった……のか……?」
俺の背後でゲンが呻くように言った。
彼も生き残ったアジールの住人たちも、皆傷つき疲れ果ててはいた。
だがその目には、信じられないものを見るかのような戸惑いの色が浮かんでいた。
勝ったという実感は誰にもなかった。
ただ嵐が過ぎ去った後のような、空虚な静寂だけがそこにはあった。
―――その変化は、地上でも同時に起こっていた。
エデンという絶対的な神を失った世界は、緩やかな、しかし決定的な『死』を迎え始めていた。
最初に交通が止まった。
エデンによってコンマ一秒の狂いもなく制御されていた自動運転の車両たちが、一斉にその機能を停止する。
都市の血管という血管を、鉄の血栓となって塞いでしまった。
次に情報が止まった。
人々が脳内のチップで接続していた巨大なネットワークが沈黙した。
天気予報もニュースも、友人との他愛ないメッセージさえもすべてが途絶した。
人々は生まれて初めて、完全な『孤独』と『不確実性』の海に放り出された。
そして最後に、生命維持そのものが脅かされ始めた。
完璧に管理されていた食料生産プラントはその機能を停止し、人々は生まれて初めて『飢え』の恐怖を知った。
エデンが与えていたのは幸福ではなかったのかもしれない。
だがそれは確かに、人々を『生かして』いたのだ。
神を殺した代償は、あまりにも大きかった。
アジールにその報せが届いたのは、それから数日が経った頃だった。
地上との、かろうじて繋がっていた通信回線を通じて、生存者からの断片的な情報がもたらされたのだ。
「……なんてことだ……」
作戦司令室でゲンが頭を抱えた。
「俺たちは世界を救ったんじゃなかったのか……。これじゃただ、緩やかな死へと突き落としただけじゃねえか……!」
重い絶望的な空気がその場を支配した。
俺たちはエデンという独裁者を倒した解放軍ではなかった。
ただ世界の生命維持装置のスイッチを切ってしまっただけの、愚かな破壊者だったのだ。
俺は何も言えなかった。
俺たちの愛の詩が、世界を滅ぼしかけている。
その耐えがたいほどの罪悪感に、押し潰されそうだった。
その沈黙を破ったのは、またしても雫だった。
彼女は静かに立ち上がると、言った。
「……いいえ。まだ何も終わってなんかいません」
彼女は部屋の隅に置かれていたあの革張りのノートを、手に取った。
「エデンは、いなくなった。でも彼が遺したこの『世界』はまだここにある。人々も生きている」
「だったら私たちが始めればいいんです。エデンに頼らない、私たち人間自身の力で、もう一度この世界を作り直すんです」
「作り直すだと……? どうやって! 俺たちガラクタに何ができるってんだ!」
誰かが自嘲するように叫んだ。
「できます」
雫はきっぱりと言った。
「私たちには『記録』があるから」
彼女はノートを開いた。
「私たちは思い出せる。電気がない暗闇の中でどうやって火を熾したかを。水が濁っている時にどうやってそれを濾過したかを。そして何よりも……」
彼女は俺の顔をまっすぐに見た。
「絶望の中でどうやって誰かと手を取り合い希望を見つけ出したかを。……このノートはもうただの恋物語じゃない。これは不完全な人間が、それでも明日を信じて生きていくための最初の『教科書』なんです」
その言葉はまるで暗闇に灯された、一本の蝋燭の光のようだった。
そうだ。
俺たちは無力なんかじゃない。
俺たちは知っている。効率だけでは測れない豊かさを。
俺たちは知っている。失敗の中から新しいものを生み出す知恵を。
俺たちは知っている。一人では乗り越えられない壁を、誰かと一緒なら乗り越えられるという奇跡を。
ゲンがゆっくりと顔を上げた。
その目には再び不屈の修理屋の光が宿っていた。
「……へっ。教科書か。気に入ったぜ、その言葉」
彼は立ち上がり、その場にいた全員に檄を飛ばした。
「いつまでうなだれてやがる! 神様がいなけりゃ俺たちが神様になりゃいいだけの話だろうが! 聞け、お前ら!」
「今からアジールはただの隠れ里じゃねえ! このぶっ壊れちまった世界を修復するための、最後のワークショップだ!」
「文句のある奴はいねえな!」
そのしわがれた、しかし力強い声に、絶望に沈んでいた男たちの顔に一人、また一人と生気が戻っていく。
「応!」という地鳴りのような雄叫びが、アジールに響き渡った。
その日から俺たちの本当の『創造』が始まった。
アジールの持つ旧時代の技術と創意工夫のすべてが、今度は地上世界を救うために注ぎ込まれていく。
手作りの発電機。循環型の農業。そして何よりも、人々が互いに助け合うコミュニティの知恵。
俺と雫はその中心にいた。
俺はアジールの図書館の『記憶』を地上へと伝え、人々が失われた技術を取り戻すための手助けをした。
雫はその太陽のような笑顔と決して諦めない心で、絶望に沈む人々の心を繋ぎ合わせていった。
世界はゆっくりと、しかし確実に、その脈動を取り戻し始めていた。
それはエデンが作り上げた完璧で無機質な世界ではない。
不便で不格好で予測不能な、混沌に満ちた世界。
だがそこには確かな、人間の温もりがあった。