聖女を解雇されたのでタルト屋さんを始めました
黒い魔女に、おばけに、骸骨の衣装。ガラスの窓越しに、お化けに仮装した子どもたちの姿が見える。外は薄暗くなってきて、歩くたびに、カボチャのランタンの光が左右に揺れる。
お化けを怖がる準備は万全だ。私は椅子から立ち上がった。
チリリン!
ドアに取り付けられたベルが鳴ると、小さなお化けたちが入ってきた。
「トリック・オア・トリート!」
「お菓子をくれないといたずらするぞ!」
子どもたちはバスケットを手に持って、お菓子をたんまりもらう気満々だ。
「うわわわ! 怖い怖い! お菓子を渡すから、いたずらしないで!」
オーバーリアクションに反応して、嬉しそうに笑う子どもたちに紙袋を渡していく。男の子は紙袋に鼻を近づけてクンクンとさせた。
「この甘いにおいは何?」
「マドレーヌだよ。プレーンのマドレーヌに、チョコマドレーヌに、オレンジの入ったマドレーヌ」
「マドレーヌ! やったー!」
「ありがとう! おねえちゃんのマドレーヌ好き!」
笑顔を弾けさせた女の子に、私も顔がほころぶ。
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
女の子の頭にポンと手を乗せると、彼女は「えへへっ」と可愛らしい声をあげた。
お菓子を受け取った子どもたちは、次なる獲物を求めて集団移動を始める。
賑やかだった店内に静けさがやってきた。
さて。子どもたちが帰ったことだし、そろそろお店を閉めようかな。看板商品のタルトはお昼前に売り切れて、陳列棚は空っぽ。お客さんはもう来ないかな。
子どもは好きだ。聖女の慈善事業の一環として、修道院に預けられている子どもたちに会った。聖女は忙しかったけれど、そのときは子どもたちに癒された。
今はもう、聖女の肩書きはない。タルト屋さんとして第二の人生を歩んでいる。
上司から能力が劣っていると言われて、聖女を解雇させられた。悔しかった。必死に頑張っていた仕事ぶりが認められなかったことよりも、国を一緒に守っていた仲間を失ってしまうことが寂しい。聖女に選ばれたのだから、一生を国に捧げようとしていたのに。
ギルドのパーティの回復メンバーなら充分な治癒能力だった。それなのに、国に一人しかいない聖女に祭り上げられたのが間違いだったんだ。そう思いたい。
「回復速度が追いついていない。お前程度の能力なら、他にいくらでもいる」
上司の言葉に言い返せなかった。悔しいけれど、言われたことは当たっていたから。
人に回復魔法をかけるのは平均的。同じ場所にいる人たちをパーっと全回復させるような、派手なザ・聖女の能力はない。一人一人の回復にはある程度時間がかかる。まだ回復に時間がかかるのかよ、という視線も浴びた。全力でやっていたけれど、私の魔法は即効性がないのだ。国は並外れた能力を持つ聖女という存在がほしかっただけで、私には聖女の仕事は向いていなかった。
こうなったら、好きなことを仕事にする!
趣味の域を越えつつあるフルーツタルトとマドレーヌ。この機会にお店を開いて、お客さんに喜んでもらいたい。
聖女の仕事に一生を捧げようとしていたことが間違いだったと思えるくらい、第二のタルト屋さんの生活を充実させる。他に代えがいくらでもいる仕事ではなく、私だからこそできる仕事をするんだ。
一大決心して始めたタルト屋さん。大きく宣伝もしていないのに、ありがたいことに噂が噂を呼んで繁盛している。
元気になれるお菓子を売るお店として。
特に、治癒魔法を込めたわけじゃないのに、私の作るお菓子には疲労回復の力が付与されていることに気づいた。出来上がったお菓子がキラキラと光っているのがわかった。元聖女の能力かもしれない。
意識して食べ物に治癒魔法を込めることはできるけれど、楽しく作っていて魔力の消耗がないのに疲労回復の効果が付与されるとは、我ながら珍しいと思う。
店の外は真っ暗になった。のぼりを片づけていると、上から声が降ってきた。
「あれ、お店はもう閉まる?」
「すみません、もうタルトは売り切れてしまいまして――」
顔を上げて青年の顔を見た瞬間に、息を詰まらせた。
聖女の能力の一つで、いろいろなものが視える。彼が人ならざるものだと。
黒髪に茶色の目、背は高くて、美形と呼ばれる分類だろう。フロックコートにパンツスタイルでかっちり目な服装だ。人に上手く化けていて、正体がわからない。
吸血鬼か、悪魔か、淫魔か。どれにしても、人間が近寄っていいことはない。
ハロウィンの日の夜に本物の魔物に会ってしまうなんて――。
青年は私の戸惑いに気づくことはない。聖女の職業病のせいか、表情を封じ込めることに長けてしまった。
戦地で治るか治らないかギリギリな人たちの前で、人々の光でいないといけないのに、泣いたり慌てたりすることは許されなかったから。
「子どもたちが美味しそうな香りをさせて歩いていたから、このお店のお菓子だと聞いて」
子どもたち! 怪しいお兄さんと話をしたら危ないでしょう! 正体がどんな魔物か不明だけど、食べられちゃう! ま、見た目が魔物だとわからないから、仕方ないけれど……。
そんな心の声のツッコミは胸に引っ込めて、平常心を取り繕う。
「あの……よかったら、マドレーヌいかがですか? 余りものですけれど」
「え! いいのか?」
嬉しそうな顔になった。甘いお菓子が好きなのかな?
