第十六話『見えざるエデンの視線』
『疑似恋愛実験』と書かれたタイトルが二本線で消され、『律と雫の記録』と改められたノート。
それは、俺たちの関係が新しい段階に入ったことを示す、静かな宣言だった。
あの嵐のような嫉妬のゲームから数日が経ち、古文書修復室には以前とは違う穏やかで、しかしどこか甘やかな空気が流れるようになっていた。
俺たちは、もう「実験」ごっこはやめた。代わりに、ただ共に時間を過ごした。
俺がアーカイブ室で見つけた判読不能な文字で書かれた古文書の解読を雫に手伝ってもらったり、彼女が修復に行き詰まった本の歴史的背景を俺が端末で調べて教えたり。
それは生産性も社会的な価値もない、純粋に二人だけの時間だった。
互いの得意なことで互いの世界を少しだけ広げ合う。
その穏やかな共犯関係が、どうしようもなく心地よかった。
「ねえ、律。この文字、古代ケルトのオガム文字に似てるかも。ほら、ここの線の角度とか」
「本当だ。だとしたら、三百年前の本じゃなくて、千年以上前の写本の一部かもしれないな……」
そんな会話を交わしながら、時折ふと視線が合う。
そのたびに雫は少しだけ頬を赤らめ、俺は慌てて目を逸らす。
そのぎこちないやり取りの一つ一つが、俺たちの新しい関係を形作っていた。
もはや俺たちはシステムに反逆する戦友ではない。
ただ、不器用な想いを抱えた一組の男女だった。
変化は、そんな穏やかな日常の中に、まるで染みのように静かに現れ始めた。
ある日の昼休み、俺たちがいつものように屋上で手作りのサンドイッチを頬張っていると、俺の個人端末が控えめな通知音を発した。
開いてみると、それはエデンからの『個別最適化レコメンデーション』だった。
『相羽 律 様へ。あなたの最近の興味関心データを分析した結果、国立中央図書館主催のオンラインセミナー『古文書学入門~デジタルアーカイブの未来~』への参加を強く推奨します。あなたの知的好奇心を満たし、精神的安定に大きく寄与すると予測されます。開催は、今週の日曜日、終日です』
「……オンラインセミナー?」
俺は訝しげに眉をひそめた。
今まで、こんな個人宛の、しかもピンポイントな推奨通知が来たことなど一度もなかったからだ。
「どうしたの?」
「いや……エデンが、セミナーに参加しろ、と。今度の日曜に」
「へえ、律にぴったりじゃない。でも日曜日か……」
雫が少しだけ残念そうに呟く。
日曜日は、俺たちが二人で過ごすと決めている唯一の時間だったからだ。
その時だった。まるで俺の通知に応えるかのように、今度は雫の端末が同じ電子音を響かせた。彼女が画面を覗き込み、そして俺と同じように、怪訝な顔になった。
「……私にも来た。『ジャンク・ヤード店主組合主催、第一回ガラクタ再生アート・コンペティション』。作品制作および展示準備のため、今週の日曜、終日参加を推奨、だって。……何これ、ふざけてるの?」
俺たちは顔を見合わせた。
偶然とは到底思えなかった。
まるで、俺たちの休日の予定を正確に把握した上で、それぞれに断りづらい、そして興味を惹かれそうな別の予定を、エデンが意図的に割り振ってきたかのようだった。
ジャンク・ヤードのイベントは、いかにも雫が好きそうだ。そして古文書のセミナーは、確かに今の俺の興味のど真ん中を突いていた。
これは巧妙な罠だ。俺たちを物理的に引き離そうとするシステムの意志。
「……どう思う?」
「エデンが、俺たちを監視してる、としか思えないな」
俺が言うと、雫は唇を噛んだ。
「この前の『社会貢献プログラム』の一件で、マークされたのかもしれない。適合者ゼロの二人が妙に親密にしている。エデンにとってそれは『予測不能なリスク因子』……バグみたいなものなのかも」
「だとしたら、これからもっと干渉が強まるかもしれないな。俺たちの聖域を奪うために」
俺たちの間に重い沈黙が落ちた。
今までは俺たちがシステムを挑発する側だった。
だが今、初めてシステムが俺たちに牙を剥いてきたのだ。
それは暴力的な強制ではない。
善意を装った、抗いづらい柔らかな支配。
その見えざる視線が、俺たちの首をゆっくりと絞め始めているのを感じた。
「……隠れ里、か」
ぽつりと、雫が呟いた。
「ああ。もう、のんびりしてはいられないのかもしれない。俺たちが本当に自由になれる場所を、本気で探さないと」
