別れ
私がぴったりした衣服に、白衣を掛けて箪笥を閉めると、中にアスカが入って来た。
「決ってるね」
彼女は冗談ぽく言うと、窓際で車椅子に揺れる弟の処へ往った。
たった数日しか戻らなかったが、その日弟と私はこの部屋を共用した。その間、弟はずっと筋肉を緊張させて、泣きそうに眉を寄せ外に顔を向けていた。そして時折、車椅子をがたがた言わせるのだ。
身体が殆ど動かないのに、車椅子に振動を与える事が出来る様になった事に、私は眼を瞠った。
・・・・・・成長が見られない訳ではない。私やアスカの様に顕著でないだけで。
アスカは以前と大きく変り、既に変貌を遂げていた私とは逆の一途を辿っていた。・・・強いて謂うなら、ユイアンと同じだ。
「・・・男の子達は皆、そんな格好をするんだね」
彼女はふっくらした胸に手を当て、声帯をいつもより閉じて弱い息を吐いた。声が低い。
・・・皆?私は実はよく解らなかった。あれから、孤児院の子供が何処へ往ったのか、彼女も含め私は知らない。只この衣服は彼等とは別のルートで手に入れたものであって、支給ではなくユイアンから直接渡された。軍服の様にも見えた。
「・・・・・・召集されるのか」
私は呟いた。アスカに配給の切符を提示されて、私は其を突き返した。
「・・・・・・やっぱり?」
之を貼りつけた笑みと謂うのだろう。アスカは哂う。だが筋肉を引き摺る様な、粘着的な笑みだった。
院長と同じで彼女は、そう遣って感情を閉じ込めてしまう。
「・・・・・・推論だ」
・・・・・・私自身、極端に語彙が少ない事に気づいた。気休めの言葉が見つからない。想像の範疇を超えない事として遣ったが、恐らく想像の範疇を超えるだろう。
―――私は、この国の人間ではない
「・・・そうだね。ソカイって言ってたもんね」
この時の彼女の脳味噌の複雑な働きを眼に入れて、私の胸はドクンと鳴った。感覚的に私と似ている脳味噌の対処技法ではあるが、其が逆に、あの方法が私にも適用する事の証明となりそうだ。
「・・・・・・・・・済まないな」
・・・・・・私は国民服の襟に手を当て、再びボタンを締め直した。
「え?」
もう一方の白衣の腕で鞄を掴む。一刻も早くこの施設から出たかった。彼女とは―――一刻も早い“他人”になりたかった。
・・・いや。私は言うのを躊躇った。そうして抑圧して己を押し殺し、病んでゆく。私も余り他人の事を彼是と云えまい。
「・・・今日は結構、よく喋るね」
私はアスカの脳を視た。だが皮肉か誤解を懼れているか、はたまた別の感情なのかは知る事が出来ない。私がこの眼で窺えるのは、空気中の原子の漂い、体内の細胞・物質の運び。細かな感覚の違い(クオリア)、濃やかな統合された全体像。曖昧になればなる程、物質の運びは複雑に絡み合い、元を辿る事が難しくなる。そうして麒麟の長い首の様に、物質の往く末を辿ってみると―――脳の中にも間隙が存在する。
「・・・・・・私、ずっと嫌われてると思ってたんだ」
「・・・・・・?」
―――物質としての脳の振舞いから、何故またどう遣って、私達の主観的な体験といったものが生れるのか。人間の心は、其ほど神秘的なものだ。
「・・・・・・だから、彼を預ってくれって言われた時は、私嬉しかった。・・・私、欲張りなの。彼からもあなたからも必要とされたくて、屹度、あなた達二人に恋、してたんだね。ずっと一緒に居たかったんだ」
―――あぁ、私は実は何も知らなかった。何も知らない事を知った。物事は常に、単体で動いている訳ではない。
神経伝達物質の運びの矛盾、多細胞生物の多角的な見方、其を屹度―――葛藤と云った。
「私は屹度、ズルイんだ。彼が誰かに恃まなきゃいけない状態なのに付け込んで、彼の中の、神になろうとした。あなたにも必要として欲しくて・・・・・・彼を手伝う事があなた達両方の求めている事だと思った」
中っている・・・・・・私は不意に、哀しくなった。私は弟を許せていない。だが之はもう・・・・・・半分、意地だ。
「・・・実は、ずっと悩んでいたんだ。あなたに嫌われない方法は何だろう。どちらからも好かれる方法って何だろう。空気の様な存在になる事かな。でも其って、無関心という事と同じだよね」
・・・・・・アスカは段々、涙ぐんでいた。
「・・・・・・私達って、似てるよね。ヤマアラシのジレンマって云うのかな。肝腎な事ほど、言えなくなる。一緒に居るとつらくなる。“私は邪魔な存在なんじゃないか”って、頭の中を常に駆け廻る」
