院長と細君
院長が頭を抱えて机へ臥せる。『人工物』の正体が判った。蒸留酒だ。
台所に転がされた杯に、私は途惑いを隠せなかった。・・・一体何杯、呑んでいるのだ。
院長が目頭に手を当てているが、網膜の破壊は細胞より濃い。押えれば強く押えるほど寧ろ、桿体細胞は壊されてゆく。
「・・・彼が自ら、言い出した事ですよ。其にこの、学習思想学という学問はまだまだ開拓の余地の有る分野です。何せ、彼自身が発掘した分野だからね」
―――ユイアンは先程の微笑みを崩さない侭言っていた。眼輪筋がぴりぴりしている。眼が笑っていないという状態だった。
「流石は博士の息子さんだ。目聡くて、探究心旺盛だ。そうして自分の意志を持って、博士と同じ道を歩もうとしている」
院長と細君は放心と謂える脳で其を聞いている。働きは脳の本能的な部位にとどまり、より瞬間的で其以上の感情を止めていた。
「―――貴方がたの教育が間違っていた訳じゃないよ。元々そういう器質なんだ。―――彼も彼の父親も。真理を追い求めずにはいられない」
「し・・・併し、私はその博士から・・・・」
「止められているって?でも博士はこうも云っていたよ。―――息子さんが自分からそうしたいと言った場合は仕方が無い・・・とね」
まるで父が降ってきた様な威厳が在った。私は上直筋を見開いて、彼女の周囲に父の成分を探す。父の成分どころか原子の移動も異変は無かった。
・・・・・・併し、院長も細君も、驚愕から恐怖に近い段階の過程で感情を止め、後は呆然と話を耳に入れていた。
「・・・あぁ、失礼。自己紹介を忘れていたね。あたしはユイアン。第十二特別研究課で博士の助手をしていた」
――― 数秒してから、院長の方で驚愕が多少の安心へとセロトニンと共に流れる。
「―――あぁ・・・!君が・・・・・・」
院長はその鈍い眼でも判別できる程の、錐体刺激の激しい色素量の瞳を持つ彼女と私とを視較べた。納得した様だった。
ユイアンは真実の微笑み(デュシェンヌ・スマイル)を宿していた。彼女の腸でも軽やかに、セロトニンが脳内へと上昇してゆく。安堵の溜息は嘘ではなかった。
「・・・だが、彼には弟が居てね。彼にとっても、弟にとっても、たっ・・・た一人の家族なんだよ」
院長が目頭を押えて言った。
「あぁ、あの両麻痺の?」
・・・院長は細君に支えられ、肯く。
「・・・脳性麻痺だ。両麻痺と・・・重度の白痴がある。私等が介護をするのは一向に構わないのだがね・・・あの子は寂しがりやで、彼をとてもよく慕っていて・・・・・・ここ数日、居なかっただけでも、あの子はずっと眠れてない」
院長は其の侭、顔を上げない。・・・彼は何だか、とても疲れていた。
逆にユイアンは元気になった。彼女の神経活動が目に見えて増大する。下斜筋が上転、僅かに外転して今迄よりも不自然な笑みを形づくった。何故報酬系が働くのか、其が非常に不思議に思えた。
「ならば、弟君も預ろうか?」
ユイアンは淀み無く言った。
「博士は、障碍の研究もしていた。どうすればこの子達は、真っ当な子達に追い着く事が出来るんだろう、とね」
院長と細君は顔を見合わせた。見る見る筋肉を緊張させるのが視える。血管が急に収縮を始めた。
(あ――――)
私は危機感を感じた。いけない、院長。だめだ。之以上感情を荒立てては。
ユイアンは真黒な笑みを湛えた。院長夫婦を見下ろしている。
「あたしがその研究を引き継ごうかと思う」
彼女はすっと院長夫婦から距離を離した。背凭れに背をつけ、夫妻と視線の高さを同じく戻した。
