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第十七話『地下に眠る聖域』

 その夜、古文書修復室の空気は、インクと古い紙の匂いに鉄錆と覚悟の匂いが混じり合っていた。

 作業台の上には、いつもの修復道具の代わりに、雫がジャンク・ヤードの仲間からかき集めてきた旧時代の遺物が並べられている。


 バッテリー式のヘッドライト、何十年も前に製造されたであろう頑丈なロープ、そして防水加工された無骨なデザインのバックパック。

 その隣には、俺がアーカイブ室のデータから復元し紙に印刷した、二百年以上前の地下鉄の設計図が広げられていた。


「……本当に、行くんだな」


 俺はごくりと喉を鳴らしながら呟いた。

 それは隣に立つ彼女への問いかけであると同時に、自分自身の心に最後の確認をするための言葉でもあった。


「当たり前でしょ」


 雫はバックパックのベルトを締めながら、きっぱりと答えた。

 その横顔には恐怖や不安の色は微塵もなく、まるで待ちに待った冒険に出かける前夜の子供のように、その瞳は好奇心と決意の光で輝いていた。


「エデンがあれほどまでに隠したい場所よ。きっとそこには、私たちが想像もできないような『本当の宝物』が眠ってる。適合率なんていうくだらない物差しでは測れない、生きる意味そのものがね」


 彼女の言葉は、俺の心の最後の迷いを振り払った。

 そうだ。俺たちは、ただシステムから逃げるのではない。

俺たち自身の生きる意味を、この手で掴み取りに行くのだ。


 俺たちは設計図を広げ、最後の作戦会議を始めた。

「侵入経路は、ここだ」


 俺は地図の一点を指差した。

「第七商業地区の外れにある、今は使われていない地下鉄の換気塔。二百年前の記録では、ここが唯一、旧霞ヶ関駅の未成線ホーム区画に繋がるメンテナンス用の縦穴になっている」


「ジャンク・ヤードの真下ね。灯台下暗しってやつかな。エデンも、まさか自分たちが切り捨てたゴミ溜めの底に、秘密の入り口があるなんて思わないでしょうね」


「問題は、エデンの監視網だ。特に夜間の自律型警備ドローンの巡回ルートは数分単位で最適化されている。このルートのほんのわずかな隙間を突いて、換気塔までたどり着かないといけない」


