わたし、あなたの妹さんに婚約者を盗られたんですが?
「エレナ・ロベール、君との婚約を破棄する」
とある夜会で、婚約者のフェリクス様はそう、静かに告げた。
わたしは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
フェリクス様は気の毒そうな顔でわたしを見ていた。整った優しげな顔立ちを悲しそうに歪めている。その隣には見知らぬ銀髪碧眼の可憐な美少女がいた。当たり前のように腕を組んでいる。わたしの方が場違いな存在であるように。
少女の顔に一瞬別の誰かの面影が過ぎる。が、すぐに消えた。
わたし、エレナ・ロベールはいまこの瞬間に王国の第四王子フェリクス様の婚約者ではなくなったらしい。
「私は彼女――ディアナ・カンタブリヤを妻に迎えることにした」
ディアナ嬢は、小鳥のように小首を傾げた。絹のようにさらさらの髪が揺れた。精巧な人形のような、ニキビもそばかすのひとつもないまっさらな美しい顔立ちをしていた。まるで妖精だった。
縮れた黒髪で、化粧でも消せないそばかすのあるわたしとは真逆だ。
「私は彼女を愛してしまったんだ」
フェリクス様がディアナ嬢を慈しむような目で見る。
以前なら、その目はわたしを見ていたのに。
大好きだったあの方の眼差し。
「そうなのですか」
わたしは震える声で言った。
「お幸せに」
わたしが絞り出した言葉を尻目に、フェリクス様はディアナ嬢と共に、ホールの中央に去っていった。そこでは楽団の演奏で人々が踊っていた。そのダンスの輪に二人は加わると、周囲の注目を一心に集めた。
二人が絵になるのは当然として、まるで長年のパートナーであるように息ぴったりのダンスを披露した。
わたしはそれをただ見ているしかなかった。周囲の貴族たちが、わたしをちらちらと見ていた。憐れみもしくは、蔑むような目で。
わたしはその日、自宅への馬車にどう乗ったか記憶がなかった。気付くと馬車の中で、まもなく屋敷に着くところだった。
屋敷に着いたわたしをお母様が出迎えた。お母様は何も言わず、労るような表情でそっとわたしの腕に触れた。途端、わたしの視界が滲む。わたしはお母様に抱きついて泣いた。
翌朝、王宮からの使者が来て、わたしの婚約破棄が正式に告げられた。
わたしはずっと部屋に籠っていて、訪ねてきたお父様に教えて貰った。お父様はしばらくゆっくり休みなさい、と言った。
昼過ぎまで自室でぼんやりしていると、侍女が来客を告げた。侍女は戸惑っているようだった。それを不思議に思いながらも、わたしは部屋を出た。
お父様は領主の仕事で、お母様は公爵夫人のお茶会に呼ばれ、不在だった。次期侯爵のお兄様はそもそも留学されていてこの国にはいない。この屋敷にはわたししかいない。
応接室に着くと、立派な身なりの長身の若い男性が立っていた。知らない方だ。彼の銀髪を見て、嫌なものを思い出しそうになるのを必死に堪えた。
「お待たせいたしました。エレナ・ロベールでございます」
作り物めいた美貌を一瞬だけ視界に入れて、わたしはお辞儀した。
男性は何も言わなかった。そういえば侍女から相手の名前を聞いていなかった。
沈黙が続く。わたしは耐えきれず、口を開いた。
「失礼ですがあなた様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
男性はわたしをまじまじと見つめた。その不躾な視線にわたしは、自分から視線を外すことも忘れていた。
切れ長の瞳で、フェリクス様とは真逆の冷たい眼をしている。
「マリウス・カンタブリヤだ」
家名を聞いてわたしはギョッとした。
「あの……もしかして……」
「ディアナ・カンタブリヤは私の妹だ」
マリウスは妹の所業についてカンタブリヤ家当主の名代として謝罪に来た、らしい。
というのも、わたしはあのあと彼の話をまともに聞いていなかったからだ。
後日、お父様が在宅のときに再訪し、改めて謝罪をしたらしい。お母様がそう話していた。
わたしには関係のない話だ。婚約破棄が翻るわけもなく、フェリクス様の心がわたしに戻ってくることもないのだから。
数週間経った頃、わたしは元婚約者のフェリクス様のお誕生日を祝うパーティに出席していた。