「介護は大変だろうけど別に迷惑じゃない。寧ろ居てくれた方が、今後の障碍児教育の役に立つ」
「・・・・・・残念だが、聞いている話と違う」
院長は必死に感情を抑圧していた。手を組んでその中に顔を埋めると、溜息を吐き左右に頭を振る。感情を出しては欲しくなかったが、抑えられると猶更不安が私を襲った。・・・我慢する事が恐ろしい。
「・・・話?」
ユイアンは作り物の笑み(グリン)を浮べて訊いた。
「・・・・・・博士の言っていた事と違う」
・・・・・・ユイアンは溜息を吐いて、作り物の笑み(グリン)を眉を寄せた困惑の笑みに変えた。
「・・・じゃあ、弟君は連れて行かないよ」
彼女は納得した様だが、院長は寧ろ益々血管を収縮させる。私にはその逆転が理解できなかった。一先ず、弟が無事で安心だろうに。
「でも、彼が遣りたいのは本当なんだよ」
ユイアンがこの部屋へ入って立ち尽した侭の私を指差して言った。私は面喰らう。
院長の外眼筋が眼を剥き、私の黒い眼球を捉えた。
――――私が、院長を手に懸けるのか
「君・・・・・・」
院長が血圧を上昇させる。其でも感情は堪えていた。・・・脳内の血流量が、急激に上がった。私は眼を瞠る。
「院長」
私は叫んだ。其は父そっくりの低い声へと為り変っていた。ユイアンは飽く迄微笑みを崩さず―――
そう、見透かして光景を視ていた。院長の脳の血塊が、爆発した。
「あなた!!」
院長が私の胸に倒れ込み、朽ちた。否、細君の恐慌をほったらかしに、朽ちるまで何もしなかったのが正しい。ユイアンも受話器を耳に当てはしたが・・・・・・・・・諦めた。私は院長を、見殺しにした。
其はこの時代・この情勢に於いては最もまともな選択だったかも知れぬ。だが後味の全く善くない結末に、私自身の精神がまともでいられる筈も無かった。院長は私の腕の中で死んだ。一番まともな結末であったにせよ、私が院長を殺した事は、紛れも無い真実だった。
細君は欝病を引き込んで、孤児院の経営は成り立たなくなってしまった。最も当てに苦労したのは、細君自身を誰が養うかであった。細君自身は私達と違い、見るからに外来人と判る風貌であったから、邦に帰す事も考えた。併し、細君の恐慌より一足早く中央の方に震災が起きて交通機能は麻痺、遠い道程帰れぬ上に其が原因で金融恐慌が発生し、細君の預金が私達では下ろせず取り付け騒ぎにも乗り遅れ、経済的にも逼迫して帰路を断たれてしまった。更に、細君の恐慌より一足遅れて細君の邦の株価が大暴落、其が切っ掛けで世界恐慌が起き、農業の方にも恐慌を招く。夫・金・そして食べ物・・・二重・三重の恐慌を受ける細君を、無情にも波が追い打ちを掛ける。
細君の邦と本土が、軋轢を生み始めたのだ。
細君の邦の起した恐慌が本土の経済にとどめを刺した事を本土は恨み、細君の邦に恃めなくなった本土が苦肉の策で他所に進出した事が細君の邦は赦せなかったという、夫々(それぞれ)の言分である。
物事は循環する。
本土は鎖国状態となり、交通は敢て復旧させなかった。熱心な基督教徒である細君の親族は―――・・・『帰って来るな』との旨の手紙を国交が絶える直前。送ってきた。
後は孤児院の子供達が遣ってくれた。手紙を読んだのは偶然だし、運命を危惧していたのはユイアンであった。私はもう、孤児院の子供ではない――――・・・否、最後まであの場に馴染めなかった私は、最初から既に違っていたのかも知れない。
・・・只、細君の結末は知っていた。
細君の行方は知らないが、細君がどうなったのかは知っていた。アスカが共に、住まう事になったのである。
――――弟と共に。