私の言動一つ一つが、少女の過去の心の傷を、抉っていたのかも知れない
「・・・わがままだよね。結局そう遣って四方八方塞がって、只の受身だけの人間になった。そして結局最後まで、あなたがこう遣って求めてくれるのを、俟っているだけで終っちゃったんだね」
―――泣きながら笑う。笑いながら泣く。この偽りの表情を、綺麗だと思ったのは初めてではなかった。
『・・・・・・君、父親そっくりだ』
「あなたの心の中に、私は遺せたかなぁ?でも重い女なんて思われたくないの。だから之で好かったんだと想う。あなたが彼を、私に任せてくれたのは事実だから」
・・・・・・そうしてアスカは、困惑させない優しい冗談を私に言った。
「其に女の浮気は、犯罪です」
「・・・・・・送ろう」
私は弟の車椅子を押した。
私の脳に答えは無い。そして彼女の闇を全て受け留められる程、私の器は大きくはなかった。
けれど、いつかは――――・・・・・・
汽車が近づく。夜の汽車だ。弟と細君を連れ出すのに、随分と時間が掛ってしまった。
之から異人・障碍者を抱えて三人、どう遣って生きるのか。其は非常に危ぶまれた。細君は布を纏っているが、捲れば恐らく只では済むまい。
併し之がアスカの望んだ―――“家族”という形態なのだろう。「送る」と言ったが、彼女は迷惑を掛けたくないと、半ば強迫的に云った。
汽車が近づく。ライトが眩しい。とは謂え、私には可也直前まで明るい景色が視えていた。アスカや他の乗車を俟つ客が目蓋を細める。私の苦手な刺激の大きい音を立て、汽車は速度を落してくる。私は車椅子を押した。
何かが私の手の甲を握る。
――――弟だ。
莫迦な!?私は目を擦った。弟は生来麻痺が続いている筈。振り返るなど以ての外―――
現実に立ち返ると「莫迦な」と想う気持ちが消え、私は
「莫迦め・・・・・・」
と呟いていた。
――――弟は、我々が思う白痴ではなかった。
ッ ボーーーーーーーーウゥゥゥッ
弟はずっと、この時の為に体力を温存していたのだ。
ボーーーーーーーーウゥゥ
・・・汽車が、迫る
・・・だめだ、やめろ
共に彼岸へ往って如何する
彼岸へ往くのは
私だけで
いい
キキーーーーーーィ・・・ッ!
私は弟を、車椅子ごと線路側にどんと押した。弟は泣いた表情の侭ぽかんと口を開けて、一言も発す事無く仰向けの状態で身を沈めた。アスカと細君は愕いた顔をして、其を見ていた。
汽車はドアを閉め駆け出して往く。もくもくと煙を上げながら。その煙は、あの、サナトリウムの煙に似ていた。
併し今回は、もう誰も迎えに来なかった。父は未練無く逝った。母も―――・・・父を連れて往く事で満足した様だ。
愛し合っていた。
・・・・・・私が予め入り込む余地など、無いに等しかった。入り込む余地の無い愛を、ユイアンもあの研究所で感じ取っていたのかも知れない。充たされる事の無い孤独を。
あの煙に、父と母の成分はもう含まれていない。在るのは孤独、燃料が燃え分解されて、個々の存在となった硫黄・炭素・水素。
皮肉な事に、富国強兵を望み増強した技術(追い着かせようとする側らの煙)が、弟の様な障碍児を産む拍車を掛ける(ベンゾピレン・コロネン)。
凡て物事は、循環するのだ。
私は線路を背にして歩く。もう振り返る事は無い。誰も棲まう事の無い孤児院の庭に、ユイアンが車を寄越して待っている事になっている。
私は纏う衣の襟を正した。正規ならば私が配給される事は無かった代物。之を纏うか纏わぬかで、私の国民としての運命は大きく変る。
ざ・・・っ
私は過ぎ去る汽車に逆らって歩いた。学徒(彼等)が徴集される前に院長が亡くなったのがせめてもの救いだ。私に贈れる彼等への餞と云えばこの程度でしか在らない。
「君・・・・・・」
白衣も鞄も総てを抱え、私は荒野に立っていた。あの孤児院の中には、もう何も残っていない。其でも、想い出の木の机や懐かしい漆の黒板は取り払われずにまだ其処に在るが。
「・・・・・・荷物は其だけかな」
「・・・・・・ええ」
私は肯いた。私が抱えられる分量は精々この程度でしか無い。荷物となるものは皆・・・・・・既にこの掌から篩い落してきた。
私は踵を返し、手入れをしなくなって久しい荒野となった孤児院の庭に別れを告げる。ユイアンの車は、20mほど先の細い鉄の門の前に停めてあった。
「・・・・・・寂しいね」
ユイアンは呟いた。




