第十三話『吊り橋の先の景色』
『社会貢献活動プログラム』という名の吊り橋を、俺たちは二人で渡りきった。
あのしょっぱいクッキーの味と、高層ゴンドラの上で交わした視線の強さが、俺たちの間に見えない橋をもう一つ、架けたようだった。
それは、エデンが決して検知できない、二人だけの心の架け橋。
あの日以来、俺たちの間には、以前とは質の違う、穏やかで確かな空気が流れるようになっていた。もはや俺は、雫の隣にいることに緊張しなかったし、彼女もまた、俺の前でより自然体でいる時間が増えたように思う。
屋上での昼休みは、俺がアーカイブ室からこっそり持ち出した旧時代の紅茶を淹れ、雫が不格好だが愛情のこもったサンドイッチを用意するのが、新しい習慣になった。
俺たちは、まるで何年も連れ添った共犯者のように、互いの存在を当たり前のものとして受け入れ始めていた。
「実験は、次の段階に進んだのかもしれないな」
ある昼下がり、修復室でオルゴールのゼンマイを調整しながら、俺はぽつりと呟いた。
「次の段階?」
古文書から顔を上げた雫が、小首を傾げる。
「ああ。今までは、システムへの『反逆』が目的だった。非効率なことをして、エデンに『NO』を突きつける、みたいな。でも、今は……」
俺は、言葉を探した。
「今は、なんだか、この時間そのものが目的になっている気がする。雫と話したり何かを作ったりする、この時間が。反逆とか、証明とか、そういうこととは関係なく、ただ大切なんだ」
俺の率直な言葉に、雫は一瞬、目を丸くした。そして、次の瞬間、その頬が夕焼けのように、ふわりと色づいた。彼女は、それを隠すように、慌てて手元の古文書に視線を落とす。
「……そ、そうかもね。私も、律といると、時間を忘れちゃうから」
その小さな声と、わずかに潤んだ瞳が、俺の胸を強く締め付けた。この感情は、なんだろう。俺が盗み読んだ、あの禁断の書にも、この温かくて、少しだけ苦しい感覚を説明する言葉は、載っていただろうか。
そんな穏やかな日々に、小さな波紋が投げ込まれたのは、その数日後のことだった。
昼休み、俺たちがいつものように屋上の聖域で昼食を摂っていると、屋上へと続く扉が、ギイ、と音を立てて開いた。俺たちは、びくりとしてそちらを見る。
そこに立っていたのは、俺の同僚である、あの女性職員――佐藤さんだった。彼女は、手にした端末の画面と俺たちの顔を交互に見比べ、少し驚いたように言った。
「あ、相羽さん……。やっぱり、ここにいたんですね。エデンの職員動態マップだと、このエリアは『空き』になっていたので、てっきり誰もいないのかと……」
「佐藤さん……。ああ、ここは電波の干渉がひどくて、時々マップから消えるんだ」
俺は、咄嗟に嘘をついた。昔の俺なら、きっと狼狽えて何も言えなかっただろう。だが、今は違う。俺の背後には、守るべき世界がある。
佐藤さんは「そうなんですね」と納得したように頷いたが、その視線は、俺の隣に座る雫に、好奇心の色を隠さずに注がれていた。
「こんにちは。相羽さんのお知り合いの方ですか?」
「あ、はい。どうも。水瀬雫です」
雫は、にこやかに、しかしどこか警戒するように会釈を返した。
佐藤さんは、俺たちの前に広げられた、不格好なサンドイッチと旧式のティーポット、そして二人分のマグカップに目を留めると、その表情に、困惑と、ほんのわずかな羨望のような色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
「あの……お二人って、ご兄妹か何かですか? なんというか、すごく……雰囲気が似ているというか、息が合っているように見えたので。きっと、適合率も、かなり高いんでしょうね」
その言葉は悪意のない、純粋な疑問だった。だが、俺たちの核心を無邪気に、そして的確に貫いていた。
適合率。
その絶対的な指標が、俺たちの間に冷たい壁となって立ちはだかる。
雫が、息を呑むのがわかった。俺は、彼女が何か言う前に、一歩前に出るようにして、はっきりと答えた。
「いいえ。俺たちは、そういうのとは、全く関係ありませんよ」