「ハロウィン用で多めに作っていたんですよ。どうぞ」
「ありがとう。そこで食べて行っても?」
「いいですよ」
店内飲食用の丸テーブルに案内した。
よほどお腹が減っていたのだろうか。テーブルに座るや否や、八重歯の長い歯でサクッと音をさせて食べた。
「うまい」
「よかったです」
「それに……力がみなぎってくるような気がする」
青年は私をチラッと見た。まるで私が元聖女だと見透かされているようだ。
彼の周囲に放つ魔力はみなぎっているような気がする、じゃなくて、いくらか増幅されているのを感じた。
紙袋にはいくつかマドレーヌが入っていたはずなのに、あっという間に食べ終わった。胸ポケットから取り出した白いハンカチで口を拭いている。
魔物らしくない、と言ったら偏見だろうか。品位があると思わなかった。
「つい、夢中になって食べてしまった。優しい味だった。売り切れてしまったというタルトも美味しいんだろうな」
「ありがとうございます」
魔物の彼に言われていなかったら素直に喜べたのにな。何か裏があるのでは、と疑ってしまう。裏とは。
まさか、私、食べられちゃうの!? 油断させて、怯んだところを襲われてしまうとか。
脳内でパニックを起こしかけても、会話は進んでいく。
「いくらだ」
「お代はいりません。元々売り物じゃなかったので、プレゼントします」
発言にも神経を使う。彼の機嫌を損ねさせないよう必死だ。
このままお帰りいただけば何事もなく切り抜けられる……と安心した次の瞬間、次のセリフで打ち砕かれた。
「そうか。今度はタルトを買いに来るよ」
「また……ぜひよろしくお願いします」
そう言うしかなかった。間違ってもむやみに断って怒りに触れさせるわけにはいかない。
私の内心などは知らずに、青年は足取り軽く店から出て行った。
* * *
チリリン!
翌日の三時のおやつの時間。魔物の青年がまたやってきた。
またって、スパンが早すぎる……!
やたら目立って、女性客から熱い視線を浴びた。
「どちらの貴族の方かしら」
「タルトを選ぶときの笑顔はギャップがあるわ」
毎日孫におやつを買って行くおばあさんは「じいさんも昔はこれくらい格好良かった」と過去を思い出して頬を染めている。それでも彼は人間ではない。
タルトを見て、それはもう、屈託のない笑顔を浮かべる。
「家に持ち帰るまで待ちきれない。食べて行っても?」
「お席も空いていますので、大丈夫ですよ」
丸テーブルに案内して、タルトとコーヒーをセットで並べる。彼が選んだのはイチゴとベリーのタルト。このお店の看板商品だ。
彼はフォークで一口サイズに切って食べた。噛み締めるように数回咀嚼すると、嬉しそうに瞳をキラキラとさせた。
「うまい。頬っぺたが落ちるとはこのことを言うんだな……甘すぎないのもいいな」
「あ、ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」
聖女だったときは治してもらって当たり前。お礼を言われるのは数少なかった。それが今、目の前で喜んでもらえて嬉しい。
あまりに笑顔が裏表なくて、魔物だと身構えていた緊張が解けそうになる。……ハッ、油断しちゃダメ!
