バロックの恐怖
地下牢をあとにし、俺たちは砦の奥――中心部に向かって静かに歩を進めていた。
足音ひとつ立てないよう、壁沿いに身を寄せながら進む。空気が、どんどん熱を帯びていく。微かに漂う獣臭と、酒の匂い。
「……どっかで宴やってるわね。すごいお酒くさーい」
エイルが鼻をひくつかせる。
「バロックもいるかもしれない。声は抑えて、気配は殺して……」
「ねえ、それあんたが言うと説得力ゼロよ? ドタバタやらかすの、あんたの十八番でしょ」
「うっ……悪かったな」
酒盛りの音が、だんだん近づいてくる。どこかで音楽も流れているらしく、低く野太い笑い声とともに、砦の石壁がわずかに震えていた。
「ここを抜ければ……広間だ。準備はいいな」
廊下の先、重厚な扉があった。木製で、ところどころに鉄が打ち込まれている。
扉の下、かすかに光が漏れていた。
「中に……何人いるか分からないね」
ハカセが小声で呟く。腰の剣に手をかけ、緊張をしているのか、息が少し荒い。
「開けたら……もう後戻りできないぜ?」
俺がそう言うと、エイルは軽く笑った。
「今さら何言ってんのよ。さっさとやりなさいよ、ヒイロ」
「僕も準備は出来てるよ。行こう」
扉に手をかけた瞬間――手のひらに汗が滲んでいるのがわかった。
心臓が、一度、強く打った。音がやけに大きく響いて聞こえる。
この先に、何があるのか。自分たちが戻ってこられる保証など、どこにもない。
それでも。
「……行くぞ」
扉が軋む音とともに開かれ、俺たちは広間に足を踏み入れた。
そこは想像以上に広く、天井も高い。石造りの壁には魔導灯がいくつも灯され、眩いほどの明るさが空間を包んでいた。
左右には柱が並び、奥には石の玉座がある。
その中心。粗末なテーブルがいくつも並び、酒と肉と、見たことのないモンスター料理が所狭しと並んでいる。ガハハと笑い声をあげながら、野蛮な男たちが宴を繰り広げていた。
エイルが眉をひそめる。目の前の光景はまるで、野獣の檻だった。
「誰だてめぇら!!」
一人の盗賊がこちらを見て立ち上がった。それを皮切りに、次々と席を立つ男たち。
「どこから入りやがった……!」
「仲間か!? 連れ戻しに来たのか!?」
「誰であろうと敵ならぶっ潰す!!」
一斉に武器を構える。
「……言ったろ? 後戻りはできねぇって」
俺は剣を抜き放ち、目の前の敵へと身構えた。
「エイル、ハカセ、やるぞ!」
「ったく、最初からそのつもりだったけどね!」
「了解。僕は後衛から援護するよ」
広間に、火花が散るような空気が走る。
だが、その時――
「待て」
低く、重い声が響いた
その一言で、場が凍りついた。
ゆっくりと、広間奥の玉座から、一人の男が姿を現した。
黒の鎧に身を包み、筋肉で膨れ上がった体。片目には傷跡。手には巨大な剣。
横には美女を侍らせている。
「客人か……なら、まず名を名乗ってもらおうか。命を奪われる前にな」
女は一言も発さず、無表情で男の前に果物を差し出した。
そしてそれを当然のように口へ運ぶ。男は、咀嚼そしゃくしながらこちらを一瞥いちべつした。
その男の圧に、広間の全員が沈黙する。
(バロック……!)
俺は確信した。あいつが、この盗賊団のボス――バロックだ。
「……おい。てめぇら、名前は?」
静かなもの言いだ。声にはぞくりとするほどの威圧感がある。じわりと背中に汗がにじんだ。
だが、俺は臆さず一歩前へ出る。そして、拳を握りしめ、叫んだ。
「俺はヒイロ! スラムの孤児院出身、王国最強になって名を残す男だ!」
「僕はニコル。右に同じく、そして最高の研究者になる男だ」
「えっ、アタシも名乗るの!?え、エイルよ。恥ずいんだけど。なにこれ」
一瞬の静寂のあと――
「ぷっ、今“王国最強”とか言ったか?」 「クク……マジで言ってやがる……!」 「ぶははははっ! 腹いてぇ!」
広間に嘲笑が響き渡る。盗賊たちの声があちこちから飛び交った。
俺は、一歩も引かない。胸を張ったまま睨み返す。
男──バロックは、周囲の笑いを制するように手を上げると、にやりと笑った。
「黙れ………、いいじゃねえか。そういうガキっぽいのキライじゃないぜ。だが小僧、最強なんて言葉軽々しく言うもんじゃねえ」
彼はゆっくりと歩み出て、肩を回す。
「名乗ってやるよ。俺はバロック。元・王国守護団の団員……今は、“俺のやり方”で生きてるだけだ」
バロックは果物を口に含み、隣の美女に目を向ける。
女は一言も発さず、無表情のまま布巾で彼の口元をぬぐった。
その動作が終わるのを待って、男はゆっくりと口を開いた。
「おい、お前ら。裏の坑道通ってきたんだろ?」
「ああ、そうだけど」
俺はバロックからの問いに対しうなずく
「そうかそうか。おい、今日の裏の見張りは誰だ?」
やつの低い声が、広間全体に響いた。
一瞬で場が沈黙する。
やがて、砦の壁際――、一人の盗賊がガタガタと震えながら前に出る。青白い顔をして、ひざをわななかせながらバロックの横へと立つ。
「は、はい……私、です……バロック、さん……」
「へぇ、そうか…」
バロックはにやりと笑った。その笑みに、誰もが息を呑む。
「素晴らしいゲストを迎え入れてくれた……褒美をやらなきゃな」
「え、あ、い、いえっ、そ、それは──」
ズバッ!!
言葉の最後まで言わせず、バロックの大剣が唸る。
男の右腕が宙を舞った。
腕を押さえて転げ回る男の悲鳴が、広間にいつまでも反響する。
盗賊たちの顔が一斉に強張った。
バロックの口は笑っているが、目は氷のように冷たい。
「今日は機嫌がいいからな。……これくらいにしといてやるよ」
(こいつ、仲間を仲間だと思っちゃいねえ)
右腕を失い、地に膝をついて叫ぶ男の隣を、バロックは何の感慨もなく通り過ぎた。