「え?」
「エデンが推奨するような、効率的な関係じゃないんです。ただの、非効率な物好き仲間、とでも言うんでしょうかね。古いガラクタをいじったり、誰も読まない本の話をしたりするだけの」
俺は、できるだけ穏やかに、しかしきっぱりと言い切った。それは、俺たちの秘密を守るための、盾の言葉だった。
俺の答えを聞いて、佐藤さんは、ますます混乱したような顔をした。彼女の世界の物差しでは、俺たちの関係性は、おそらく測定不能なのだろう。
「……そう、なんですか。すみません、変なことを聞いてしまって」
彼女はそう言うと、どこか釈然としない様子で、そそくさとその場を去っていった。
扉が閉まり、屋上に再び静寂が戻る。俺は、大きく息を吐いた。背中には冷たい汗が流れていた。
「……律」
隣で、雫が俺の名前を呼んだ。
「……ごめん。助かった」
「気にするな。ああいうのは、俺の役目だ」
俺は、強がってそう言った。だが、雫は、どこか浮かない顔をしていた。
「……ねえ、律。私たち、周りから見ると、あんな風に見えるんだね。『適合率が高いカップル』みたいに」
「……そう、かもしれないな」
「皮肉だよね。適合率ゼロの私たちが、誰よりもそう見えるなんて。……でも、少しだけ、怖くなった。この実験が、いつか私たちの手に負えなくなるんじゃないかって」
彼女の言葉は、俺が心の奥底で感じていた不安と、全く同じだった。俺たちは、システムに反逆する遊びのつもりで、吊り橋を渡り始めた。
だが、いつの間にか、その橋の向こう側に見える景色に、本気で焦がれるようになってしまっている。
このまま進めば、その先には何があるのだろう。引き返せなくなった時、俺たちはどうなるのだろう。
その夜、古文書修復室の空気は、少しだけ重かった。佐藤さんとの一件が、俺たちの間に見えない影を落としていた。
俺は、この空気を変えたくて、意を決して、あの禁断の書を取り出した。
「雫、これを見てくれないか」
「……何? この本」
「アーカイブ室で見つけた。旧時代の、恋愛についての本だ」
雫は、驚いたようにその本を受け取り、パラパラとページをめくっていった。そして、あるページで、ぴたりと指を止める。
「……『嫉妬』……?」
そこに書かれていたのは、エデンの世界では、最も非効率で、破壊的な感情として根絶されたはずの、その言葉だった。
「嫉妬。本によると、これは『愛する対象が、第三者へ関心を移すことへの恐れや怒り』とある。ネガティブな感情だが、同時に、相手を唯一無二の存在だと認識している証拠でもある、と」
俺は、必死で覚えた知識を披露した。雫は、その文章を、食い入るように見つめている。
「……おばあちゃんが、言ってたな。『焼き餅は、焼きたてが一番美味しいのよ』って。子供の頃は、何のことか全然わからなかったけど……」
彼女は、ふっと顔を上げた。その瞳には、いつもの好奇心と、挑戦者の光が戻っていた。
「……ねえ、律。試してみない? この、嫉妬ってやつ」
「え?」
「これも、立派な『実験』よ。私たちのこの関係が、本当に特別なものなのかどうか。それを確かめるために、あえて、この『非合理な感情』を、私たちの間に発生させてみるの。……どう?」
彼女の提案は、あまりにも大胆で、危険な香りがした。それは、安全な実験室の中で、未知のウイルスを培養してみよう、と言っているようなものだった。
だが、俺は、彼女のその瞳に、抗うことができなかった。俺も、知りたかったのだ。俺たちの絆の、本当の強度を。
「……どうやって?」
「決まってるじゃない」
雫は、にやりと笑った。それは、俺が初めて見る、少しだけ意地悪で、蠱惑的な笑みだった。
「次の休日、それぞれ、別行動をしてみるの。そして、お互いが『嫉妬』しそうな状況を、意図的に作ってみせる。……私たちの、新しいゲームよ」
それは、もはやシステムへの反逆ではなかった。
俺たちが、俺たち自身の未知の感情に挑む新たな挑戦。
その先に待っているのが、絆の深化か、あるいは破綻か、俺たちにはまだ、知る由もなかった。