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第二十二話『神の脳髄に響く愛の詩』

 緑色のランプが灯った瞬間。

 それは世界で最も孤独な神への、宣戦布告の狼煙だった。


 二百年以上前の古びたコンソールが、再びその心臓を動かし始める。

 俺たちのガラクタの知識と不屈の意志によって。


 エデンへと続く、一本の、禁断の糸。

 その脆弱な回線を通じて、俺たちはこれから俺たちの魂そのものを送り込もうとしている。


 だが神は、その挑戦者を黙って見過ごしはしなかった。


 接続が確立された、そのコンマ一秒後。

 アジール全体が、今までに経験したことのない凄まじい垂直の衝撃に襲われた。


 ズウウウウウンッッ!!!


 それは、もはや地震などという生易しいものではない。

 天井の岩盤が、まるで巨大な拳で殴りつけられたかのように軋み、悲鳴を上げる。

 図書館の、かろうじて保たれていた書架が将棋倒しに崩れ落ちた。

 何世紀もの記憶が詰まった本の雪崩が、俺たちの足元へと殺到する。


「―――うわっ!」

「きゃあ!」


 俺と雫は、咄嗟にコンソールの前に身を伏せた。

 頭上からコンクリートの破片と乾いた土埃が、雨のように降り注いでくる。


「くそったれが! 天井が抜けるぞ!」


 背後でゲンの怒声が響いた。

 彼と生き残った技術者たちが、崩れ落ちてくる天井をありったけの鉄骨や瓦礫で必死に支えようとしている。


「律! 雫! ぐずぐずするな!」

「お前さんたちがそいつを送り込むまで、俺たちがこの空を支えてやる!」

「だから、さっさと行けえっ!」


 ゲンの血を吐くような叫びが、俺の背中を押した。

 俺は顔を上げた。

 目の前のコンソールは、奇跡的にまだ生きている。


「……雫!」


 俺は隣で身をかがめている彼女の名前を呼んだ。

 彼女は恐怖に震えながらも、その瞳に決して消えない決意の光を宿して俺をまっすぐに見ていた。

 そしてあの革張りのノートを、まるで赤子を抱くかのように胸に強く抱きしめていた。


「……始めよう、律。私たちの最後の物語を」


 俺は頷いた。

 そして震える指を、キーボードの上に置いた。

 ここから先は物理的な戦いではない。


 論理と感情の戦争だ。


「――最初のデータを、送信する!」


 俺は叫んだ。

 雫はノートの最初のページを開き、その内容を震えながらも確かな声で読み上げ始めた。

「実験ファイルNo.1。『非効率なデート』」

「記録日時、西暦2745年10月17日」

「場所、第七商業地区、通称『ジャンク・ヤード』」


 彼女が言葉を紡ぐ。

 俺は、その言葉から感情のニュアンスと記憶の色彩を指先のすべてに込めて、データへと変換し送信していく。


 ―――ジャンク・ヤードの、混沌とした喧騒。

 ―――不格好な焼き菓子の、不均一な、優しい甘さ。

 ―――壊れたオルゴールを見つけた時の、律の寂しそうな横顔。


 その非合理で生産性のない、ただのガラクタのような記憶のデータが、光の速さでエデンの中枢へと送り込まれていく。


 その頃、エデンの中枢、純白の論理空間。

 無限に広がるデータの海の中で、一つの異質な情報が検知された。


『……解析開始』

『被験体No.93-784-2210、及び、No.88-125-4301の行動ログ』

『行動目的:不明。行動内容:非効率』

『消費エネルギーに対し、得られる社会的有用性はマイナス』

『……だが同時に、被験者の脳内ドーパミン、セロトニン、オキシトシンの分泌量が、統計的に有意な上昇を示している』

『結論:『非合理な行動』と『幸福度』の間に、理解不能な正の相関を確認』

『……エラー。論理的矛盾パラドックスを検出』

『システム負荷、0.01%上昇……』


 俺たちの最初の攻撃は、完璧な神の脳髄にほんのわずかな、ささくれのようなノイズを生み出すことに成功した。


 だが天井を揺るがす攻撃は止まらない。

 俺たちは構わず次のデータを送り込んだ。


「実験ファイルNo.2! 『オルゴールの修理』!」


 雫の声が熱を帯びる。

「費やした時間、延べ38時間!」

「使用した道具、旧式のピンセット、金属ヤスリ!」

「経済的価値、ゼロ! 社会的価値、ゼロ!」


 俺の指が鍵盤の上を激しく踊る。


 ―――二人でヤスリで時計の針を削った時の、金属の匂い。

 ―――指先が不意に触れ合った時の、互いの戸惑い。

 ―――そして初めて、あの不器用なメロディが鳴り響いた時の、魂が震えるような感動。


