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第十二話『反逆者たちの潜入作戦』

 約束の日曜日が、まるで判決日のように、刻一刻と近づいてきていた。俺たちのささやかな聖域だった休日は、エデンという巨大なシステムによって無慈悲に上書きされようとしている。

 路線バスに揺られて、まだ見ぬ景色を探しに行くはずだった時間は、『社会貢献活動プログラム』という、いかにも合理的で、いかにも空虚な響きを持つ言葉に奪われた。


 雫は、気丈に振る舞っていた。屋上での昼休みも、修復室での作業中も、彼女は努めて明るく、いつもと同じように笑っていた。「一日くらい、どうってことないよ」「たまには真面目に社会貢献するのも、いいスパイスかもね」。そんな風に冗談めかして。


 だが、俺にはわかった。彼女の笑顔の裏側で、その心が軋んでいるのが。彼女にとって『無駄』な時間は、ただの暇つぶしではない。それは、彼女の魂が自由であるための、呼吸そのものなのだ。エデンは、彼女から一日分の呼吸を奪おうとしている。俺は、それが許せなかった。無力感と、今まで感じたことのない種類の静かな怒りが、腹の底で渦巻いていた。


 プログラムの前夜、俺は自室で、アーカイブ室から持ち出した禁断の書を開いていた。『愛と恋愛の心理学入門』。この二百年前の古文書が、今の俺にとって唯一の羅針盤だった。ページをめくる指が、ある一節でぴたりと止まる。


『吊り橋効果(Suspension Bridge Effect):不安や恐怖を共に経験した相手に対し、恋愛感情を抱きやすくなる心理的傾向。これは、危険な状況によって生じた心拍数の増加を、相手へのときめきであると脳が誤って帰属させるために起こるとされる』


 吊り橋……。俺たちの状況は、まさに吊り橋の上にいるようなものではないか。エデンという巨大なシステムに見張られ、いつ突き落とされてもおかしくない、不安定な足場。だが、この本は言う。その不安こそが、二人の絆を強める燃料になり得ると。


 誤解? 誤って帰属させる? 俺のこの感情は、そんな単純なエラーなのか? いや、違う。だが、ヒントはここにある。逆境は、ただ耐え忍ぶものではない。共に乗り越えることで、それは強力な武器に変わる。


 守りたい。ただ、彼女がシステムに傷つけられるのを、黙って見ているだけではダメだ。俺が、彼女の隣で、同じ橋を渡る。そして、この吊り橋を、俺たちのためのステージに変えてみせる。


 決意は固まった。

 俺は端末を起動し、厚生福祉省のウェブサイトにアクセスした。『社会貢献活動プログラム』のページを開き、参加者リストの末尾に、まだ空きがあるのを確認する。俺は、震える指で、『相羽 律』という名前を、その空欄に打ち込んだ。

 送信ボタンを押す指先に、全神経が集中する。これで、もう後戻りはできない。俺は、自らシステムの監視下へと足を踏み入れる決断をした。


 翌朝、俺はプログラムの集合場所である都市管理センターの前に、雫よりも早く着いていた。周囲には、雫と同じように参加を「推奨」されたであろう、どこか覇気のない人々が集まっている。彼らは皆、エデンが推奨する機能的な活動着を身につけ、互いに言葉を交わすこともなく、静かに時を待っていた。


 やがて、雫がやって来た。俺の姿を認めると、彼女は信じられないものを見るかのように、大きく目を見開いた。


「り、律……!? なんで、ここに……あなたまで、通知が来たの?」

「いや」俺は、できるだけ平静を装って、首を横に振った。「俺は、自分で志願した」

「……は?」


 雫は、完全に思考が停止したようだった。俺は、一歩彼女に近づき、声を潜めて言った。


「これは、潜入作戦だ」

「潜入……作戦?」

「ああ。エデンは、俺たちから『非効率』な時間を奪おうとした。だったら、俺たちは、エデンが作った『最高に効率的』な時間の中に、俺たちの『非効率』を持ち込んでやる。敵の土俵で、俺たちの実験を続けるんだ。……吊り橋の上で、ピクニックをするみたいにね」


 最後の言葉は、あの本からの受け売りだったが、今の俺の本心でもあった。

 俺の言葉を聞いて、雫は最初、ぽかんとしていた。だが、やがてその意味を理解したのか、その瞳に、みるみるうちに光が戻っていく。そして、次の瞬間、彼女はこらえきれないというように、くすくすと笑い出した。


