第十四話 先輩と7月のけじめ
さあ、正念場である。ずっと手からすり抜け続けて諦めてきた、再びつかんだと思ったらまた逃がしてしまった相手が今、無防備に懺悔をしている。今胸に渦巻いている激情のまま、言葉のナイフで突き刺すのもよし。刃をしまって「大丈夫だよ」と優しくいってあげるのもよし。
俺は冷えた心臓をなだめ、語りかける。
「なあ」
それだけでかわいそうなくらい肩が跳ねる。
「また逃げるのか?」
「…逃げたいよ」
かすれた声が答えた。
「君の前にいるとどうしてもだめなの。頭が真っ白になって、なんて言えばいいか分からなくなる。そんな自分がどうしようもなく、いや」
「でも、だけど先輩は、ただの後輩の俺は受け入れてくれた」
表情が変わった。トロンとした一重まぶたが、キッと嘲笑を形づくる。
「それはね、私がずっと君を見ないようにしていたから。部室に来た君を自分の弟だと思えなかったの。だから、他人として、ただの後輩のあおいくんとしてなら普通にお話しできた。それだけ」
「でも、それで俺にカメラのノウハウを1から教えてくれたんだろう?」
「それは、私が先輩たちにやってもらったことをやってあげただけ。いい先輩に、なりたかっただけだよ」
いい先輩なんだよなぁ。いい姉でもいい人でもないだけで。
「それなのに、ひな姉にちょっかいかけられただけでまた怖気づいたのか」
「ホントは、ずっと悩んでたんだよ。これでいいのかな、って。でも、みんな優しくて。誰にも否定されなかったから。ぬるま湯な現在に浸っていれたの。だけどひなはさ、ストレートじゃん。私たちのこと、誰よりも分かってくれてるはずだし。凹むよね、やっぱり」
はぁ、と深い息を吐きながら近くのクッションに顔をうずめる。俺の口からも自然とため息のようなものが口からこぼれた。あと少しで詰められそうなのに、やり方を間違えればするりと逃げてしまいそうだ。手順を間違えないよう沸騰しそうな頭を押さえつけて言葉を選ぶ。
「なあ。場所が違えば違う人として接することができて、何事もなくいい先輩になれるくらいなら、本当はもう自分の中で消化してるんじゃないのか?本当はもう昔はどうでもよくて、ただ逃げてる自分に酔ってるだけじゃないのか?」
「そんなこと…ない……」
「それとも、単に俺が嫌いか?」
追いつめても俯いてばかり。この人は2つついている瞳で何も見えていない。知らず知らず高鳴っていた心臓を片手で抑え、右目でぎっと相手を見据える。よく悪いと言われる目つきは今よりひどいものになっているのだろう。薄い肩がびくりと揺れた。これは多分、丹力勝負だ。野生と何ら変わらない、引いたものが負けの勝負である。おずおずとこちらに向き直った瞳はいつになく弱弱しい。そんな両目をじっと見つめ続けた。
「わかんないよ」
かき消えそうな声は、それでも2人きりの空間では何にもさえぎらずにまっすぐに俺の心に届いた。
「わかんない。わかんないよ。ずっと見ないふりをしてきたから。嫌いになったなんて言えやしないけど…」
好きになるほど関われてはいない。黙り込んでしまったセリフのその先を、心の中で引き継いだ。そりゃあ、そうだ。年単位で会話をしていない相手に感情なんてないだろう。俺たちの間の記憶は、傘で傷つき傷つけられた幼いころで止まってしまっている。俺だってきっとそうだった。昔の朧げな記憶の残滓に縋りついて、また仲良くしたいと願っているだけ。
じゃあ、でも、それいいじゃんか。
「なあ、いい加減、逃げるのは辞めようぜ」
「やだ」
「俺のこと嫌いじゃないんだろ?なら昔傷つけたことに囚われて、俺を傷つけ続けるのは正しいのか?」
自分の行動が俺を傷つけていた自覚はあったのだろう、頭がまた一段下がる。
「一度ちゃんと向き合ってみようぜ。昔の記憶も、俺のことも、ちゃんと見つめなおしてみれば分かるはずだろ?」
小さく震える姿がやけに小さく見えた。
部室で会う先輩はもっと明るい表情をしていたのに。昔一緒に兄弟げんかをしていた姉はもっと屈託のなく溌溂とした存在で、迷子の時俺の手を引いてくれたあの頃は、写真の中のあの頃は、もっと輝いていたのに。
こちらをちゃんと向いてほしい。そして一方通行ではないおしゃべりをしたい。
ひな姉の言うことは、やっぱりあっていたんだ。言い方と態度は少しあれだったが…。この分からず屋は、きちんと向き合わないとなんともならない。
「俺は、もう目のことは許してるし、何とも思ってないよ」
「でもね、私も君のこと横目では見ていた。だから、目のせいで苦労していた事は知ってる。遠近感がつかめなくて最初コップを落として何個も壊していたことも、球技が上手くできなくなったことも知ってる。左側がよく見えなくてぶつかったおじさんに怒られて、それから怖くなってスピードの出る自転車には乗らなくなったことも知ってる。右目だけ使いすぎて体が不調になっているのも見たことある。なのに今更許してもらおうなんて、ずるいじゃん」
