第一話『適合者ゼロ』
西暦2245年、東京。
この街の空は、いつだって寸分の狂いもなく晴れている。
包括的国民福祉調整システム『エデン』が気象から交通、人々の健康に至るまで、あらゆるものを最適化しているからだ。
非効率な渋滞も、予測不能な通り雨も、もうずっと昔の物語になった。人々はエデンが示す「最大幸福」のレールの上を、疑いもなく歩いている。
そんな完璧にデザインされた世界で、俺、相羽律は、ひとつの「バグ」だった。
「相羽さん、第三書庫B-7区画のアーカイブ化、完了信号です」
無機質な合成音声が静寂を破った。俺は顔を上げ、古びた紙の匂いが満ちる書架の迷路から、ゆっくりと現実へと意識を引き戻す。目の前には仕事用の支給端末。その簡素なディスプレイに、緑色の完了マークが灯っていた。
俺の職場は、国立中央図書館の最深部にある『特別アーカイブ室』。エデンが管理する膨大なデジタル情報とは別に、かろうじて保存されている紙の書物を管理する部署だ。電子化できない貴重な文献という名目だが、実態は忘れられたガラクタの墓場に近かった。非効率で、曖昧で、不確かな情報が詰まった紙の束。まるで俺そのものみたいだと思った。
「……了解。次のリストを送ってくれ」
端末にそう打ち込むと、すぐに新たな作業指示が送られてくる。俺は重い腰を上げ、指定された書架へ向かった。軋む床の音だけが、この静かすぎる空間で唯一の人間らしい響きだった。
今年で二十五歳になる。真面目に働き、税金も納め、エデンが推奨する健康的な食事と運動をこなし、社会の歯車として真摯に生きてきた。何一つ間違ったことはしていない。
ただ一つ、致命的な欠陥を除いては。
その時だった。ポケットに入れていた私用の端末が、控えめなバイブレーションで震えた。一年に一度、この時期に必ず届く通知。厚生福祉省、国民適合局からだ。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
見なくてもわかる。どうせ結果は同じだ。それでも確認しないという選択肢は俺にはなかった。それは国民の義務であり、俺という存在を定義づける年に一度の審判なのだから。
俺は書架の陰に身を隠すようにして立ち止まり、深呼吸を一つして端末の画面を起動した。ロックを解除すると、そこには冷たいゴシック体で書かれた通知が待っていた。
『西暦2145年度 適合診断結果のお知らせ』
指がわずかに震える。唾を飲み込み、通知をタップする。数秒の通信ラグが永遠のように感じられた。やがて俺の個人情報と共に、無慈悲な結果が表示される。
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相羽 律 様(ID: 93-784-2210)
上記の人物に対する、包括的国民福祉調整システム『エデン』による適合診断結果を下記の通り通知します。
・遺伝的相性
・生涯価値観の一致率
・長期的関係維持の可能性
以上の項目を統合的に判定した結果、
適合者: 0名
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ゼロ。
数字の「0」が、まるで巨大な虚無の穴のように俺の網膜に焼き付いた。
わかっていた。十八歳で最初の診断を受けてから、これで八年連続だ。それでも、胸の奥を抉られるような鈍い痛みは、少しも和らぎはしなかった。
「適合者ゼロ(NULL FITTER)」。
それはこの国で最も希少な不適合者。エデンの完璧なマッチングシステムをもってしても、遺伝子レベルで結ばれるべき相手が、この世のどこにも存在しないと証明された人間。
社会という名の精密機械から弾き出された、規格外の部品。それが俺だった。
街を歩けば、エデンによって結ばれた「適合者」たちが幸せそうに寄り添っている。特にマッチング率九十パーセントを超える「プラチナ適合者」のカップルは、国から祝福され、あらゆる優遇措置を受けられる。彼らの笑顔は眩しくて、俺はいつも目を逸らしてしまう。
彼らが住む光の世界と、俺が住む影の世界は、決して交わることはない。
彼らと俺とで何が違うというのだろう。
同じように呼吸をし、同じように食事をし、同じように眠る。だが俺という存在は、この世界の幸福の設計図には含まれていないのだ。
俺は端末の電源を落とし、それを強く握りしめた。ひんやりとした筐体の感触だけが、今の俺が確かにここに存在していることを教えてくれる。
書架に並ぶ古い小説の背表紙が目に入った。
『偶然の出会い』『運命の恋』『障害を乗り越える愛』
そんな非効率で、非科学的で、予測不能な言葉たちが、静かに俺を見つめていた。
それはAIが統治するこの世界では、とうの昔に駆逐されたはずの幻想。
エデンが定義する幸福とは、安定であり、平穏であり、予測可能であること。これらの本に書かれているような感情の激しい起伏は、ただのバグとして処理される。
――恋、か。
そんな不確かなものに、果たして価値などあるのだろうか。
エデンが導く幸福に、俺は永遠に手が届かない。
なら俺はこれからこの完璧な世界で、どうやって生きていけばいい?
答えなんて、どこにもなかった。
俺はただ、古びた本の匂いに満ちた静寂の中で、一人立ち尽くすことしかできなかった。