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第十四話『焼き餅は、冷たい味がした』

 次の休日は、雲一つない、完璧に晴れた一日だった。

 エデンが作り上げた空は、まるで俺たちの心の不安など知らないとでも言うかのように、無機質な青色をたたえている。

 俺と雫は、待ち合わせ場所である中央区画の『調和の広場』に、少しだけぎこちない空気をまとって立っていた。


 ここは、エデンが最も理想とする市民の憩いの場だ。ホログラムの木々が風も無いのに静かに揺れ、最適化された小川のせせらぎが環境音として流れている。

 周囲を行き交う人々は、皆、穏やかで、満ち足りた表情をしていた。


 俺たちが普段入り浸っているジャンク・ヤードや古文書修復室とは、何もかもが正反対の、清潔で予測可能で息が詰まるような場所だった。


「さて、と……」

 雫が、無理に明るい声を出した。


「今日のゲームのルールを確認しましょうか。第一に、行動範囲はこの広場とその周辺のみ。第二に、制限時間は三時間。第三に、相手の行動に、絶対に干渉しないこと。……いいわね?」


「……ああ」

 俺は短く答えた。


 嫉妬。


 旧時代の本で読んだだけの、未知の感情。それを、俺たちは今から、意図的に、この清潔すぎる広場の中でお互いに向かって生成しようとしている。


 それは、安全な実験室の中で、致死性のウイルスを培養するような、狂気の沙汰に思えた。

 だが、俺たちはもう引き返せない。俺たちの関係が本物なのかどうか、その答えを知るためには、この毒を飲むしかなかった。


「それじゃあ、健闘を祈るわ、律」


 雫はそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶり、俺に背を向けた。そして、まるで舞台女優のように、優雅な足取りで雑踏の中へと消えていく。俺は一人、その場に取り残された。


 まず、どうするべきか。俺は、思考を巡らせた。アーカイブ室から持ち出したあの本には、こう書かれていた。

『嫉妬は、対象への関心が第三者に移ることで発生する』。

 つまり、俺が雫以外の女性と親密に話している姿を、彼女に見せつければいい。


 俺は広場を見渡し、ターゲットを探す。

 するとすぐに、一人の女性が目に留まった。


 オープンカフェのテラス席で、一人静かに電子書籍を読んでいる、知的な雰囲気の女性。服装も、髪型も、エデンが推奨する『模範的市民スタイル』そのものだ。

 雫とは正反対のタイプ。これ以上ない完璧な相手だった。


 俺は、深呼吸を一つして、彼女の元へと歩み寄った。心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。

 これは実験だ。ただのゲームだ。そう、自分に何度も言い聞かせた。


「あの、すみません。少し、よろしいでしょうか」


 俺が声をかけると、女性はゆっくりと顔を上げた。怪訝そうな、しかし礼儀正しい視線が、俺に向けられる。


「はい。何かご用でしょうか」

「いえ、その……あなたが読んでいらっしゃる本が、気になりまして。それは、最新の量子文学ですか?」


 我ながら、ぎこちない最悪のアプローチだった。だが、幸いなことに、彼女は親切な人物らしかった。

「ええ、そうです。作者はAIの『ヘルメスIV』。最近の作品では、一番のおすすめですよ」と、穏やかに答えてくれた。


 俺は、当たり障りのない会話を続けた。

 AI文学のトレンド、最近公開されたヴァーチャルアート、エデンが推奨する最新の健康法。

 会話の内容は、全く頭に入ってこなかった。俺の意識は、すべて、広場の向こう側に集中していたからだ。


 カフェのガラス壁の反射越しに、雫の姿が見えた。

 彼女は、俺とは比べ物にならないほど、大胆だった。

 広場の中央にある噴水の縁に腰掛けていた、見るからにエリート然とした男に、彼女の方から声をかけていたのだ。


 男は最初、戸惑っていたようだが、雫の屈託のない笑顔と巧みな話術に、すぐに心を許したようだった。

 今では、身振り手振りを交え、心底楽しそうに笑い合っている。


 その光景を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かが、ぷつりと切れた。

 頭ではわかっている。あれは、実験だ。雫が、俺を嫉妬させるために、意図的にやっている演技だ。

 だが、俺の心は、理性の言うことを聞かなかった。


 今まで俺にだけ向けられていたはずの、あの太陽のような笑顔が、今は見ず知らずの男に向けられている。俺だけが知っているはずの、コロコロと鈴が鳴るような笑い声が、今はあの男のために響いている。