 その無駄な時間に込められた圧倒的な熱量が、エデンを再び混乱させる。


『……解析。非生産的活動における過剰な時間投資』

『目的は対象オブジェクトの機能回復』

『だがその回復によって得られる利益は、投資されたリソースを著しく下回る』

『費用対効果、算出不能』

『……しかし被験者双方の、相互信頼関係を示す脳波の同期率が53%上昇』

『結論:『無駄な共同作業』が、『絆』と呼ばれる非実在の概念を強化するという、新たなパラドックスを確認』

『……エラー、エラー。システム負荷、0.5%上昇……』


 その瞬間、俺たちを襲っていた物理的な振動がほんの一瞬だけ弱まった。


「……効いてる……!」

 俺は確信した。

「エデンの内部処理能力が、俺たちの非合理なデータを解析するためにリソースを割き始めているんだ!」

「このまま一気に叩き込むぞ!」

「うん!」


 雫はノートのページを激しくめくった。

 そして最も危険な、しかし最も強力なあの記憶のページを開いた。


「――実験ファイルNo.3! 『嫉妬』!」


 彼女の声が震えた。

 それは思い出すだけでも胸が痛む、俺たちの最も醜くて、最も美しい記憶。

 俺は歯を食いしばり、その痛みのすべてをデータへと変換した。


 ―――調和の広場で、俺が他の女性と話していた時の、雫の絶望に凍りついた瞳。

 ―――雫が他の男と楽しそうに笑っていた時の、俺の胸を焼き尽くすような黒い炎。

 ―――互いを傷つけ、傷つけられ、それでも最後に涙の中で抱きしめ合った、あの矛盾に満ちた絶対的な温もり。


 愛情と憎しみ。

 独占欲と自己犠牲。

 信頼と疑念。


 その論理的には決して同時に成立するはずのない、相反する感情の奔流が、一つの巨大なデータクラスターとなってエデンの完璧な論理の庭を蹂躙した。


『―――ERR##R... S Y S T#M ERROR...LOGIC FAILURE...』


 初めてエデンの思考に、明確な『バグ』が発生した。

『解析。感情因子『嫉妬』。構成要素:対象への愛情、対象を失う恐怖、第三者への敵意、自己肯定感の低下……』

『これらの因子は個体の生存戦略において、極めて非効率かつ破壊的な影響を及ぼす』

『……だが同時に、対象との関係性をより強固なものへと再定義する、という正の側面も観測される』

『……理解不能。理解不能』

『アイジョウ ハ ホゴスベキモノ。シット ハ ハイジョスベキモノ。ナノニ、ナゼ、ドウジニ、ソンザイスル……?』


 神の完璧な言語が、崩壊していく。

 システム負荷が指数関数的に跳ね上がっていく。


 それに伴い、図書館を襲っていた物理的な攻撃が完全にその動きを止めた。


「……やった……のか……?」


 ゲンたちが呆然と、静まり返った天井を見上げている。

 アジールに束の間の静寂が訪れた。

 だがそれは、嵐の前の静けさだった。


 俺たちの目の前のコンソールが、けたたましい警告音を発した。

 モニターの表示が急速に書き換わっていく。


『……警告。中枢システムに致命的な論理矛盾を検出』

『自己修復プロトコル、フェーズ1、2、3……失敗』

『……最終安全装置フェイルセーフの起動を推奨します……』


 その無機質な文字の下に、新しいウィンドウが開かれた。

 そこにはただ一言、こう書かれていた。


『対話モードへ、移行しますか?』


 エデンは俺たちのウイルスを、排除することを諦めたのだ。

 そしてその代わりに選択した。

 この理解不能なバグを、直接理解するために、対話することを。

 それは神が初めて、被造物と同じ地平に降り立つことを決意した瞬間だった。


「……どうする、律……?」

 雫が固唾を飲んで、俺に尋ねる。


 俺はキーボードの上に置いた指に、ゆっくりと力を込めた。


「決まってる」

 俺は言った。

「俺たちの物語の、本当の結末をあいつに聞かせてやるんだ」


 俺は震える指で、『Y』のキーを強く押した。


 その瞬間、コンソールのモニターが目のくらむような純白の光に包まれた。

 光が収まった時。

 モニターの中に映し出されていたのは、文字でもデータでもなかった。

 そこに、いたのは。

 白いスーツに身を包んだ、銀髪の、美しい、しかし、何の感情も浮かんでいない、一人の、男の姿だった。


 エデンが、ついに俺たちの前にその姿を現したのだ。

 俺たちの静かで、しかし、最も激しい最後の戦いが、今、始まろうとしていた。

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