第十五話『実験ノートの終焉』
あの最低で、最高のゲームが終わった後、俺たちはまるで夢遊病者のように無言で古文書修復室に戻ってきた。
広場での激しい感情の衝突が嘘のように、部屋の中はいつもと同じインクと古い紙の匂いに満ちた静寂に包まれている。
だが、その静寂はもはや安らぎではなかった。
互いのむき出しになった心臓をどう扱えばいいのかわからない、痛々しい沈黙だった。
俺は椅子に腰掛けることもできず、壁際に積まれた古書の山に背中を預けた。
隣の作業台では、雫が突っ伏すようにして顔を腕にうずめている。
彼女の肩が時折小さく震えているのが見えたが、俺はかけるべき言葉を一つも見つけられなかった。
どんな慰めも、どんな言い訳も、俺たちが互いの心に刻みつけてしまったあの醜くて美しい傷の前では、空虚に響くだけだろう。
嫉妬。
それは俺たちの絆を確かめるための、ただの試薬のはずだった。
だが、その劇薬は俺たちの未熟な関係をズタズタに引き裂き、そして皮肉にも、その引き裂かれた断面にこそ互いへの本物の執着が宿っていることを、残酷なまでに暴き出した。
俺は彼女が他の誰かと笑うのを見るのが耐えられない。
彼女もまた、俺が他の誰かに微笑むことを許せない。
それは、もはや論理や理屈ではない。
魂の根源的な叫びだった。
沈黙に耐えきれなくなったのは、俺の方が先だった。
俺は無言で立ち上がると、作業台の上に無造作に置かれていたあの禁断の書――『愛と恋愛の心理学入門』を手に取った。
俺たちの愚かなゲームの元凶となった本だ。
吊り橋効果、自己開示、嫉妬……。
俺は、この本に書かれた知識で俺たちの心を分析し理解できると、どこかで驕っていたのかもしれない。
なんと愚かなことだったか。
俺はその本を抱えたまま、部屋の隅にある小さなダストシュートへと向かった。
そこは修復不可能な本の断片を地下の焼却炉へと送るためのものだ。
俺は一瞬だけ躊躇った。
だが、決意は揺るがなかった。
俺はダストシュートの蓋を開け、その二百年前の叡智の結晶を、ためらうことなく暗い穴の中へと投下した。
ゴトン、という鈍い音がして、本は闇の中へと消えていった。
もう理論武装は必要ない。
俺たちの感情を他人の言葉で定義するのは終わりだ。
たとえそれがどんなに不格好で非合理で予測不能なものであっても、俺は俺自身の心で彼女と向き合う。
その物音に雫がゆっくりと顔を上げた。
その目は泣き腫らしたように赤かった。
彼女は俺が何をしたのかを瞬時に理解したようだった。
そして何も言わずに静かに立ち上がると、俺たちの『実験記録』が記されたあの革張りのノートを手に取った。
彼女はノートの最初のページを開いた。
そこには雫の美しい文字で『疑似恋愛実験』というタイトルが記されている。
俺たちの反逆の始まりの証だ。
雫はその文字を指先でそっと撫でた。
まるで大切な思い出に別れを告げるかのように。
そして彼女は万年筆を手に取ると、そのタイトルの上に力強く二本の線を引いた。
『疑似恋愛実験』という文字が、過去のものになる。
代わりに、彼女はその下に新しいタイトルを書き加えた。
『律と雫の記録』
それは、もはやシステムへの反証データではなかった。
誰かに見せるためのものでもない。
ただ、この世界で俺と彼女が生きたという唯一無二の証。
実験は終わったのだ。
雫はペンを置くと、初めてまっすぐに俺の顔を見た。
「……ごめんね、律。私、どうかしてた。あんな馬鹿なゲームに、あなたを付き合わせて……」
「……俺の方こそ、すまなかった」
俺も正直な気持ちを口にした。
「俺は嫉妬した。みっともないくらいに。雫が、俺以外の誰かと笑っているのが許せなかった。……怖かったんだ。雫を失うのが」
俺の告白に雫の瞳が大きく見開かれた。
そして、その潤んだ瞳からまた一粒、涙がこぼれ落ちた。
だが、それはさっきまでの悲痛な涙ではなかった。
温かくて、透き通った雫だった。
「……私も怖かった。律の心が私から離れていっちゃうのが。あの女の人と、すごくお似合いに見えて……。私にはないものを全部持ってるように見えて……」
「そんなことはない」
俺は彼女の言葉を強く遮った。
そして気づけば彼女の元へと歩み寄り、その両肩にそっと手を置いていた。
「俺には雫だけだ。他の誰かなんていらない。雫の、その……無茶苦茶で非効率で、でも太陽みたいな笑顔が、俺には必要なんだ」
それは生まれて初めての愛の告白だったのかもしれない。
不器用で格好悪く、何の飾りもない剥き出しの言葉。
雫は何も言わなかった。
ただ俺の胸にその顔をそっとうずめた。
俺は震える彼女の体を、壊れ物を抱きしめるように優しく、しかし強く抱きしめた。
インクと古い紙の匂い。
そして、彼女自身の甘くて温かい匂い。
そのすべてが俺の心を、どうしようもなく満たしていった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
やがて雫が俺の胸の中で、小さな声で呟いた。
「……ねえ、律。私、ジャンク・ヤードで変な噂を聞いたことがあるの」
「噂?」
「うん。このアトモスのどこか地下深く……エデンの監視網が届かない場所に、私たちみたいな『はぐれ者』たちが集まって暮らす、隠れ里みたいな場所があるんだって」
「……隠れ里?」
「あくまで噂だけどね。でも、もし本当にあるんだとしたら……そこでは誰も適合率なんて気にせずに、自由に生きてるのかもしれない。……嫉妬したり、喧嘩したりしながらね」
彼女は悪戯っぽく顔を上げて笑った。
その笑顔は、いつもの俺の大好きな笑顔だった。
隠れ里。
その言葉は、俺の心に新しい希望の種を植え付けた。
この息苦しい世界の外側に別の生き方が存在するのかもしれない。
俺たちは孤独な反逆者ではないのかもしれない。
「いつか、二人で探しに行ってみるか。その隠れ里ってやつを」
「……うん!」
雫が力強く頷いた。
その瞬間、俺たちの絆は新しい章へと進んだのだと確信した。
だが、俺たちは気づいていなかった。
俺たちのその親密な会話も抱擁も涙も、そのすべてが冷たい機械の目によって記録され続けていたことを。
古文書修復室の天井の隅。埃をかぶった配管の影で、一匹の極小のメンテナンスドローンが、その光学センサーを赤く、微かに点滅させていた。
それは通常業務では決して灯ることのない、緊急監視モードを意味する光だった。
『被験体No.93-784-2210(相羽 律)』
『被験体No.88-125-4301(水瀬 雫)』
『両名の間に予測不能な高レベルの情動的同期を確認。社会的安定に対する潜在的リスクレベルを【C】から【B】へ引き上げ。継続的な、より密な監視を推奨する』
巨大AI『エデン』のサーバー深くに、新たなログが静かに刻み込まれていく。
俺たちの実験は終わった。
だが、エデンの俺たちに対する『観察』は、今まさに始まろうとしていた。