主役であるフェリクス様の傍らにはディアナ嬢の姿があった。昨年までわたしがいた場所だ。
本当なら、今日、わたしはここにいないはずだった。
「ディアナが君にどうしても会いたいらしいんだ。来てくれないか?」
フェリクス様がわざわざ屋敷に訪れ、そう告げた。
勿論、これは命令だ。
この方は、こんなことをするような方だったのだろうか。いつもわたしに温かい言葉を掛けてくれたあの方は。
婚約者ではないただの貴族の女の扱いなどそんなものなのか。
わたしには拒否することは、許されていなかった。
そうしてわたしは王城の広間の端で一人所在なく立っていた。
当たり前だが、みなわたしを遠巻きにしている。なぜここにいるのかと眉を顰める者も多かった。わたしの視線は徐々に下がっていった。
「エレナ嬢」
聞き覚えのある声に顔を上げると、会いたくない人間の一人がそこに立っていた。
マリウス・カンタブリヤが目の前にいた。
「隣、いいだろうか?」
「は、はあ……」
断りたいところだが、わたしは既にぐったりと疲れていて、言葉が出てこなかった。
それから、マリウスは話しかけることもなく、無言の時間が続いた。
そのうちに楽団の演奏が始まった。
フェリクス様やディアナ嬢には挨拶していないが、わたしはもう帰ってしまおうかと思った。ここまで耐えたのだから、最低限の務めは果たしたことになるだろう。
わたしはマリウスに一礼して、その場を去ろうとした。
だが、わたしの腕を取る者がいた。
「……すまない」
マリウスがわたしの腕を離して、そう言った。
「なんでしょうか? そろそろわたしはお暇致しますが」
「無礼を承知でお願いしたい」
一曲、踊ってくれないか。
真剣な面持ちでマリウスは手を差し出し、言った。
わたしは、つい、その手を取ってしまった。
淑女として当然わたしはダンスができる。けれど、あまり得意ではない。
今まで、フェリクス様の足を何度も踏みそうになった。
だからマリウスとあまりにすんなり踊れることに、驚いた。
わたしがよろけそうになったときも、さっと支えてくれた。
真っ青な瞳がわたしをじっと見つめていた。銀色の髪と青い目が誰かを思い出しそうになる。わたしに向かって、はにかんだ笑みを浮かべた誰か。
ダンスが楽しいと久しぶりに思えてしまった。
曲はあっという間に終わり、わたしたちは壁際に戻ってきた。ぼうっとしているわたしの手を、マリウスは静かに離した。
フェリクス様ともディアナ嬢とも挨拶することなく、わたしは帰宅した。
翌日、屋敷にマリウスからの贈り物が届いた。
青い蝶を繊細に象ったブローチだった。添えられた手紙には、ダンスのお礼が簡素に述べられていた。
ふと遠い記憶がよみがえる。
『ねえ見て、あの蝶! ――様の目とおんなじ色』
『そうかな?』
『うん!』
幼い私が、同い年くらいの男の子と二人、自宅の庭園にいた。
わたしが指さす先を、鮮やかな青色の蝶が飛んでいた。
「まさかね」
捨てようと思ったそれを、わたしは自室の机の上にそっと置いた。
フェリクス様とディアナ嬢の結婚への準備は着々と進んでいるようだった。
わたしは日々を淡々と過ごした。
お父様からは次の縁談の話は聞かされなかったが、恐らく何かしら進めているのだろう。何もなければ修道院に行くだけだ。
立ち直ったと言えば嘘になるが、フェリクス様のことは諦めがついた。もともと、わたしの気持ちでどうにかなるものでもないのだが。
あれから変化があったとすれば、夜会でときどきマリウス殿と会うくらいだ。
あの人が何を考えているかは正直わからない。ただわたし同様に、周囲から腫れ物扱いされており、ダンスのパートナーはいなかった。だから、わたしたちは一曲、二曲だけ踊る。それだけ。
マリウス殿と踊るのが楽しいのは、彼がわたしのことをよく見て、気遣ってくれるからだとしばらく経って気付いた。
婚約者を奪った女の家族であることに思うところがないわけではない。
でも、まあ、いいかなとわたしは思う。
いずれわたしは別の誰かに嫁ぐか、修道院に行く。娘時代のささやかな思い出だ。
順調に見えたフェリクス様の結婚は思わぬところで頓挫した。
「あの……もう一度仰っていただけませんか?」
突然屋敷に現れたフェリクス様がわたしの目の前にいた。
