私の弟
弟は障碍を持っていた。
自分では立つ事も坐る事も出来ず、一日の大半を寝て過した。身体の何処が悪いという訳では無かったから、普通に扱っても大丈夫ではある。只、自分では動けないだけだった。
「・・・・・・美味しい?」
預けられた孤児院で、弟はとてもよくして貰えた。院長が、障碍に深い理解があったからだ。その男の院長は、長だからと偉ぶる事もせず、自らのその手で弟の口に食事を運ぶ。弟は杳い眼をほっそりとさせて、与えられた食事を喉に通した。
その孤児院の院長は、父の知り合いという事であった。
私は最初、何故この孤児院に預けられたのかわからずにいた。父は私の手を引き弟をその身に抱えて、足早にあの家を去った後すぐにこの孤児院へ来、私達を置いて往った。其からぱったり、父と会う事は無くなった。
疑惑の眼をする私の意を汲んだのか、院長は父は母が死んだ事に由り対応に追われ、なかなかあの家には帰る事が出来なくなったので私達を預る事になったのだ、と言った。父の仕事が一段落して新しい家が見つかるまで此処に居よう、と。
此処には沢山の子供がいるが、不自由はさせないから。院長はそう言って私達を招き入れた。弟を肩に抱いて。
そうして毎日、私の代りに、院長は甲斐甲斐しく弟の世話をした
「・・・どれ。零したか。少し食べ難かったかな?リサ、布巾を持って来てくれ」
確かに不自由をする事は無かった。私のたったひとりの弟を、放っておくなんて唯の一度も無かったし、弟の世話を私がするよう口を酸っぱくして言われる事も無かった。何よりも、私が弟に対する差別を心の奥底で懐いている事を、唯の一度も非難する事は無かった。
「はい、お父さん」
細君が奥より布巾を持って来る。弟の口許に細君が宛がうと、二人は睦まじく微笑み合った。
「だいぶ食べる様になったよ」
その言葉を聞くと細君は、まるで我が事の様に喜んだ。
「まぁ・・・!其は好かった・・・やっと・・・・立ち直れたのでしょうか」
「そうだといいな」
まるで本物の家族の様に、仲睦まじく、弟は幸せそうに目をくりくりとさせていた。その眼には光が無い。
だが“光”が無いのは私も同じだ
――――私は弟を愛する事が出来ない。昔はもっと、愛せていた様な気がするのに。
母の骨壺を見て笑った、弟の顔を忘れる事が出来ない。
状況の理解が出来ていないだけなのに。其が障碍由来である事を、私は理解している筈だ。
なのに、障碍と弟を切り離して考える事が出来ない。
・・・たった一度、笑うべきでない時に笑った其だけの事が―――私の逆鱗に、触れてしまった
私は弟を、何故だか許せない
空間には何かしら物質があり、其等は集合する事に依って物体を成している。
物体を構成していなくとも、酸素・窒素・水蒸気は空間を常に漂っており、空間総てに於いてみっしりと、原子元素は敷き詰められている。
私の眼にはいつも、その原子元素が視えていた。委しい事はよくわからないが、流動的な液体の水を、私はさらさらしていると感じた事が無い。二つの珠に挟まれた、叉別の種類の丸い粒。その集合体。さらさらでなくばらばらと、流れてゆくのではなく零れ落ちてゆく―――だから私は水を欲した事は無いし、食物も出来る限り入れたくはなかった。丸い珠の集合を見て、誰がその様なものを食べたいと思おう。之迄は父に無理矢理にでも食べさせられていたから仕方無く食べていたが、現在は栄養を入れる理由すら無い。
「・・・まだ、あの子の方は、立ち直れていないみたいですね・・・・・・」
「あの子は母想いだったからな・・・敏感な子でもあったから、猶更事実を受け入れる事が難しいのだろう」
彼等の眼から見れば、私は脱け殻だったのだろう。摂食行動を一切せずに只ぼんやりと空間ばかりを見つめる私を、寧ろ心配している様でさえあった。併し、私は彼等のそういった気持ちを汲み取る事が出来ない。私にとって“心”とは・・・脳に在るにしろ心臓に存在するにしろ、炭素や窒素・水素や酸素等、空中に浮んでいる物質とそう変らない代物だ。
院長の脳内に、一際圧し出す鉄の塊が視える。
(・・・・・・もうすぐ、、、)
この様にして、私には同属である人間でさえ、単なる物質にしか視えなかった。私達によくしてくれる彼等でさえ、原子の珠の連なりとしか判らない。弟でさえもそうだった。だから弟の脳味噌は、私の見る他の人とは造りが違う。そうである事は知っていて、だから他の人と違うのだという結論は随分以前より出していた。
――――なのに。
水の流れる余地など無い。水だって実際流れてなどいない。空間は隙間無く球が詰め込まれ、常に私の視界を阻む。
物体の“向う側”が視えない―――
私は手探りで何かを捜す
「―――ねぇ、あなた達、兄弟?」
手を伸ばし何かにもがいていた時、背後から声を掛けられた。
・・・振り返る。少女の身体を成した物体が、私と、そして車椅子に寄り掛る弟を、交互に見ていた。
「やっぱり、そうなんだ」
少女は喜ぶ様な声で言った。
「だって、あなた達、遣ってる事が同じなんだもん」
その言葉に、私は弟の方を見る。弟は私と同じ様に手を伸ばし、あーあーと声を唸らせながら宙を仰いでいた。
弟にも、私と同じものが視えているのだろうか。
「貌もそっくりだね。でも弟くんの方がちょっぴりかわいいかな。少し目が大きいんだよね」
初めて知った事だった。弟の眼が大きい事も、其をかわいいと思う事も。
「あなたのお父さん、見たよ。あなたはお父さん似なんだね。かっこよかったなぁ。なら弟くんは、お母さん似かな」
少女が一方的に喋る。私は頭の中で答える。確かに、弟は母の遺伝子の方を多分に受け継いでいる。
私については知りもしない。鏡で自分の顔を見る事も無かった。自分の原子を・・・見たくなどない。
「弟くん、名前は何というの?」
「・・・・・・」
私は答えない。少女は其を気にする素振りを見せず私を無視して、窓際で四肢を伸ばしている弟の許へ行った。
そして、こう呟いた。
「・・・うん、やっぱりあなた達、似てるよ。瞳が真黒で、空間に目を泳がせてる様なとこがそこはかとなく似てる―――・・・
やっぱり、兄弟なんだね」
窒素と酸素を透し、声が震えた。
只管に伸ばす弟の手を少女が触れる。弟は驚いた様で、目を更に大きくして少女の方を見た。
力の脱けた弟の腕を、少女は支えて自らの頬を手に寄せる。少女は嬉しそうに言った。
「こんにちは、初めまして。私はアスカ。アスカです。よろしくね」
そう言って弟の腕をゆっくりと揺らす。弟はやがて目を細め、落ち着いた様子で手を揺られていた。微笑みを少女に向ける。
あの時と同じ笑顔で。
弟はいつも、こう遣って人に笑顔を向けていた。人が来た時、人と時間を共に過す時、弟は笑顔を絶やす事が無い。
其は弟なりの挨拶の様で。
「笑った・・・・・・!」
そうして周りの人間は喜ぶ。今思えば弟は、私達の潤滑油で、且つ、きちんと学習をしていたのだ。




