第十話 先輩と7月の友
「アオ、アオ!そろそろ着替えねえと、体育間に合わねえぞ」
肩を叩かれ、俺ははっと我に返った。声がしたほうを向くと、園崎と久我が不思議そうな顔をして立っている。2人ともすでに体操服に着替え終わっていた。そうだ。今日の3時間目は体育だった。
「おう、すぐ水着に着替える」
「いやいや、今日雨だから。体育館でバスケに変更だって。さては先生の話聞いてないな?」
「というかこの雨なら何も言われずともプールはないと気づくだろう。疲れているのか?」
それもそうだ。窓の外では相も変わらずざあざあと音を立てて雨が降りしきっている。慌てて体操服に着替え、3人で体育館に駆け込む。
それからも俺の不調は続いた。パスを無視し、敵チームにパスし、何もないところに走り出し、顔面でボールを受け止め、突き指をしたところで見学を勧められた。やんわりとした戦力外通告である。俺のチームに代わりとして園崎が乗り込み、入れ違いに久我の隣にそっと座る。
「指、大丈夫か?」
「おー。悪いな、迷惑かけて」
「まあ、アオがバスケ苦手なのは皆分かってはいるから気にするな、と言いたいところだが、流石に今日は一段とひどかっただろう?心配はしている」
「悪い」
「いや。今までアオが怪我をしていなかったのは、人一倍神経を使って授業に臨んでいたからだろう。それを皆分かっているし、アオを尊敬しているのだ」
久我は正座でもしだしそうなほど真剣な顔をしていた。
「悩んでいることがあるのだろう?もしアオが嫌じゃなければ、相談に乗らせてくれ」
一瞬、久我の姿がひな姉に重なった。10年近く相談には乗ってくれたものの何も解決しなかった、そしてようやく首を突っ込んだ瞬間俺が積み上げたすべてをぶち壊した姉の姿に。
「いや、大丈夫だ。もう解決はしたんだ」
笑顔を作って言うが、久我は疑わし気な目をやめない。
「にしては、すごく不調だろう?」
「まあ、最適解も方向性も決まって実践中だから、後は慣れるしかないんだな。その最中だから疲れてるだけだ。ありがとな」
久我の誠実なやさしさが嬉しかった。だが今その手をとると、自分が揺らいでしまいそうだ。
幸い、久我はそれ以上は食い下がらなかった。
「分かった。しかし気が変わったらすぐに言ってくれ。俺じゃなくてもいい。ソノも、アサもナカ、他の奴らも心配してるんだ。思い詰めるなよ」
「…わ、すげー。3ポイント!」
優しい言葉をかけてくれる久我から目を離してコートを見ると、バシュッと軽快な音を立てて園崎が放ったボールがゴールに吸い込まれた。体育館中の歓声に、久我は虚を突かれたように瞬きをした。
「……ああ、流石バスケ部だ。次期エースともてはやされるだけある」
「俺が抜けてチーム的にはラッキーだったな」
「ははは、じゃあ俺も棄権してソノに入ってもらったほうがいいかもしれない」
いつも通り軽口を交わして、ただチャイムが鳴るのを待つ。いつも通りの授業風景だった。
◇ ◇ ◇
火曜日は体育の後SHRをこなせばそのまま放課後となる。そのため担任の計らいで特例で着替えの前にSHRを終わらせてしまい、体育会系の連中が去った教室で文化系部活の者は着替えるのがこのクラスの慣例となっていた。制汗剤の匂いが漂う教室で着替え、荷物を鞄に詰める。そのまま部室に向かおうと思ったが、足が上手く動かなかった。
部室に行って、どうする?どうせ先輩は来ないだろう。一人きりの教室で何をする?部活動なのだから1人でも部活をすればいい。去年先輩がそうだったように。1人で写真を撮って、自分で評価して、それをずっと繰り返せばいい。
「…オ!アオ!聞こえてんのか?」
声にはっと我に返ると、園崎が訝しげにこちらを見つめていた。
「お、おう。悪い、ぼっとしてた。どうしたんだよこんなとこで。これから部活だろ?」
いつも通りを装って返事をすると、園崎は手に持ったスポドリを掲げて見せる。
「体育で水筒の中身全部飲み切ってさ、買いに来た。お前こそ、昇降口まで来て部活はどうしたんだよ」
そう言われて、はじめて俺が昇降口にたどり着いていたことに気が付いた。カメラバックを詰め込んだ大き目なバッグが、ぐいと肩に食い込む。
「あー、ほら、指がさ」
「指?」
「ほら、さっき突き指しただろ。だから今日は帰ろうと思って」
「お、おう。そうか」
理由にはなっていなかった。突き指したのは左手の小指だ。シャッターは切れる。園崎は疑わしな視線で髪をがしがしと掻いた。
「体育の時クガと少し話したんだろ?クガ少し落ち込んでたぜ?」
「それは…悪かったな」
「ま、別に全部を相談するのが友達ってわけでもないしな。そうじゃなくてさ、もし、一人じゃどうしようもないってことがあったら、俺にでも、クガにでもすぐに相談してくれよ」
何も言えなかった。友人に相談してもどうすることもできないことではあるし、正直あまり踏み込んできてほしくないエリアである。しかし、2人の気遣いはやはり嬉しかった。
「部活、頑張れよ」
悩んだ末に出てきた言葉はただの激励で、一瞬園崎が浮かべた寂しそうな顔に罪悪感がチクリと痛む。だが、一瞬のことでいつものような顔をして、園崎は笑って見せた。
「おう、ありがとうな」
ペットボトルを掲げるように園崎は去っていく。鞄を背負いなおして俺も帰宅しようと雨の中に足を踏みだした。




