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弟 よ ・・・…  作者: でうく
5/10

ユイアン

私は(それ)から、この研究室に出入し、長居をよくする様になった。


女が何を言ったか知らぬが、二度三度が過ぎて頻繁に此処を訪れる様になっても、職員は私を咎めなかった。


・・・只、一つ気になる事があった。皆が私を()い様には見ていなかった。白衣を羽織り、母が死んで以来切っていない髪がこの(まなこ)に振り(かか)ってきても其の侭にして歩く私は、確かに父そっくりの風貌になっていた。幼さをなくし、面長になってゆく貌に対して目は貌に占める割合が小さくなる。きしきしと痛む四肢に、私自身が最も戸惑っていた。

『流石はあの博士の息子。後を継ぐ気でもいるのかね』

『蛙の子は蛙と云ったところか。せめて君は、羽目を外さない様にしてくれ(たま)えよ』

・・・抑え難い攻撃性と衝動性に、心が潰されそうになる。誰かを傷つけてしまう前に、何処かへ逃げ去ってしまいたかった。心が解らないのは前々からだったが、ここまで己の心が掴めないのは、生れて初めての事だった。

・・・・・・ぼんやりと、踊り場の姿見の鏡を見遣(みや)る。


「――――・・・」


―――鏡に映っているのは、私ではないと思った


其よりも、己の成分(すがた)など見てみたいと想った事も無いが、変った発見をしてしまった。脳の視床下部に当る部分から、何らかのホルモンが活発に溢れ出ているのである。其はルーブ=ゴールドバーグの装置の如く下垂体に流れ込んできて、また別のホルモンを分泌させる。やがてそのホルモンは脳を離れ、身体全体へと広がっていた。そして副腎で折り返し視床下部へ戻り、また下垂体前葉を刺激する。只管(ひたすら)、その繰り返し。だが新鮮な循環だった。父や母達大人には()えて、孤児院の子供達には視えなかったその物質の正体を薄々は感じ取っていたが、知識の少ない私には何故そうなるのかが解らなかった。そういった疑問と共に、完全に父に成り代ってしまった事に私という存在は一体何処へ往ったのか、そう思わずにはいられなくなる。せめてホルモンの分泌が無ければ、私が私である事、否、私が父でない事の証明にはなったかも知れないのに。


私は父と同じ(かしょ)に眉間の縦線を入れながら、全く同じ苦悶の表情で鏡の前に佇んでいた。父と唯一違う(かしょ)、其は恐らくこの思考、自我同一性の崩壊と自律神経の失調を招く視床下部と、相互連絡した辺縁系。父は私ほど(まで)に、不安を(いだ)く事は無かっただろう。私は細胞の構成以外に、父との違いを見出す事が出来ない。(しか)しその細胞の構成でさえ半分は父と同じものだ―――


そう、私が之程(これほど)にまで、母の面影を忘れる事が出来ないのは、(あらかじ)め、母を愛するよう私の遺伝子にも仕組まれていたからかも知れない




「―――来たね」


女は父の助手だった。名をユイアンという。事変に際して本土へ流入した東洋人の一人だった。

所謂(いわゆる)“徴用”されて来たという事だ。

遺伝子の配列からみて、私と彼女は形質的に同一の民族である事が判った。

と、思いながら、天井の原子構造を仰ぐ。

テーブルに押し倒されていた。



「――――・・・」



―――女の脳の、コルチゾールの分泌が異常だ。海馬の萎縮が視られる。(しか)も一度正常に発達し、その後退化しているのが判った。


(つま)りは、脳の内側にスカスカの隙間が出来ている。

思春期を過ぎてからの―――心的外傷(トラウマ)だ。



「―――・・・だめだね」



女は哀しそうに言った。



「・・・・・・息子さんの名前。何度聞いても、憶えられないや」



・・・海馬が()られるとその弊害に、記憶力を失う。併し其が其だけの要素で、そうなっている訳ではない事を私は気づいていた。

細胞の一つ一つが嘘を吐く事など、絶対に出来ない。

女の脳味噌を見つめていると、好意を持続する思考部位と眼窩前頭皮質が活発に働き、以前見た様にドーパミンが基底核より分泌されていた。併し日に日に、ノルアドレナリンの方は投射量が少なくなって()った。

不安と悲哀が抑制されて、女は益々(ますます)恍惚とし始める。この女性は既に恐らく何年も前から、視床下部が働きを起して女性らしさを形成していたが、今日は何だか様子が違った。


