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第十八話『ガラクタたちの理想郷』

 俺の指先が、冷たく硬い鉄の扉に触れた。

 二百年以上もの間、地上から隔絶されてきた未知への扉だ。

 その向こう側からは、微かな生活音が漏れ聞こえてくる。隙間からは、温かい光が差し込んでいる。ここがただの廃墟ではないことを、それらが雄弁に物語っていた。


 俺は、隣に立つ雫と最後の視線を交わす。

 互いの瞳に映るのは、恐怖と疲労。そして、それらをすべて塗りつぶすほどの、燃えるような希望。

 俺は覚悟を決め、扉に埋め込まれた旧式のハンドルに全体重をかけた。


 ギギギギギ……ッ!


 悲鳴のような金属音が、地下通路に響き渡る。長年の間に固着した機構が、無理やりこじ開けられていく。

 雫も反対側からハンドルに手をかけ、小さな体で懸命に力を込めた。俺たちの全身の力が、一点に注がれていく。

 やがて、ごとり、という重い感触と共にロックが外れた。


 扉は、ゆっくりと内側に向かって開き始める。

 その隙間から、光、音、そして匂いが、洪水のように俺たちに向かって押し寄せてきた。


「―――うわっ!」


 俺は、あまりの情報の奔流に、思わず腕で顔を庇った。


 まず目に飛び込んできたのは、圧倒的な光だった。

 エデンが管理する均一な光ではない。目に優しく最適化された、あの光とは違う。

 裸電球のオレンジ色の光。栽培ポッドから放たれる紫色の光。そして、生活空間から漏れる、様々な色合いの光。

 それらが入り混じり、壁や天井に乱反射する。洞窟全体が、不規則で、しかし温かい明るさで満たされていた。


 次に耳を打ったのは、音の渦だった。

 子供たちのはしゃぎ声。男女が言い争う声。どこからか聞こえてくる、旧式の弦楽器が奏でる陽気なメロディ。それらすべてを包み込むような、大勢の人々のざわめき。

 それは、地上では決して聞くことのできない、非効率で感情に満ちた、生命のノイズだった。


 そして、鼻をついたのは匂い。

 土の匂い。スパイスの効いた料理の匂い。機械油の匂い。そして、汗をかいて働く人々の匂い。

 無菌室のような地上とは全く違う、混沌として、しかしどうしようもなく人間臭い匂いが、俺の肺を初めて本当の空気で満たしたかのようだった。


 俺は呆然と、その光景に立ち尽くしていた。

 そこは、巨大な地下の空洞だった。おそらく、旧霞ヶ関駅の本体部分なのだろう。天井はドーム状に高く、壁面には今はもう使われていない線路やホームの痕跡が残っている。


 だが、その廃墟は、驚くべき方法で一つの『街』として生まれ変わっていた。


 線路の上には、色とりどりの防水シートや金属板で増改築された、古い地下鉄の車両が家のように並んでいる。

 車両の窓からは生活の光が漏れ、屋根に取り付けられたパイプからは白い湯気が立ち上っていた。車両と車両の間には洗濯物が干され、子供たちが走り回っている。


 ホームの跡地は、広場や畑として利用されていた。

 壁際に設置された巨大な栽培ポッドでは、LEDライトを浴びて青々とした野菜が育てられている。広場の中央では、人々が焚き火を囲み、何かを飲み食いしながら談笑していた。

 壁面にはスプレーで描かれたであろう、巨大で色鮮やかな壁画が、この街の生命力を象徴するかのように圧倒的な存在感を放っていた。


 ここは、ガラクタで作られた理想郷ユートピアだった。

 エデンが切り捨てた、非効率なモノと、非適合な人間たち。彼らが寄り集まって作り上げた、生命力に満ち溢れた秘密の王国。

 俺は、そのあまりに現実離れした光景に言葉を失っていた。ここは本当に、あの無機質な都市の地下なのだろうか。


「……すごい……」

 隣で、雫が夢見るような声で呟いた。

 彼女の瞳は、目の前の光景を一滴たりとも見逃すまいとするかのように、キラキラと輝いている。彼女にとってここは、おばあちゃんから聞かされたおとぎ話の世界が、そのまま現実になったような場所なのだろう。