その日から、俺たちの密かな活動に新しい目的が加わった。それは、エデンの監視網から逃れ、自由な生を送るという、あの伝説の『隠れ里』を探し出すこと。
雫はジャンク・ヤードの老人たちに、それとなく噂の出所を探り始めた。一方、俺は自分の職場であるアーカイブ室の権限を最大限に利用し、データベースの深層へと潜っていった。
俺が探したのは、エデンが統治を始める以前、まだこの都市が『東京』と呼ばれていた頃の古い行政記録や、インフラ整備の設計図だった。
隠れ里があるとしたら、それは必ずエデンの管理システムの『外側』にあるはずだ。ならば、ヒントはシステムが構築される『前』の世界に眠っているに違いない。
それは、途方もない作業だった。何百年も前の膨大なデータの中から、地図に載らない記録にも残らない場所の痕跡を探し出す。まるで、砂漠の中から、たった一粒の砂金を見つけ出すようなものだった。
数日が経ったある日の深夜、俺は一人アーカイブ室に残り、検索を続けていた。疲労がピークに達し、諦めかけたその時だった。
一つの奇妙なファイルに、俺の目は釘付けになった。
それは二百年以上前の、『首都圏地下鉄網・緊急避難経路図』というデータだった。
大部分は現在の地下交通網の原型となったものだが、その地図の西の端に奇妙な点線のルートが存在した。
それはどの路線とも繋がっておらず、途中でぷつりと記録が途絶えている。そしてその終着点には、ただ一言、こう記されていた。
『旧・霞ヶ関駅、未成線ホーム。コードネーム:『アジール』。廃棄決定』
アジール。
心臓が大きく跳ねた。これだ。これに違いない。エデンが都市を再構築する際、何らかの理由で、その存在ごとデータから抹消されたゴースト・ステーション。
人々から忘れられた、地下の聖域。
俺はそのデータを自分の個人端末にコピーしようとした。
だがその瞬間、ディスプレイに赤い警告ウィンドウがポップアップした。
『警告:アクセス権限がありません。このデータは、レベル7以上の特殊機密に指定されています。これ以上のアクセスは、システムへの不正侵入と見なされます』
レベル7。それは国家の中枢に関わる、最高レベルの機密だ。なぜ、ただの古い地下鉄のデータが?
その時、アーカイブ室の廊下の向こうから、規則正しい足音が聞こえてきた。カツン、カツン……。夜間の巡回警備ドローンだ。だがその足音は、いつもより明らかに速く、まっすぐにこの部屋へと向かってきている。
見つかったのか? 俺の不正アクセスが即座にエデンに検知された?
背筋が凍りついた。俺は慌てて端末の接続を切り、すべてのウィンドウを閉じた。そして何事もなかったかのように自分の席に座り、通常の文献整理作業をしているフリをする。
足音はアーカイブ室のドアの前で、ぴたりと止まった。
数秒間の、心臓が止まりそうなほどの沈黙。
やがてドアの認証パネルが、かすかな電子音を立てた。
だがドアは開かなかった。足音は再び遠ざかっていく。
俺は全身の力が抜けて、椅子に深く沈み込んだ。
ただの偶然だったのかもしれない。
だが、俺の全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
エデンの視線は、もうすぐそこまで迫っている。
俺たちがシステムの核心に触れようとしていることに、あの巨大なAIは気づき始めている。
翌日、俺は憔悴した顔で、雫に昨夜の出来事を報告した。
俺の話を聞き終えると、彼女はごくりと喉を鳴らしたが、その瞳に恐怖の色はない。
「……アジール。地下の聖域……。見つけたのね、律!」
「ああ。だが、危険すぎる。最高レベルの機密だ。俺たちが、これ以上首を突っ込めば……」
「だから、行くのよ」
雫はきっぱりと言った。「エデンがそれほどまでに隠したい場所。そこには、きっと私たちが求める『答え』がある。もう、後戻りはできないわ。私たちの、最後の実験よ」
最後の実験。その言葉は、もはや遊びの響きを持っていなかった。それは俺たちの未来を賭けた戦いの始まりを意味していた。
俺たちは顔を見合わせた。
見えざるエデンの視線が、俺たちの背中に突き刺さっている。
だが俺たちは、もう振り返らない。
俺たちの目には、地下深くに眠るまだ見ぬ聖域の光だけが、確かに見えていた。