私は何度も名乗る気は無かった。何度名を告げたところで、彼女のその空ろな脳には届かない。特に届いて欲しい訳でもなかった。


私は己の名を言う代りに噛みつく様に女の唇に唇を重ねた。着ていた白衣を剥される。繊維という視覚的に邪魔な原子の覆い物が無くなり、私は己の細胞を肉体を通じて凝視した。細胞の比率が以前と違う。と同時に、目の前に居る女と私では、全く別の生き物である事が判った。

私の体内(なか)では少量しか流れていない物質が、女の体内(なか)では大半を占める。そして其は彼女の体内(なか)で、私を視る度増大し、また逆に私の体内(なか)で大半を占め、女の体内(なか)には少量にしか無い物質が、彼女を視る度私の体内(なか)で更に増大してゆく。

どちらが誘ったのかは判らぬ。どちらが身を預けたのかも判らなかった。・・・人間ほど、己の子孫を遺す事を()じる生き物は存在しない。




孤児院からこの研究所へ通うのに、そう骨は折れなかった。併し奥まった処に研究所は位置していた為、汽車を降りてからの急勾配の坂道が長かった。

(むし)ろ住んでいた前の家からサナトリウムに母に逢いに行く(まで)―――詰りこの研究所に到る道程の方が、遙かに遠かった様に思える。そうして長らく、私は自らと同じ民族に会った事は無かった。否、人種的には同一であったが、陽光さえも屈する様な、月でさえもする反射をこの眼と髪は返さない、凡てを呑み込む様な黒を、その者達は持ってはいない。だから陽の下に出ると、彼等は目を暗ませ眩しがる。

だが我々は陽光を嫌っていた。眩しくはないが、取り込むばかりのこの身体(ブラック‐ホール)では、体温が上がり熱射病になる確率が極めて高くなる。汗腺の働きより先に熱の吸収が速すぎて、人間ヒート‐アイランドの状態になってしまう。


故に室内に籠る事が多く、風通しを良くした中で勉強するのが主だった。民族の数も南州みたく爆発的に増える訳でも無く、半ば隠遁生活の様な日々を送りながら、一方でホール‐アイ(かしこい瞳)と眼をつけられていた事に気がついたのは、この国に国民徴用令が発令された際、私の身柄が一時此方で拘束されてだった。



―――弱小民族が生き残る為には、早い内に次世代を育てておかねばならない。



危機感を懐いていたのだと、私はそう思う事にして上着を羽織った。併しこの細胞の中には、之まで起った出来事・感情・罪悪の情報が事実のみ組み込まれていて、細胞がプログラム(アポトーシス)に()って死を迎えても、海馬や前頭前皮質が分担して情報を貯蔵している。

誤魔化すのならば、海馬前頭皮質を破壊しなければならない。

私は自分が()える故、己の罪悪の想いが見透かされてしまうのではと思い戦々兢々とした。併し女はくせのある漆黒(ユーメラニン)の長い髪を耳に掛け―――微笑(わら)った。

私はその微笑みを忘れられなくなった。海馬に大脳皮質の何かが結合したのだと思う。この時の脳の働きを自身で視る事は無いが、相手の脳の海馬(つくり)を視て、どうせ憶えていないだろうと、高を括ったりもした。


併し翌日、翌々日と、その先を過ぎても「あの時の事を忘れられない」と電話が頻繁に掛ってきた。私は孤児院に居られなくなり、夜中を過ぎても帰らなくなった。連泊も珍しくは無くなっていた。


私は虜となっていたのかも知れぬ。あれだけ海馬が傷ついていながら、何故特定の記憶のみは色褪せずに保てているのか。その記憶は一体、どの機能が“択ぶ”のか。其は心的外傷に於いても謂えた。


要素は他にも様々あった。ドーパミンとノルアドレナリンの矛盾から既にとり憑かれていたのかも知れぬ。或いは、私が父でない証明を何処かで見つけたかったのかも知れない。原子の視える私ならば、母の結核を治せる薬を早く創り出せたかも知れなかった。




私は徐々に、彼女の、また父のしていた研究内容に傾倒していった。とは謂えど、弟の脳性麻痺には甚だ触れたくないものがあり、医師と共同する訳にもいかなかった為医学に関しては素人も同然だった。訊きに行こうにもまだ関係者ではなく、無条件に嫌われていたので首を突っ込めない状況にあった。器具が私の眼に触れない様に、彼等は布を重ねて、避ける様に歩いて()った。重なる布は最初はそうでもなかったが増え、最早二段目・一段目は不要だった。

私の眼には繊維しか視えない。私は疑問に思いながら、擦れ違う彼等の青斑核に眼を遣る。ノルアドレナリンが投射する一方で叉、ドーパミンが基底核より分泌されていた。


出入禁止にされては困る。だから臨床を追究する事はやめてくれ。・・・そう、ユイアンは云った。

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