「……ぷっ、あはは! なにそれ! 吊り橋でピクニックって! 最高じゃない、律!」


 彼女は、腹を抱えて笑っている。その心からの笑顔を見たのは、数日ぶりだった。俺は、自分の選択が間違っていなかったことを確信した。


 プログラムは、俺の想像以上に、無機質で管理されたものだった。俺たちは、都市緑化のためのデータ収集チームに配属された。仕事内容は、公園の植え込みに設置された無数の環境センサーを一つ一つ回り、そのデータを専用端末でスキャンし、サーバーに送信するという、単純作業の繰り返し。監督官は、感情のないアンドロイドと、自律型の警備ドローンだけだった。参加者同士の私語は、非効率な行為として固く禁じられている。


 俺と雫は、意図的に少し離れた区画を担当させられた。だが、それで好都合だった。俺たちは、植え込みの影や、木の幹に隠れながら、互いにだけわかるサインを送り合った。雫が、センサーの埃を払うフリをして、こっそり指でハートマークを描く。俺は、ドローンが見ていない隙に、旧時代の映画で見たスパイのように、片目をつぶって敬礼を返してみせる。くだらない、子供じみた遊び。だが、その秘密のやり取りが、この灰色の時間を、鮮やかな冒険に変えていった。


 昼休み。支給されたのは、もちろん味気ない合成栄養食のブロックだった。参加者たちは、公園のベンチに等間隔で座り、黙々とそれを口に運んでいる。俺は、雫に目配せをすると、二人でその列から離れ、少し小高い丘の上にある、一本の大きな木の根元へと向かった。そこは、ドローンの巡回ルートから、絶妙に外れた死角になっていた。


「よく見つけたね、こんな場所」

「ああ。屋上の時と同じだ。完璧なシステムには、必ずこういう『想定外』の隙間が生まれる」


 俺は、得意げに言って、リュックの中から、アルミホイルに包まれた小さな塊を取り出した。


「これは?」

「昨日の夜、作った。あのレシピ本を、こっそり借りてな」


 包みを開くと、中から現れたのは、いびつな形をした、少しだけ焦げたクッキーだった。


「……律が?」

「ああ。初めて作ったから、不格好だが」


 雫は、信じられないという顔で、そのクッキーを一つ、つまみ上げた。そして、小さな口で、それをゆっくりと齧る。


「……しょっぱい」

「え?」

「ううん。しょっぱくて……今まで食べたどんなお菓子より、美味しい」


 彼女は、そう言って、泣きそうな顔で笑った。俺は、照れくさくて、何も言えなかった。ただ、心の中で、ガッツポーズをしていた。俺の不器用な反逆は、確かに彼女の心に届いたのだ。


 午後の作業は過酷だった。俺たちは、都市ハイウェイの壁面を覆う、巨大な緑化パネルの清掃を命じられた。ゴンドラに乗り込み、地上数十メートルの高さで、パネルの表面を特殊な洗浄液で拭いていく。眼下には、エデンが作り上げた完璧な都市が、ミニチュアのように広がっていた。風が、ゴンドラを不気味に揺らす。まさに、吊り橋の上だった。


「……怖いか?」

 隣で作業をしながら、俺は雫に尋ねた。彼女は、少し顔を青くしながらも、強気に首を横に振った。


「ううん。だって、隣に律がいるから」

 その言葉に、俺は勇気をもらった。俺たちは、黙々と作業を続けた。無機質なパネルを拭きながら、時折、視線を交わす。その視線だけで、俺たちは互いの不安と、それを乗り越えようとする意志を、共有することができた。


 すべての作業が終わり、俺たちが地上に降り立つ頃には、空は美しい茜色に染まっていた。一日中、システムに縛られ、単純作業を繰り返した体は、鉛のように重い。だが、心は、不思議なほど軽やかだった。


 その夜、古文書修復室に集まった俺たちは、疲れも忘れ、ノートを開いた。


『実験記録:エデンの管理下にあるプログラムに、我々は自発的に参加した。結果、物理的な距離や規則による制限は、精神的な繋がりを阻害する決定的な要因にはならないことを確認。むしろ、共有された逆境は、非言語的なコミュニケーションを活性化させ、相互の信頼関係を強化する効果を持つことが示唆された』


 雫がそう書き終えると、俺はペンを受け取り、その下に、今日の本当の気持ちを書き記した。


『吊り橋の上で、彼女は怖くないと言った。俺がいるから、と。その一言が、俺を、ただの反逆者から、彼女を守るための盾に変えた。しょっぱいクッキーを、世界一美味しいと言ってくれた彼女の笑顔を、俺は、何があっても守り抜くと決めた。これは、誤解でも、エラーでもない。俺の、意志だ』


 俺たちは、システムに一日を奪われたのではない。システムの心臓部で、俺たちだけの、誰にも奪うことのできない一日を、勝ち取ったのだ。それは、小さな、しかし確かな勝利だった。

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