 俺たちが入り口で立ち尽くしていると、やがて、こちらの存在に気づいた人々が、一人、また一人と足を止めて、遠巻きにこちらを見始めた。

 その視線には、好奇心と、そして明確な警戒の色が浮かんでいる。無理もない。俺たちは、この聖域にとっては招かれざる侵入者なのだから。


 空気が、ぴんと張り詰める。

 広場にいた数人の男たちが、腰に下げた工具か武器かわからないものを握りしめ、じりじりとこちらへ距離を詰めてくる。

 まずい。そう思った、その時だった。


「おっとっと、お客さんかい? そいつは、随分と久しぶりだ」


 のんきな声と共に、男たちの輪の中から一人の老人がゆっくりと姿を現した。

 年齢は六十代か、あるいは七十代か。継ぎ接ぎだらけの作業着に身を包み、頭には油に汚れたゴーグルを乗せている。

 だが、その深いしわが刻まれた顔には、厳しい警戒心よりも、むしろ面白いものを見つけた、というような穏やかな笑みが浮かんでいた。


「あんたたちは、どっから来たね。上かい? それとも、迷子の幽霊かい?」


「……俺たちは……」

 俺が何か言おうとする前に、雫が一歩前に出た。

「私たちは、探してきました。エデンが決めた幸福じゃない、本当の生き方ができる場所を」

 その凛とした声に、周囲の人々のざわめきが少しだけ静まった。


 老人は雫の顔をしげしげと眺めると、ふむ、と一つ頷いた。

「……なるほどな。その目、気に入った。久しぶりに見たぜ、そんな諦めることを知らねえ目をな。……よし、こっちへ来な。まずは腹ごしらえでもしながら、あんたたちの話を聞かせてもらうとしよう」


 老人はそう言うと、警戒していた男たちに「こいつらは大丈夫だ」とでも言うように、片手を挙げて合図した。

 そして、俺たちに「わしはゲンだ。このガラクタの山の、しがない修理屋だよ」と、にやりと笑って自己紹介した。


 俺たちは、ゲンと名乗った老人に導かれ、街の中心部へと足を踏み入れた。すれ違う人々はまだ警戒を解いてはいないようだったが、少なくとも敵意を向けてくる者はいなかった。

 ゲンが俺たちを連れて行ったのは、焚き火が燃える広場だった。彼はどこからか少し欠けた陶器のカップを二つ持ってくると、焚き火にかけられた大きな鍋の中から熱いスープを注ぎ、俺たちに手渡してくれた。

 それは、様々な野菜と正体不明の肉が煮込まれた、素朴なスープだった。だが、その温かさが冷え切った俺たちの体にじんわりと染み渡っていく。


「さて、と」

 ゲンは自分も丸太の椅子に腰掛けると、俺たちの顔を改めて見た。

「あんたたち、ただ者じゃねえな。エデンの監視をどうやって潜り抜けて、こんな場所までたどり着いた?」


 俺は雫と顔を見合わせた。そして、覚悟を決めて、俺たちのすべてを話した。

 俺たちが「適合者ゼロ」であること。

 雫の提案で『疑似恋愛実験』を始めたこと。

 オルゴールを修理し、嫉妬のゲームで互いの心を確かめ合ったこと。

 そして、エデンの監視が始まり、この『アジール』の存在を突き止めたこと。


 俺たちの話が終わる頃には、焚き火の周りにはいつの間にか大勢の人々が集まり、静かに耳を傾けていた。

 ゲンは腕を組んだまま、黙って俺たちの話を聞いていた。だが、俺が「適合者ゼロ」という言葉を口にした時、その口元にわずかに笑みが浮かんだのを、俺は見逃さなかった。


「……なるほどな。そういうことかい」

 俺たちの話がすべて終わると、ゲンは大きく、深く頷いた。

「苦労したな、お前さんたち。……だが、よくここまでたどり着いた。歓迎するぜ、アジールへ」


 彼はそう言って、しわがれた、しかし力強い手で俺の肩を、そして雫の肩をぽんと叩いた。


「『適合者ゼロ』、か。……地上じゃ、それは『欠陥品』の烙印なんだろうな。だが、ここでは違う」


 ゲンは、周囲に集まった人々の顔をぐるりと見渡した。

 その顔ぶれは老人からまだ幼い子供まで様々だった。だが、その誰もが、どこか社会の規格からほんの少しだけはみ出したような、強い個性を放っていた。

「ここにいる奴らは、みんなお前さんたちと同じさ。エデンが決めた『幸福』の物差しじゃ、測れねえ奴らばかりだ。効率が悪い、感情的すぎる、反항的だ……。いろんな理由で社会からはみ出したガラクタよ。だがな」


 彼は一度言葉を切り、燃え盛る炎を見つめた。

「ガラクタには、ガラクタの生き方がある。欠けてるからこそ、寄り添い合える。不揃いだからこそ、面白いもんが生まれる。ここはそういう場所だ。誰かに決められた幸福じゃなく、自分たちの手で、不格好な幸せを作り出すための、最後の聖域アジールよ」


 その言葉は、俺の魂を激しく揺さぶった。

 俺たちが、ずっと探し求めていた答えがそこにあった。

 ここは、ただの隠れ里ではない。システムから逃げ出した、敗残者の集まりではない。

 ここは、エデンとは違う、もう一つの生き方、もう一つの文明を、自分たちの手で築き上げようとする、誇り高き反逆者たちの理想郷ユートピアなのだ。


 俺は、スープのカップを握りしめた。その温かさが、手のひらから心の奥底まで伝わってくるようだった。

 俺たちの旅は、ここで終わったのかもしれない。


 いや、違う。

 俺たちの本当の人生は、今、この場所から始まろうとしていた。

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