第十一話『アーカイブ室の恋愛指南書』
あの夜、古文書修復室で忘れられたメロディが鳴り響いてから、俺の世界は静かに、しかし決定的に変容していた。朝、目を覚ますと、まず枕元に置いた小さな木箱に触れるのが習慣になった。ゼンマイを巻き、蓋を開ける。ポロン、ポロロン……。不器用で、掠れていて、しかしどうしようもなく優しいあの音色が、俺の一日の始まりを告げる合図になった。エデンが推奨する、脳波を最適化する目覚めの音楽よりも、ずっと心地よかった。
職場であるアーカイブ室の風景も、違って見えた。以前はただのガラクタの墓場にしか見えなかったこの場所が、今は未知の物語が眠る宝物庫のように感じられる。書架に並ぶ古びた本の背表紙の一つ一つに、誰かの人生や、忘れられた感情が宿っている。俺は、まるで雫のような視点で世界を見始めている自分に、少しだけ戸惑い、そして少しだけ誇らしく思った。
「相羽さん、最近、少し雰囲気が変わりましたね」
ある日、同じ部署の女性職員に、そう声をかけられた。彼女はエデンがマッチングした相手と来月結婚することが決まっている、絵に描いたような幸福な市民だ。
「そうですか?」
「ええ。以前は、もっと……そう、影が薄いというか、世界との間に一枚フィルターがあるような感じでしたけど、今はなんだか、ちゃんとそこに『いる』感じがします」
その言葉に、俺はどきりとした。自分では気づかないうちに、俺の変化は、他人の目にも明らかになっていたらしい。俺は曖昧に笑って誤魔化したが、心の中では、雫の顔が浮かんでいた。彼女が、俺の世界のフィルターを剥がしてくれたのだ。
昼休みになると、俺は職員食堂には向かわず、図書館の屋上へ続く、普段は使われない階段を上った。そこが、俺と雫の新しい秘密基地になっていた。屋上の隅、給水塔の影になるその場所は、監視ドローンの死角になっている、この完璧な管理社会における数少ないサンクチュアリ(聖域)だった。
「お、来た来た。今日のランチはスペシャルよ」
先に来ていた雫が、ピクニックシートの上で手招きをする。彼女が広げた風呂敷の上には、色とりどりの、しかし不格好な形をしたサンドイッチが並んでいた。もちろん、エデンが推奨する栄養バランスなど、完全に無視された代物だ。
「なんだ、これは」
「ジャンク・ヤードで見つけた、二百年以上前のレシピ本を参考にして作ってみたの。パンを焼くところからね。すごい非効率だったけど、すっごく楽しかった!」
雫は屈託なく笑い、一番大きなサンドイッチを俺に手渡した。俺はそれを受け取り、恐る恐る口にする。パンは少し硬くて、挟まれた野菜の切り方は不揃いだ。だが、その不格好な食べ物からは、合成栄養食では決して感じられない、温かくて、優しい味がした。
「……うまい」
「でしょ? 失敗も、成功も、全部ひっくるめて『美味しい』になるのよ。料理って、まるで人生みたいね」
俺たちは、とりとめのない話をしながら、サンドイッチを頬張った。オルゴールのメロディに、どんなタイトルが似合うか。次の休日には、エデンが絶対に禁止するであろう、予測不能な「路線バスの旅」をしてみようか。そんな、生産性のない、無駄な会話。だが、その無駄な時間こそが、俺の心を何よりも豊かに満たしていくのを、俺ははっきりと感じていた。
ふと、雫が、真剣な顔で俺を見た。
「ねえ、律。あのオルゴールのメロディを聴いてから、時々考えるの。私たちみたいに、エデンから『適合者ゼロ』って言われた人って、他にもいるのかなって」
「……考えたこともなかった」
「この完璧な社会の片隅で、同じように、声を殺して生きてる人がいるのかもしれない。もし、そうだとしたら……私たちのこの『実験』は、ただの自己満足じゃなくなるかもしれない」
彼女の瞳の奥に、強い光が宿っていた。それは、ただ現状に反逆するだけの光ではない。まだ見ぬ誰かを思う、優しさの光だった。俺は、彼女のその心の在り方に、強く惹きつけられた。
