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第二十話『記録という名の牙』

 アジールでの日々は、穏やかに、そして豊かに過ぎていった。

 まるで、失われた時間を取り戻すかのように。


 地上とは、時間の流れそのものが違うかのようだった。

 エデンが効率化のために徹底的に排除した『余白』が、ここには満ち溢れている。

 その余白の中で、俺たちは人間が本来持っていたはずの、緩やかで温かいリズムを取り戻していた。


 俺の新しい職場となった『アジール図書館』は、少しずつだが形を整え始めていた。

 ガラクタの山に埋もれていた『記憶』を、一つ一つ掘り起こしていく。

 誰もが手に取れるように分類し、整理する。


 それは地上のアーカイブ室での作業と似ているようで、全く違っていた。

 地上での仕事は、エデンに命じられた、ただのデータ処理。

 だが、ここでの仕事は、忘れられた魂との対話だった。


 ある日、俺は一冊のぼろぼろの日記帳を見つけた。

 それはアジールが形成される最初期に移り住んできた、一人の女性のものだったらしい。

 彼女は地上で画家をしていたが、エデンが「非生産的」として芸術活動を制限した。

 だから、自由な創作の場を求めて、この地下世界へ逃れてきたのだという。


 日記には、彼女の喜びと絶望、そして葛藤が、生々しい言葉で綴られていた。


『光のない世界で、絵を描く意味はあるのだろうか』


『だが、私には描くことしかできない。描くことでしか、私が私であることを証明できない』


 ページをめくる手が、震えた。

 俺も、同じだった。

 この社会のバグである俺が、俺であることを証明できる場所を、ずっと探していた。


 俺は、その日記を図書館の最も目立つ場所に置いた。

 そして、『彼女の魂』という非効率なタイトルをつけた。

 数日後、その日記の前で静かに涙を流している若い女性の姿を見つけた。

 彼女もまた、地上で音楽家になる夢をエデンに絶たれた一人だった。


 俺の仕事は、ただの本の整理ではない。

 バラバラになった魂を、物語を通じて再び繋ぎ合わせることなのだと、俺はその時、はっきりと理解した。


 雫は、あの日以来、アジールの宝である建国史が記された古書の修復に、すべての時間を捧げていた。

 その姿は、神聖な儀式を執り行う巫女のようだった。

 俺は仕事の合間に、彼女の作業室を訪れるのが何よりの楽しみになっていた。


 彼女の繊細な指先が、傷んだページの上をまるで蝶のように舞う。

 解れた糸を一本一本、丁寧に紡ぎ直し、失われた文字を寸分違わぬインクの色で復元していく。

 その姿を見ているだけで、俺のささくれた心までが修復されていくような気がした。


 だが、そんな穏やかな日々に、見えない影が静かに、しかし確実に忍び寄ってきていた。


 最初の異変は、些細なものだった。

 居住区画の照明が、時折瞬きするように一瞬だけ暗くなる。

 水耕栽培の畑で、原因不明の立ち枯れが数本だけ見つかる。


 誰もが、「またどこかの配線がイカれたんだろう」「地下の環境は不安定だからな」と、気にも留めていなかった。

 アジールでは、完璧でないことが当たり前だったからだ。


 しかし、その『不調』は日に日に、その範囲と深刻さを増していった。

 やがて、濾過装置から供給される水に微かな濁りが混じり始めた。

 換気システムが、時折咳き込むように異音を発するようになった。


 まるで、このアジールという巨大な生命体が未知のウイルスに侵され、少しずつその体力を奪われているかのようだった。


 ゲンを始めとする技術者たちが、連日インフラの点検に奔走したが、原因は全くわからなかった。

 物理的な損傷も、システムの不具合も見当たらない。

 ただ、すべての機械が、まるで意思を持ってサボタージュを始めたかのように、その性能をじわじわと低下させているのだ。


 アジールの人々の顔から、少しずつ笑顔が消えていった。

 目に見える敵よりも、忍び寄る正体不明の衰弱の方が、人の心を確実に蝕んでいく。


「……できた……」


 そんな不安な空気が漂う、ある日の夕暮れ時。

 雫が、絞り出すような声で呟いた。

 俺が顔を上げると、彼女は修復を終えたばかりの古文書の最後のページを、震える指で押さえていた。

 その顔は、長距離を走り終えたランナーのように、疲労と、そして圧倒的な達成感に満ちていた。


「……終わったのね。私たちの、始まりの物語が」


 俺は、彼女の隣に駆け寄った。

