父の研究
ガシャッ!
『ごほ・・・っ・・・・・・!!』
父が倒れたと院長から伝えられた。その時、私は信じる事も出来ず、故に事態を呑み込む事も出来なかった。
父の行方を聞かされておらず、杳として知れなかった私は兄弟諸共捨てられたものだと思っていた。母の生前から父は何処かの病院だか、研究所かに閉じ籠っており、家に帰って来たのは母が死ぬ数ヶ月前。其も夜晩くだった。故に養い手がいなくなった為、孤児院に措いて往ったのかと思っていた。
院長に連れられ訪れた処は、例のあのサナトリウムだった。母が燐灰石となるその時まで、二度と逢わせては貰えなかった場処。
彼処にて、母の分子はバラバラに散ってしまった。
一度中に入れば二度と出られぬ事は、皮下のヒスタミンが異常な程に感じ取っている。
私は立ち尽していた。やがてあの時と同じ様に、煙突から今度は父の成分が、煙となって空中を彷徨う。煙突の淵に永らくこびりついていた母の粒子が、父の成分と結合して漸く全て宙へと離れる。母は父を俟っていたのだろうか。ワルツを踊る様にくるくると、螺旋を描いてDNAを創る。
愛し合っていたのだ。
気がつくと私は泣いていた。水分が抜けてゆく。ふらつく私を院長が支え、今度は彼が宛ら父の如く
「―――泣こう。悲しい時は、泣くしか無い。思い切り泣こう。明日笑って過せる様に」
・・・そう言って、私を擁いて彼は泣いた。逆に私は涙が止る。
―――新たな死を、予測していた
遺品を回収する為に、初めて父の職場へ行った。サナトリウムに隣接した附属病院内の研究施設で、入室する際には白衣着用と消毒が必須であると劣化した貼り紙に書いていた。マスクも箱で用意されていたが、埃を被った箱の中身はぎっしりと詰っていた。
キィ―――・・・
中には誰も居なくなってしまった。だから勝手に入って良いらしい。埃っぽい研究室は、確かに長く長い間、使われていない様だった。
―――父は、いつの頃から結核を患っていたのだろうか
私は父の職種を知らなかった。併し、サナトリウムの隣で働いていたのなら―――・・・父は、母を、見舞えただろうか
其処にはもう、誰も居ない筈であった。併し奥へ差し掛るとすぐに
「―――博士の子?」
―――呼び止められて、振り返る。白く変色しつつある黒い机の席につき、白衣の女が泣き腫らした顔の表情筋を上げていた。
「・・・・・・」
私は答えない。其がくせとなっていた。女は其を責めなかった。眼輪を使わず、専ら大頬骨筋だけの偽の微笑をつくると
「・・・・・・君、父親そっくりだ」
――――そう言って、叉、泣いた。
父は障碍に関連した脳の研究をしていた様だ。そののち――母が隔離された辺りか。研究の期日は純粋な医学書に記入されている事の方が多くなっていた。
父は医師では無い。故に臨床からは外されていた。知識が豊富にありながらも医師と話をする事は叶わず、立ち合う事も許されてはいなかった。この立場に立って知ったが・・・この国の医師と研究者は、同じ行為をしていながら対立状態にある。
治療を後回しにされる事に、父は多分に苦しんだ様だ。治療薬がストレプトマイシン単体であった事にも不満が残っていた様で、実験用マウスに結核菌を注射し、許される限りの化学物質を注入して効果を調べるという医師の真似事も遣っていた。
「耳が聴こえづらい」「貧血を起している。エリスロポエチンの不足か」という愚痴紛いの研究ノートも出てきた。始めの内は一つ一つ、何を示しているのか判らなかったが、段々と解る様になっていった・・・ストレプトマイシンは内耳神経と腎臓に毒性を持つが故、副作用として難聴や腎障害が出る。赤血球産生促進ホルモンであるエリスロポエチンは9割方腎臓で生成される為、阻害されて貧血になったのだろう。
(・・・・・・)
内耳神経への障害を発見したのは、恐らく父の方だろう。脳神経科学は医師以上に―――・・・我々の分野だ。
「―――莫迦だね・・・君の父さんは・・・・・治そうとして・・・命奪られてどうするのさ」
・・・やはり、父も母に逢えなかった可能性が高い。
・・・併し、父は一つ、間違えている。母の方面では無く、どちらかと謂うと弟寄りだ。現実に見せては貰えなく、この地域とこの時代では画像も手に入らないから仕方が無いと謂えば仕方が無い。
――――眼の前に、父の作成した脳の模型が在る。
「・・・・・・」
私は模型の小脳部分を手に取る。総てが合成樹脂で出来ている為、同質の高分子が邪魔をして見つけづらかった。せめて、プルキンエ細胞と深部小脳核神経細胞の細胞質をこの小脳部分に塗っておけば見つけ易いのだが。私は標本用にホルマリンとアルコールに浮いたマウスを見つめ思う。小脳の成分はヒトもマウスも変らない。
―――私は目を凝らす。
之は恐らく・・・小脳の位置が違う。その上・・・逆さだ。
私は盲者の如く、指先でなぞって脳脚に当る窪みを探す。大脳に触れるが、端に脳脚へ繋がる窪みは無かった。
屹度父は、小脳と大脳は繋がっていないと解釈していたのだろう。
小脳を脳幹の後ろに吊るす。小脳と脳幹の間にはまだ挟まれた室が在ったが、フックは直背に設置してあった。後頭葉にも食み出す。脳室の存在を、想定していないのだ。
併し、資料が無い中で、弟の脳性麻痺を小脳に求めたのは凄いと想う。小脳が損傷すればどうなるか、其は私も知らない。只、この眼で視る限り弟の小脳は、他のヒトよりも異質だ。
「君、分るんだ。流石・・・博士の子」
父は私の様に、原子や細胞は視えないだろう
女は私に父の影を重ねていた。
基底核からはドーパミンが多く分泌され、恍惚としている。
同時に、ドーパミンと逆の性質を持つノルアドレナリンが青斑核より投射されている。
・・・この矛盾。興味深い。