「うまかった。また買いに来るよ」
「ありがとうございます」
今度は来るもの拒まずというわけにもいかない。何か起こってからでは遅い。魔物は魔物の国にお帰りいただかなくては。
* * *
「なんかここ、空気よどんでねぇか?」
そう言ってお店に現れたのは、私の兄さま。私と同じ、茶髪に茶色の瞳というありふれた色なのに、ときには異性から告白されることもあるらしい。
「力の強い魔物が、私の作るお菓子を好きになってしまったみたいで……」
「そんなことが!? 一人にしておくのは危ないな。俺が店に立って、見張ってやろうか?」
心配はごもっとも。だけど、私は首を振った。
「変に刺激したくないの。何回も来たら、お菓子に飽きてくれるかもしれないわ」
「ミールナのお菓子に飽きるはずがないだろう!」
シスコン兄作動。そんなに可愛い容姿じゃないのに、この兄さまだけは可愛い可愛いと言ってくれる。
「そう言うのは兄さんだけだよ。飽きさせるために、同じタルトだけおすすめしてみるとか……」
「どのタルトも美味しいだろ?」
「毒物を入れるのは、タルトの神様に嫌われる気がして却下。それに、人間の毒物が魔物に効くかはわからないわ」
「ああ、なんてミールナは慈悲深いんだ!」
兄さまと話していると、自分が可愛くて、慈悲深くまるで聖女だと錯覚しそうになる。うん。彼の言葉を鵜呑みにしてはいけない。身内フィルターがかかっているからだ。
「タルトを飽きさせるのも、毒を盛るのも現実的じゃないわ」
「気休めかもしれないが、入り口に退魔の魔法陣を書いておこう」
兄さまの本業は退魔士。兄妹そろって光属性の魔法能力に秀でていた。
兄さまは気休め程度だと言っているけれど、効果は絶大で、魔物除けのお守りは国から注文が入るくらいだ。
指先に魔力を込めて、扉に魔法陣を書き記す。
「ま、こんなもんかな」
魔法陣は白く光ると、透明に戻った。準備完了。魔物が触れると弾かれるようになる。
「ありがとう、兄さん」
「どんな魔物かわからないが、気をつけろ。俺も仕事の合間に顔を出すようにする」
「わかったわ」
兄さまの目を見て、しっかりと頷いた。
* * *
町の役人が体力を回復させるタルトがあるという噂を聞きつけてやってきた。
店内に入った役人は、ツカツカと黒革のブーツの音を立てて、商品のタルトを見ることなく私の前に立った。
「この店の商品、全部もらおうか」
「全部、ですか……」
陳列棚をチラリと見た。タルトはまだあるけれど、午前のうちに売り切れてしまったらもう店を閉めないといけないな。今から作ったとしても、おやつの時間にも間に合わない。
午後に散歩がてら毎日買いに来てくれるおばあさん。売り切れだとわかったら悲しむだろうな。あの笑顔がチャーミングなおばあさんを悲しませるわけにはいかない。もしおばあさんが来たら、朝に作った試作品をプレゼントしようと決めた。
ふつふつと浮かび上がる不安を押し殺して、顔を上げた。
「このお店の商品、タルトとマドレーヌの全てでよろしいですか?」
「そうだ」
「わかりました。――では、お会計をさせていただきますね」
そろばんを弾こうとしたら、役人は不服げに片眉を曲げた。
「会計は必要ない。俺たちは国のために命を削っているんだ、タダでもらうのは当然だろう。売れ残りをもらってやろうと言ってるんだ。ありがたいと思え」
「え……?」
思わず聞き返してしまった。さも当然のように言われ、耳を疑う。
「おい、言っている意味がわからないのか?」
わかりますって。あなたが無茶苦茶なことを言っていることを。堂々と役人の地位を使って、無銭飲食しようとしてる悪徳役人!
この役人さまは税金だけでなく、売り物まで市民から搾取したいらしい。
朝早く起きて、手間ひまかけてお客さんの笑顔を想像しながら作ったタルト。どうせタダで食べてもらうのなら、こんなお役人よりも、うまいと言って食べてくれる魔物の方が遥かに良い! あ、魔物さんはきっちりお金も払ってくれてるし……!