その日の午後、俺はアーカイブ室の奥深く、特に古い文献が収められている書架の整理を命じられた。埃っぽい空気の中、俺は一冊の本に、偶然、目を留めた。それは、革の装丁が擦り切れた、小さな本だった。タイトルは、金色の箔押しで、かろうじて読むことができる。
『愛と恋愛の心理学入門 ~非合理な感情を科学する~』
二百年前、エデンが導入される直前に出版された、旧時代の学術書のようだった。俺は、まるで禁書に触れるかのように、その本をそっと手に取った。ページをめくると、そこには、俺が今まで考えたこともないような言葉が、無数に並んでいた。
『一目惚れのメカニズム』『嫉妬という感情の役割』『恋愛における自己開示の重要性』
エデンの世界では、これらはすべて「非合理なリスク因子」として、排除されるべき感情だ。だが、この本は、それらの感情を、人間の成長に必要なプロセスとして、真摯に分析していた。
俺は、周囲に誰もいないことを確認すると、その本を自分のカバンの中に、そっと滑り込ませた。これは、窃盗だ。職員として、決して許されない行為。だが、俺を突き動かしたのは、好奇心という、抗いがたい衝動だった。
俺は、雫のことを、もっと知りたい。そして、彼女と一緒にいる時に生まれる、この胸のざわめきの正体を、どうしても知りたかったのだ。
その夜、自室に戻った俺は、誰に見せるでもないのに、部屋の鍵をかけ、明かりを落とし、デスクライトだけを頼りに、その禁断の書物を読みふけった。
『相手に触れたいという欲求は、親密さを確認するための、本能的な行動である(オキシトシン・リフレクス)』
――雫が、俺の手に自分の手を重ねてきた時の、あの温かさ。
『共に困難を乗り越えた経験は、二人の間に『戦友』のような強い絆を形成する』
――ジャンク・ヤードで、一本の針を探し出した時の、あの高揚感。
書かれていることの一つ一つが、俺と雫の間に起きた出来事と、不思議なほど符合していく。俺は、自分たちの「実験」が、旧時代の人間たちが何百年もかけて経験してきた、「恋」という感情のプロセスそのものであることを、知り始めた。
数日後、俺たちがいつものように修復室でオルゴールのメンテナンスをしていると、不意に、雫の個人端末が、公的な通知を知らせる冷たい電子音を発した。俺たちは、びくりとして顔を見合わせる。雫は、少し訝しげな顔で端末を操作し、そして、その表情をわずかに曇らせた。
「……どうした?」
「厚生福祉省から……。『社会貢献活動プログラム』への参加推奨通知」
それは、表向きは任意参加のボランティア活動だった。都市緑化のためのデータ収集や、高齢者向け施設のレクリエーション補助。だが、その実態は、社会評価指数が低い者や、エデンの推奨ルートから外れがちな行動を取る者を、再び社会のレールに戻すための、半ば強制的なプログラムだった。これに不参加を表明すれば、目には見えない形で、様々な社会的サービスにおいて不利益を被ることになる。
「……行くのか?」
「……行くしかないでしょ。断ったら、それこそ『非適合者』として、エデンに本格的にマークされちゃう」
雫は、無理に明るく笑ってみせた。だが、その笑顔が、どこかぎこちないのを、俺は見逃さなかった。
「いつだ?」
「次の、日曜日」
「……そうか」
次の日曜日。それは、俺たちが「路線バスの旅」に行こうと、約束していた日だった。
俺たちのささやかな反逆の世界に、初めて、システムの無慈悲な現実が、冷たい影を落とした。雫は「大丈夫、一日で終わるから」と笑う。だが、俺にはわかった。彼女は、悔しいのだ。俺たちの「非効率」な時間を、システムに奪われることが。
その夜、俺は、ノートの自分のページに、こう書き記した。
『彼女は、笑っていた。だが、俺には、その笑顔の裏にある、小さな悲鳴が聞こえた気がした。守りたい、と思った。非効率で、非合理的で、何の根拠もない感情だ。だが、俺は、?