 その事実が、まるで毒のように、俺の全身にゆっくりと広がっていく。指先が、冷たくなった。胃が、固く縮こまるような感覚。

 あの本に書かれていた『嫉妬』という、ただの文字情報が、今、現実に耐えがたいほどの痛みとなって、俺の心を苛んでいた。


 これが、嫉妬か。

 なんて、冷たくて、惨めで、苦しい感情なんだ。


「……あの、聞いていますか?」

 目の前の女性の声で、俺ははっと我に返った。


「あ、すみません……。少し、考え事を」

「そうですか。……先ほどから、あちらの方を、ずいぶん気にされていますね。お知り合いの方ですか?」


 彼女の視線の先には、まだ笑い合っている雫と、あの男の姿があった。

 俺は、何も答えられなかった。ただ、曖昧に微笑むことしかできない。目の前の親切な女性との会話も、もはや限界だった。俺は、「急用を思い出しましたので」と、ありきたりな嘘をついて、その場を無理やり辞した。


 俺は、広場の喧騒から逃れるように、ホログラムの木々が立ち並ぶ、少しだけ薄暗い散策路へと足を踏み入れた。

 頭を冷やしたかった。これはゲームだ。あと二時間もすれば終わる。

 そう、自分に言い聞かせる。だが、一度点火してしまった感情の炎は、簡単には消えてくれなかった。


 雫は、今頃どうしているだろう。俺が、あの女性と親密に話しているのを見て、少しは、俺と同じような痛みを感じてくれただろうか。

 いや、彼女のことだ。きっと、「律もやるじゃない」と、面白がっているに違いない。


 そう考えた途端、自己嫌悪と、彼女への理不尽な怒りが、同時にこみ上げてきた。なんて、馬鹿なゲームを始めてしまったんだ。

 俺たちの絆を確かめるどころか、これは、ただ互いの心をすり減らすだけの、不毛な行為じゃないか。


 俺が、そんな後悔に苛まれながら、散策路のベンチに力なく座り込んだ、その時だった。


「――見つけた」

 背後から、低い声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、雫だった。


 だが、その表情は俺の知っている彼女の、どの顔とも違っていた。笑顔はない。いつもの好奇心に満ちた輝きもない。ただ、その瞳の奥に、深く、暗い光を宿して、俺をじっと見つめていた。


「……ルール違反だぞ。干渉しない、って約束じゃな……」

「うるさい」


 俺の言葉を、彼女は、冷たく遮った。そして、ずかずかと俺の前にやって来ると、俺の胸ぐらを、掴まんばかりの勢いで、両手で強くシャツを握りしめた。


「……楽しそうだったじゃない、あの女と」

「なっ……」

「AI文学? 最新の健康法? ずいぶん、話が弾んでいたみたいじゃないの。私が知らない律の顔で笑ったりして」


 その声は、震えていた。嫉妬と、怒りと、そしてそれ以上に、傷ついた子供のような、悲痛な響きを帯びていた。


 ああ、そうか。

 彼女も、感じていたのか。俺と同じ、この冷たい痛みを。

 彼女は、ゲームの提案者であるというプライドから、平気なフリをしていただけなのだ。


 俺があの女性と話している間、彼女もまた、一人でこの苦しい感情と戦っていたのだ。そして、ついに、耐えきれなくなって、ルールを破って、俺を探しに来た。


 その事実を理解した瞬間、俺の中の怒りや自己嫌悪は、すべて消え去っていた。代わりに、愛おしさと、申し訳なさで胸が張り裂けそうになった。


「……雫こそ」

 俺は、シャツを握る彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。


「……楽しそうだったじゃないか。あの男と、あんなに笑って。俺は……見ていられなかった。胸が、張り裂けそうだった」


 それは、俺の偽らざる本心だった。

 俺の言葉を聞いて、雫の瞳から堰を切ったように、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。


「……ばか。あれは、律に見せるための、演技に決まってるじゃない……。本当は、全然、楽しくなんてなかった。律が、他の誰かと笑ってるのを見るのが、こんなに辛いなんて、思わなかった……っ」


 俺は何も言わずに、彼女の体を強く抱きしめた。

 雫は俺の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。

 俺は彼女の震える背中を、ただ優しく何度も撫で続けた。


 焼き餅は、焼きたてが一番美味しい、と彼女のおばあちゃんは言ったらしい。

 だが、俺たちが味わったのは、どうしようもなく冷たくて、苦い味だった。

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