私はそろばんからそっと手を離した。
「あなたさまにお渡しできる商品はありません」
「なに!?」
きっぱりと断った。
私がわかりました、と素直に引き下がると思っていたのだろう。役人の顔が引き攣っている。
「国から無償で注文を承るには、王家の印鑑が押された正式な手紙をお持ちくださいませ。そういうことでしたら喜んでお受けいたします」
こんな下っ端の役人のために、王家の印鑑が押されるとは思えないけれど。心の中でアッカンベーをする。
「俺の言うことを聞かないとは……ただじゃ済まさないからな!」
ダサい捨て台詞を吐いて出て行った。誰に聞いても役人の方が常識知らずなのは明らかだ。役人の言い分が通ってしまったら、世の中の商売人を敵に回すことになる。
「ムカついた! 売れ残りって、午後にもお客さんが来るのに決めつけないで!」
思いの丈を叫ぶ。店内にお客さんはいなかった。あースッキリした!
冷静に対処できた自分を褒めてあげたい。
私以外は店に人がいないはずなのに、パチパチと拍手が鳴った。
誰? 入り口の鐘は鳴らなかった。
近くにお化けがいるような気がして、目をぎゅっと閉じた。
恐る恐る薄く目を開けると、魔物の青年がそこにいた。
「買おうとしたタルトが奪われなくてよかったよ」
「……もしかしてさっき言ったこと聞いてました?」
「元気な叫び声だったな。そんな風に叫ぶなんて意外だったな」
バッチリ聞かれていた。恥ずかしい。カッと頬が熱くなってきた。
それよりも気になるのは。
「あなたはどうしてここに」
兄さまの魔法陣の効果はあった? 店の中に入れないはずなのに。
入り口を見た私の視線だけで言わんとしたことを理解したようだった。
「ああ、入り口の魔法陣? 触れるとピリッとするくらいで、俺には効果がないな」
手を開いて見せた。指先にが少し赤くなっていただけだ。
兄さまの魔法陣は中級の魔物程度なら効果は抜群で、上級でも嫌がるくらいなのに。この魔物さんは一体何者?
「さっきは助けようとしたが、自分で追い払ったな。さすが元聖女」
私を助けようとして店に入ったの?
それよりも気になるのは、聞き捨てならない最後の一言。
「私が聖女だと知っていたの……?」
「魔物討伐隊のメンバーは把握しているからな。今の聖女は別の人になっていると聞いているが」
魔物討伐隊。勇者に騎士、魔法使いそして聖女を筆頭に構成されている。
兄さまの魔法陣が効かないこと、討伐隊のメンバーを把握していること、そして私が聖女だと知っていること。
魔物の青年からの魔力は同等以上のものを感じた。あまりに力が大き過ぎて、魔力の総量を測れない。
「もしかして、あなたは……」
「魔族の長だ。人間からは魔王と呼ばれている」
至極当たり前のように言った。予想は的中。討伐隊が何年もかけても倒せなかった魔物の親玉がここにいる。心臓がバクバクとしてきて、驚きが隠せない。
「魔王さまがこんなところにいていいんですか?」
「優秀な部下たちが働いているからいい。それに……俺が魔力を使うと均衡を保てなくなる」
「均衡って?」
「手加減してやってるんだ。うっかり力を使いすぎと、町が吹き飛ぶからな。魔族が人間の茶番に付き合ってやっている」
「茶番って……ひどい言い方じゃないですか?」
「ひどいだと?」
形の良い眉毛がキュッと上がって睨まれた。
圧力に負けて怯みそうになる。綺麗な顔で凄みが半端ない。でも、言葉を曲げるわけにもいかない。
「魔族に家族を殺された人もいます。平和のために、命懸けで戦っているんです!」
魔王に直談判しても意味がないとはわかっていた。こんな一言で戦いが終わるのなら、どれだけいいだろう。
国のために送り出された討伐隊。恋人や家族がいる人、命を失う人もいる。人の命を軽く見た言い方が許せなかった。
「平和、か……。お前たちと同じように、こちらも平和のために戦っている。そもそも、我々の土地から、魔族を追い払ったのは人間の方だ。俺たちの故郷は奪われ、未開の地へ追いやられた。それなのに、魔物討伐などと言って魔物を殲滅したいらしい。元聖女さまは人間と魔族のどちらが悪いと思う?」
「え――?」
