個別性
「“学習思想学”って知ってる?」
―――行為を終えて暇を持て余し、ぼんやりと死んだラットに眼を向けていた私に、彼女は云った。
「スキーマの学習心理学と脳科学に、教育学・倫理学を入れ込んだ新分野だ。我々は一体何者なのか。我々はどの様にして形成されてきたのか。其を生物学的ではなく・・・何と謂うかな、個々の人間の生きざまから解き明かす・・・そういう分野なんだ」
コルチゾールの分泌がこの頃穏かだ。だが縮んでしまった脳は、もう二度と元に戻る事は無い。
そう思わせぬ語り口で、彼女は能弁に夢を語っていた。記憶の薄れゆくその脳に、自分という存在を留めておくには、感情的な繋がりを持つか、海馬ではない他の部位に置き換えて貯蔵するより他に無い。
「生物学で出来るのは“動物種”までだろう?でもあたしが知りたいのは“ヒト”単位の分野。例えば、あたしと君は同じ“ヒト”であって同じでない。構成細胞は同じなんだろうがね」
・・・厳密に謂えばそうでは無いが。私と彼女の神経細胞の違いは、今目の前に死ぬラットの神経細胞との違いと大して中身は変らない。
「―――同じ細胞をもつ“ニンゲン”なのに、何故こうもあたし達は違うんだろうね」
「・・・・・・」
私は首を傾ける。納得のいかない疑問だった。・・・逆に、違う細胞をもっているのに、何故似た様なニンゲンが生れてくるのか。私にとっては、そちらの方が―――大いなる疑問だ。
中には、形質的に全く違ったニンゲンまで“似ている”と思う時がある。
(アスカ―――)
此処に居る時は、孤児院の事は忘れていた。・・・考えない様にしていたと謂ったが、正直かも知れない。
アスカは客観的に視ても、私と全く違った形質をもっていた。自分の細胞など視る事は無いが、弟があの時は傍に居た。
遺伝子と型自体は、あれは私と酷似している。
併し、アスカは「似ていない」と言った。遺伝子の微妙な配合の違いまで、彼女は見破っていた。
その一方で、私は全く共通の点の見つからない彼女に何処と無く共感の意を懐いていた。似ている・・・と謂うか、彼女の脳の働きだけは理解が出来るのだ。私が必要だと感じた時に彼女は行動を起し、せぬべきだと想った時に彼女は制止する。
彼女は或る一定の周期で急激にセロトニン量が減った。いつも元気で溌溂としているのに、或る一定の時期に入ると眠れない様だった。お気に入りの毛布を一時も手離せず、ひとり震えていた。院長や細君に頼ろうとせぬ健気さが、解らない様で解る気がした。
彼女が何を想い、何を考えているかなど無論判る筈も無い。不安遺伝子の活性とセロトニンの涸渇がこの肉眼に視えるのみだ。
只、神経伝達物質を運ぶ場面の選択は屹度私と似通っている。
不安を感じる時期・場面―――時期は私が一定しないが、強度や型は遺伝子が違うのに非常によく似ていた。
何故ヒトは、共通部分が無い相手に対し共通項を見出すのだろう。
共感を得る“部位”は、何処に在るのか判らない。
―――思えば、私がこうして肉眼で視えるのは、極めて物質的な機能面ばかりだ
「―――詰りは、予め何故其を選び取るのか」
私は頭を掻き毟り、思わず声を上げていた。内蔵される機能は全く同じなのに、何故最初から遣い方が違う。
運命というものは、無論タイミングや環境も含むが、大概は自らが招いている節がある。
・・・遡れば遡る程、猶更
「・・・赤ん坊の時からあたし達は、脳の自由選択で各々違う道に向かって“生きている”」
ユイアンは眼輪筋を上げた。
「―――けれども、集合フェロモンも無いのに、明確な基準がある訳でも無いのに、人々は共通性を見出そうとし、叉自然と共感する。脳は自由を求めておいて、其が時に不幸という概念を与え、最終的には帰属させる。でも其も、個人に依ってまちまちだ。何故だと思う?環境やタイミングに由らず、純粋に脳の器質として、何故そういった選択をさせるのか―――あたしはずっと、博士の隣で、そういう事ばかり考えていた」