わたしは先ほど耳を疑うようなことを言われた。幻聴であって欲しい。
フェリクス様は大分やつれていた。
「私ともう一度婚約してくれないか、エレナ」
幻聴ではなかった。
「フェリクス様、わたしとの婚約を破棄したのは貴方です。第一、あなたにはディアナ様がいらっしゃるではありませんか」
「ディアナは私を捨てたんだ!!」
フェリクス様は怒鳴った。
ディアナ嬢はある日突然姿を消したらしい。当然徹底的に探すが影も形もない。実家のカンタブリヤ家も何も知らないという。
そうして数日後、フェリクス様のもとに一通の手紙が届いた。
差出人はディアナ嬢だった。
『帝国の後宮に参ろうと思います。短い間でしたがお世話になりました』
そう、書いてあったという。
帝国というのは、東方にあるこの大陸最大の国家だ。皇帝が絶大な力を持ち、千人を超える妃たちを囲う後宮というものがあるらしい。
つまり、ディアナ嬢は帝国の妃になるつもりらしい。
わたしは話の飛躍についていけず、フェリクス様の話をただ聞くしかできなかった。
「だからエレナ、私の婚約者に戻ってくれ。かつてのように」
フェリクス様はわたしの手を包み込んで、そう言った。
きもちわるい。
「いやです」
その言葉は自然と出た。
フェリクスは怪訝な顔で私を覗き込んだ。
「なぜだい? 元に戻れるんだよ?」
かつて、わたしが大好きだった優しげな表情で言った。
「いいえ、元には戻れません。わたしはもう貴方を愛せません」
「王家に逆らう気かい?」
「いいえ。そもそも、こちらは王命ではございませんでしょう」
その言葉にフェリクスは黙る。
「父上の許可ならすぐに下りる」
「いえ、それは有り得ません。失礼します、殿下」
わたしもフェリクスも顔を上げる。
応接室に入ってきたのは、マリウス殿だった。
「よく私の前に顔を出せたな、マリウス」
フェリクスは顔を歪ませて、吐き捨てるように言った。
「愚妹の件は誠に申し訳ございません。ですがエレナ嬢との再度の婚約は王のお許しが出ることはございません」
「貴様誰に口を聞いていると思っている。父上がそんなことをするわけがないだろう!」
「それがあるのだな、弟よ」
わたしはその声を聞いてぎょっとする。
フェリクスもそれは同じだった。
「兄上!?」
マリウスに続いて応接室に入ってきたのは、王太子であるユリウス殿下だった。
「末っ子のお前に甘い父上もとうとう堪忍袋の緒が切れたのだよ。他国に妻となる女を取られた王子など、王族には不要だそうだ」
そもそもエレナ嬢との婚約破棄だって、父上は相当頭にきていたしな。と、ユリウス殿下はついでのように言った。
次期国王というにはあまりにざっくばらんな態度にわたしは戸惑うが、口を挟める状況ではないので、ただ成り行きを見守った。
「そもそもお前が政務そっちのけで、あの女に夢中だったのがもう致命的だからな」
「そんな……」
フェリクスはその場に座り込んでしまった。
フェリクスは王族としての資格を全て失い、王都から追放され、地方に飛ばされた。
そして、わたしは。
「どうして、あのマリウス様だと言ってくださらなかったの?」
「気付いてくれなかったのは君の方だろう?」
わたしはうっと言葉に詰まる。
わたしとマリウス様は幼い頃、一緒に遊んだ仲だった。わたしがフェリクスとの婚約が決まるまでは。
「というか、貴方の妹さんに婚約者を取られたんだから、それどころじゃなかったことくらいわかるでしょう?」
わたしのマリウス様への口調はあの頃のものに戻っていた。
わたしの言葉に、マリウス様は深いため息をついた。
「そうだな、あの愚妹のせいだ。何もかも」
「え?」
マリウス様は苛立たし気に、けれど少し気まずそうに言った。
「あの愚妹は、君がフリーになるように、殿下を盗ったんだよ」
顔もそこそこ好みだったんだろうが、とマリウス様は添えた。
「え???」
「愚妹は第四王子ごときの妻で満足するような女じゃない」
のちにディアナ・カンタブリヤは皇帝の寵愛を受け、後宮でのし上がるどころか、史上初の女帝となるのだが、それはまた別の話だ。
それよりも――
わたしは期待を込めて、マリウス様を見上げた。
その視線に気づいたマリウス様は頬を染めて、こほんと咳をしてから言った。
「私と結婚してくれないか、エレナ・ロベール」