まったく、いつからこんなに卑屈になったんだか。そう喚く声には嗚咽が混じり始めた。ならば俺はと、笑顔を浮かべて見せた。
「なら、見えてただろ。俺、今すげー楽しいんだよ。片目が見えないことなんて気にならないくらいに」
「そんな…強がりじゃん」
「いーや。俺のクラスメイトさ、いい奴らなんだよ。俺がいくら球技でポカやろうが笑いながらフォローしてくれるし。文化祭なんてさ、普通のお化け屋敷でよかったのにわざわざ眼帯付けた落ち武者をメインにして、『お前向いてるからやってみろよ』って言ってもらえて。俺はお前ほど、この目のことを気にしてないよ。もう、両目で見る視界なんか忘れたしさ。そうなるともう個性みたいなもんだろ」
これは、今の本心だった。だがもしかしたら俺が写真部に入った時点だと言えなかっただろう言葉だったかもしれない。この目を必要以上に疎むことも憐れむこともなく、まっすぐに対等の友人として接してくれる園崎達がいる今が、すごく心地よい。コンプレックスや劣等感は、感じるほうがバカバカしくなっていった。
そして日常に満足すればするだけ、腫物を扱うように避けるらん姉が、目をそらそうとする先輩が、どうしようもなく悲しく思えるのだ。
「だから、もう気にするな」
こちらを見つめる2つの瞳が揺れている。あと一息。
「それでももし気にするっていうんなら、一度けじめをつけよう」
「けじめ?」
「難しいことじゃない。本当は最初に俺たちがやらなきゃいけなかったことで、ずっとサボり続けてきたことだ」
そこまで言ってぴんと来ていない相手のおでこをぺんと叩いた。
「痛い」
「ごめん」
それを聞いて一瞬かぶりをふるが、諦めた様な笑顔を浮かべて頷いた。
「私こそ、あの時はごめんね」
まるで5月の公園で幼い姉弟がやっていたようなつたない謝罪。多分俺たちにずっと足りなかったもの。
「いいよ」
それだけでらん姉は笑った。部室にいるときとも違う、優しくて温かいおねえちゃんの笑顔。ずっと焦がれていた笑顔だった。
「ずっと無視してごめんね。ひどいこと言ってごめんね」
「いいよ」
声に嗚咽を交えながらも、らん姉はたどたどしく言葉を紡ぐ。
「あのね、それでもやっぱり、私は私を許せないと思う」
「…それは」
「ううん、だからね。もし困ったことがあったらすぐに言ってほしい。償いとして、あるいはお姉ちゃんとして、もしくは先輩として、絶対に力になってあげるから。そうなったときに『助けて』の声がよく聞こえるように、すぐ近くにいようよ」
甘い果実のような心地よい提案。答えは決まっていた。
「ああ」
ぐしゃぐしゃの顔を見合わせて、どちらからともなく笑う。心の底から愉快な気分だった。
「あおいくん」
くすぐるような声が耳なじみのあるワードを形作る。
「先輩…?」
「つばさくん」
久しぶりに名前を呼ばれた気がする。言われて、改めて俺もこう返した。
「らん姉」
多分今後俺が目の前の相手を先輩と呼ぶことは………からかう時くらいしかないだろう。
「これから改めてよろしくな、らん姉」
「うん」
まだ慣れない呼び方だけど、そのうちすぐになじんでいくことだろう。
と、その時、がたりとドアが開いたかと思うとひな姉がしたり顔でこちらを見つめてきた。
「2人の世界に入り込んじゃってるところ悪いけど、そろそろ夕ご飯冷めるよ~」
慌てて時計を見ると、確かにもういつもの夕飯時間を過ぎていた。それでも声がかからなかったということは…。
「聞いてた?」
「そりゃあ、ここは私の部屋なんだから」
それは、悪かった。
らん姉と2人でリビングに向かおうと立ち上がると、スマホのシャッター音が鳴り響いた。見ると、ひな姉の手にスマホが握られている。
「2人が仲直りした記念の1枚」
「え、恥ずかしいからやめてよ~」
らん姉は写真を消そうとするが、俺は案外悪くないなと思った。父が撮ったアルバムの中に、4月から撮りためたカメラロールの中に、今日という1日の思い出が残ると思うと、気分がいい。
あ、そうだ。
「ひな姉」
「ん?」
言い争っている双子の妹のほうに声をかけると、スマホを取られないよう高く掲げたまま、目玉だけがこちらを向いた。
「ひな姉もいろいろありがとうな」
「よかったじゃん」
全てを見守っていた姉の笑顔が、やたらと頼もしく見えた。
「ほら、らん姉も早くいくぞ」
「はーい」
写真を諦めて大人しくついてくるらん姉。ひな姉はそんな俺たちを嬉しそうに見送っていた。