彼女は哂う。父の話をする時が、最も報酬系が働きエンドルフィンを放出していた。所謂脳内麻薬と呼ばれるものだ。加え、ドーパミンが報酬系に関与し意欲と自信に満ち溢れている。
「君となら、解明できる気がする」
―――屹度彼女は、人生を遣り直したかったのだろう。他人に翻弄される運命に、嫌気が差したに違い無い
或いは結局振り向いてくれなかった父を、どうすれば自分に振り回されてくれたのか確認したかったのかも知れぬ。
如何して他人の代りには、なれないのかと
其からの彼女の行動は早かった。
この後、汽車の最終時刻が過ぎたあたりに孤児院より電話が掛ってきたが、私が受話器を取るより先に彼女が取り上げ
「之から息子さんを連れて其方へ伺う」
と一言告げ
がちゃん。
切った。急な腕の振りに空気中の原子が押し潰され、静かな部屋に噪音が走る。
その様な大きな音が私は苦手で、思わず耳を塞いだ。ユイアンは上眼瞼挙筋に力を入れた。
「・・・さて、敵陣へ乗り込むか」
・・・夜も更けて、他の子供達が寝ているに拘らず、孤児院はフィラメントが煌煌と灯りをつけ闇に浮んでいた。私にとっては、いつもと違う―――その程度にしか認識は無かったが、その情報量の少なさが寧ろ不安にさせる。
心配してくれているという認識は無かった。ユイアンに車で送って貰い、私は助手席から降りる。外には院長と細君が既に出ていて、其処だけ原子に細胞が浮いて視えた。
・・・人間はどうしてか、そしていつからか、環境にまじれない
併し一人、周りの原子に包まれて判らなかった者がいた。遠近的な原子の配列から、其は細君の前に居て、彼女が動かしているのが判る。砂を撒き上げ、原子を震わす圧力の強さが、車椅子の音と似ていた。
――――弟だ。
「・・・・・・・・・・・・」
暗闇が其を隠すのか、其とも自然に還る日が近いのか、細君が足を止めるまで、私は弟自身の細胞が全く視える事は無かった。視えれば逃げていただろう。弟は弱々しく鼻根筋を下げ、哀しそうに口角を上げた。母の骨壺を目にした時と、全く同じ筋肉の動かし方だった。
「―――ずっと、心配していたんだよ」
院長が杖を突いて追い着いて来た・・・・・・大変良くない。破裂しないのが不思議な位だ・・・そして腹には、人工物が沢山詰っている。
「―――おっと」
「お父さん」
大した堆積でもない原子につまずく院長を、細君が支える。何をそんなに呑んだのか。この侭では眼が視えなくなる。
ユイアンが車を降りた。暗闇の中で、彼女が最も識別し易かった。強い車のライトの所為かも知れない。父の子である弟の姿を逆光でないライト越しに確認した様に窺えた。・・・彼女の腹側被蓋野と大脳皮質が、活発に活動した。
この時微笑みを見せた様に視えたのは、気の所為ではなかったかも知れない
弟を何とか寝かしつけるが、中々手を離しては貰えなかった。生れた時から弟は、把握反射が消失しない。其は異常な事の様だ。
―――其にしても今日は、精神的に不安定だ
どんな時でも微笑んで、私の心を掻き乱してきた弟で、今日はない
自分自身を視ている様だった。力弱くも強張った両手で私の腕を離さず、笑顔は先程以来消えて上がってばかりだった筈の広頚筋は緊張で口角を下げている。口を開いてあーあーと声を上げるのには、周囲の子供が起きぬよう宥めるのに必死になった。いつもはとても静かなのに。
泣く時にする顔面神経の中央への集中が弟に若干視えた時、泣かないのではなく泣けないのだと初めて判った。
・・・・・・何か、途轍もなく不安な事がある様だ。基底核が連動している。
結局、私の腕を抱いたまま眠るが、体力残らず、横になる体勢に車椅子の背を変えると腕を落した。倒れゆく身体に、私は額に、手を乗せる。そうして障子を外側から閉めた。