「まるで、スパイ映画みたい」

「笑い事じゃない。見つかれば、俺たちは『社会秩序を乱す危険分子』として即座に拘束される。そうなれば、二度と会うこともできなくなるだろう」


 俺の言葉に雫は一瞬だけ表情を硬くした。

 そして何かを決意したように、俺の目をまっすぐに見た。


「……ねえ、律。もし……もしも、私たち、はぐれちゃったり、どっちかが捕まったりしたら……」


「……」


「その時は、絶対に相手を待たないこと。振り返らないこと。一人でもアジールを目指すの。そして、そこでちゃんと生きて。……いい?」


 それは非情な、しかし互いを想い合うからこその、究極の約束だった。

 俺は彼女の小さな肩がわずかに震えているのに気づいた。

 強がってはいても、彼女も怖いのだ。


 俺は何も言わずに、彼女の手を強く握りしめた。

 手は冷たく汗ばんでいた。


「……はぐれたりしない。俺が必ず雫をそこへ連れて行く」


 俺は初めて彼女の前で、自分の意志をはっきりと告げた。

 雫は驚いたように目を見開き、そして泣きそうな顔で、ふわりと微笑んだ。


 深夜、俺たちはエデンが推奨しない非効率な素材で作られた黒い服に身を包み、古文書修復室を後にした。

 図書館の裏口から、夜の闇へと滑り込む。


 煌びやかな都市の夜景が、今はまるで巨大な牢獄の監視塔の光のように見えた。

 俺たちはその光から逃れるように、建物の影から影へと息を殺して進んでいく。


 ジャンク・ヤードの外れに、目的の換気塔は巨大な墓石のように静かに佇んでいた。

 錆びついた鉄格子の扉には旧式の南京錠が、まるでこの場所が忘れられていることの証のようにぶら下がっている。

 雫が懐から取り出したワイヤーで、慣れた手つきで錠を外す。


 ギイ、という耳障りな音を立てて、地下世界への入り口が開かれた。

 中から、かび臭い湿った空気が吹き上げてくる。

 俺たちはヘッドライトのスイッチを入れると、躊躇うことなく暗闇の中へと続く螺旋階段を下りていった。


 地下は、エデンの完璧な世界とは完全に断絶された異次元の空間だった。

 壁からは絶えず水が滴り、足元には得体の知れないぬめりが広がっている。

 俺たちのヘッドライトの光だけが暗闇をナイフのように切り裂き、前へと進むべき道を照らし出していた。


 廃線となった地下鉄のホームは、まるで巨大な生物の骸のようだった。

 広告のホログラムは光を失い、案内表示の電子パネルは黒く沈黙している。


 時折、どこからかキーキーという金属音のようなものが聞こえ、そのたびに俺たちは身を固くした。

 それはおそらくただのネズミか、あるいは風の音だろう。

 だが、この閉ざされた空間では、すべての物音が未知の恐怖を掻き立てた。


「……怖いか?」

 俺は、前を歩く雫の背中に声をかけた。


「……ううん。怖くない、って言ったら、嘘になるかな。でも」

 彼女は立ち止まり振り返った。ヘッドライトの光に照らされたその瞳は、潤んでいるように見えた。


「でも、律が後ろにいるって思うと、不思議と前に進める。……律は? 怖くないの?」


「……怖いさ」


 俺は正直に答えた。

「暗いのも狭いのも、本当は苦手だ。だが、雫が俺の前を歩いてくれている。その背中を見ていると、俺も弱音を吐いていられないって思うんだ」


 俺たちは互いに相手の存在を支えにしていた。

 一人では、決してここまで来ることはできなかっただろう。


 設計図が示す未成線ホームへの分岐点まで来た時、俺たちは最初の障害にぶつかった。

 通路が、天井からの大規模な崩落によって完全に塞がれていたのだ。

 巨大なコンクリートの塊が行く手を阻んでいる。


「……ダメか」

 俺は絶望的な気持ちで、瓦礫の山を見上げた。


「諦めるのは、まだ早い」


 雫はバックパックからロープを取り出した。そして懐中電灯で瓦礫の山の上方を照らす。

 そこには、かろうじて人が一人通れるくらいの隙間が、暗い口を開けていた。


「あそこを越えるしかない。私が先に登ってロープを固定する。律は下で待ってて」


「無茶だ! 足場が崩れたら……」


「大丈夫。私、こういうの得意だから」


 彼女はそう言うと、まるで猫のようにしなやかな動きで瓦礫の山を登り始めた。

 小さな体の一体どこにそんな力が、と俺は呆然と見上げていた。


 やがて彼女は隙間にたどり着くと、近くの太い配管に手際よくロープを固定した。


「よし、律! 来て!」


 俺は彼女が垂らしてくれたロープを必死で掴んだ。腕が悲鳴を上げる。だが俺は歯を食いしばって、自分の体を上へ、上へと引き上げた。


 瓦礫の山を越えた先は、さらに空気が淀んでいた。

 ここは、もう何百年も人の踏み入れたことのない場所なのだ。

 俺たちは息を切らしながら再び歩き始めた。どれくらい歩いただろうか。疲労と緊張で、時間と空間の感覚が麻痺してくる。

 その時、俺はあることに気づいた。


「……雫、待って」

「どうしたの?」

「風だ……。わずかだが、空気の流れがある。向こうから吹いてきている」


 それは、この閉鎖された地下空間ではあり得ないことだった。

 風が吹いているということは、この先に外気と通じる何らかの空間が広がっていることを意味する。

 俺たちは顔を見合わせた。そして息を殺して耳を澄ます。


 ―――ウォン……ウォン……。


 風の音に混じって、何か低い機械の駆動音のようなものが聞こえる。そして、それだけではなかった。

 微かに、本当に微かにだが音楽のような……誰かの笑い声のような……。

 生活の音が聞こえる。


 俺たちは逸る心を抑え、音のする方へと慎重に歩を進めた。

 やがて俺たちの目の前に、巨大な防爆扉がその重々しい姿を現した。

 それは二百年以上前の旧式の鉄の扉。

 設計図にあった未成線ホームへの最後の入り口だ。


 扉は固く閉ざされている。だが、その分厚い鉄の隙間から、温かい光が一本の線となって漏れ出していた。

 そして、あの生活の音は間違いなく、この扉の向こう側から聞こえてきている。


 アジール。聖域。

 それは、ただの伝説ではなかった。

 今、俺たちの目の前にある。


 俺は雫と視線を交わした。

 互いの瞳には、恐怖と疲労と、そしてそれを遥かに上回る圧倒的な希望の光が宿っていた。


 俺は、ゆっくりとその冷たい鉄の扉に手を伸ばした。

 俺たちの本当の人生の扉に。

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