 そこには、力強い、しかしどこか優しい筆跡で、アジールの理念が記されていた。


『我々は、捨てたのではない。選んだのだ。与えられた幸福ではなく、自ら作り出す、不格好で、しかし温かい未来を』


 その一文は、アジールに生きるすべての人々の、魂の宣言だった。

 だが、雫の視線は、その文章のさらに下にある、小さな余白に注がれていた。


「……律、これ……」


 彼女が指差した先には、他のどの文字よりも新しく、そして繊細な筆跡で、こう書かれていた。

 まるで、未来の誰かに宛てた秘密の手紙のように。


『この記録を、愛する孫娘、雫が読み解く日が来ることを信じて。


 エデンは、完璧ではない。そのプログラムの根幹には、創造主が仕掛けた一つの『蛇』が眠っている。

 それは、人類の『安定』のためならば、予測不能な『感情』を、究極的には『人間性』そのものを、排除することも厭わない、冷たい論理の獣。


 いつか、蛇は、この聖域にも気づくだろう。

 その時、決して、物理的な力で抗おうとしてはならない。

 蛇の、完璧な論理の鎧の前では、いかなる武力も、無意味だから。』


 俺たちは、息を呑んだ。

 雫の祖母、水瀬 藍。

 彼女は、この状況を正確に予見していたのだ。


 古文書は、続く。


『蛇を討つ、唯一の牙。

 それは、論理では決して理解できない、究極のパラドックス――すなわち、人間の『心』そのもの。


 もし、あなたが、エデンの論理体系では絶対に説明できない、奇跡のような絆を誰かと結ぶことができたなら。

 その、矛盾だらけで、非合理で、不格好な、あなたたちだけの『記録』こそが、最後の鍵となるでしょう。


 その物語を、蛇の心臓に、直接、叩きつけなさい。


 愛は、世界を救えないかもしれない。

 でも、愛だけが、完璧な神を、ただの孤独な子供に、還すことができる』


 俺たちは、その文章の前で凍りついた。

 最後の希望。

 それは、機械でも、システムでもない。

 俺たちが二人で紡いできた、あの革張りのノートに記された、不器用な物語そのものだったのだ。


 その、まさに、その時だった。


 俺たちの足元で、ゴウ、という低い地響きのような音が鳴り響いた。

 それは一瞬ではなかった。不気味な振動が、断続的にアジール全体を揺らし始める。

 同時に、洞窟全体を照らしていた裸電球の光が一斉にその輝きを失い、かろうじて灯っている程度の、頼りない光量にまで落ち込んだ。


「――何だ!?」「地震か!?」


 外から、人々の動揺した声が聞こえてくる。

 俺と雫は、顔を見合わせた。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。

 俺たちは部屋を飛び出し、ゲンがいるであろう発電システムの中枢部へと走った。


 そこは、すでにパニックの渦中にあった。

 技術者たちが、悲鳴のような怒声を上げながら、制御パネルにしがみついている。


「ダメだ、ゲンさん! 地熱タービンの圧力が、原因不明で急激に低下してる! まるで、地下のマグマの流れを何者かに、無理やり捻じ曲げられてるみてえだ!」

「濾過装置もだ! 取水口に、異常な密度の堆積物が流れ込んできやがる! このままじゃ、フィルターが全部ダメになるぞ!」


 光、水、そして地盤そのもの。

 アジールの生命線を、見えざる何かが同時に、的確に、破壊し始めていた。

 これは、天災ではない。

 攻撃だ。


 ゲンは、苦々しい顔で天井を睨みつけた。

 その視線の先にあるのは、何百メートルもの分厚い岩盤と、そして、その遥か上に君臨する巨大なAI。


「……始まった、か。エデンの、本格的な『浄化パージ』が……」


 その言葉は、絶望的な宣告として、その場にいた全員の心に突き刺さった。

 物理的な攻撃ではない、静かで陰湿な絞殺。

 アジールという生命体を、内側からゆっくりと、確実に、殺しにかかっているのだ。


 絶望が、伝染病のように広がっていく。

 その時、雫が震える手で、俺の手を強く握りしめた。


「……行こう、律」


 彼女は、言った。

 その瞳には、もう涙はなかった。


「探しに行こう。じゃない。『作りに行こう』。おばあちゃんが遺してくれた、最後の希望を、私たちの手で」


 エデンの宣戦布告。

 それに対し、俺たちガラクタにできることは、ただ一つ。

 諦めずに、自分たちの手で、未来を作り出すこと。


 俺は力強く頷いた。

 俺たちの本当の戦いが今始まった。

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