私たちの住んでいるところが魔族の元々の故郷だというのは知らなかった。魔族討伐隊にさえ明らかにされていない国のトップシークレットなのだろう。知ってしまうと魔族側に傾く人も出てくる可能性があるから。
「……悪いのは、人間の方です。魔物だからって、自分たちと見た目が違うからって、差別を始めた人間の方が悪いです」
故郷が奪われたときは沢山の血と涙が流れただろう。それを思うと心が痛んだ。
魔王は意外そうな顔をした。
「わかってくれるのか」
「もちろんです。魔王さまも故郷があったはずなのに、帰れないと思うと悲しいです」
話を知ってしまった以上、魔族と人間のどちらの味方になればいいのだろう。私にも兄や両親がいる。でも、魔族は悪くない。どちらの味方になるのかと問われたら、三日三晩悩んでも答えは出ないような気がした。
「あの……人間に奪われた土地を取り戻そうとはしないのですか?」
「しないな。俺は無駄な血が流れるのは好まない。故郷を取り戻そうという急進派もいるが――俺が魔王である限り、押さえ込むつもりだ」
魔王からは相当な覚悟を感じた。
魔族の地に討伐隊などの人間が足を踏み入れたら、手加減をしつつ追い払う。戦いが大規模に発展しないように。
「魔族と人間が共存できたらいいのに」
「人間の方から共存の話を持ちかけられて、最終的に裏切られた。一度信頼が崩れた以上、そんな甘い話は信じない」
「そっかぁ……」
魔族には人間に根強い不信感が残っていた。
チリリン!
「いらっしゃいませ……え?」
元気よく挨拶したら、聖女していたときの上司がいました。
急に何!? タルト屋さん経営していると突き止めたの? もう関わりたくなかったのに。あーやだ、怖い怖い。
兄さま、魔族避けの魔法陣じゃなくて、本当に必要だったのはお役人避けの魔法陣でした……!
昨日来た買い占めの役人といい、かつての上司といい、役人にはいい思い出がない。
「どんなご用でしょうか?」
サッと言い直して、顔を伺った。
上司は難しい顔をして、お菓子を買いに来たようには見えない。私にはわかる。お菓子を心からほしい人は、心から笑顔になることを。
「単刀直入に言う。聖女の補佐として戻ってきてくれないか」
「聖女の補佐? 何かあったのでしょうか」
自分から追い払っておいて、今度は戻ってきてほしいと言う。しかも補佐。私がホイホイ戻りますと言うとでも思っているの? ほんと虫が良すぎる。
「新しい聖女は修道院巡りや、お守りの祈祷をめんどくさがってやらないのだ。地味な作業は嫌だと。民衆からはクレームが出ている。お前の方が仕事を多岐に渡ってこなしていたことに気づいたんだ」
だからどうした。クレームが出ていることは今の私には関係ない。
「私の程度の能力は、いくらでもいると言っていましたよね? あいにくこのお店が忙しいんです。他を当たっていただけますか?」
にこりと笑った。何も言わせないと決意を込めて。
下手に出れば、喜んで戻ってくると思っていたのだろう。かつての上司は面食らった顔をしていた。
「お前の能力を見込んで言っているんだ。何なら、聖女になれるよう、上に掛け合ってもいい」
「能力が劣っていると言っておいて、今さら能力を見込んで? 笑わせないでほしいわ! お断りさせていただきます。聖女の補佐にも、聖女にもなりたくありません」
スッキリした! ずっと胸の中に煮え立っていた思いがようやく言えた。
「お話は以上でしょうか、店の外でお待ちのお客さまもいますので、お引き取りくださいませ」
「よく言ったぞ、ねーちゃん!」
上司が店から出て行くと、子どもが走り寄ってくる。
「おねえちゃんが、お店をやめるんじゃないかと思って心配になったよ」
「お店はやめないよ。大丈夫だよ」
女の子が抱きついてきて、頭をそっと撫でる。大丈夫、大丈夫と。
タルトが残り少なくなった。かつての上司の対応に疲れたから、今日は早めにお店を閉めかな。
チリリン!
入り口のベルがなって、魔王さまがやってくる。店の中にお客さんがいなくなったのを見計らって来たのだろうか。
魔物除けの魔法陣は撤去してもらった。兄さまは不思議な顔をしていたけれど、このお菓子好きな魔王さまには必要ない。魔物よりもお役人の方が私には害がある。
「このにおい。討伐隊のやつ……男が来たか?」
魔王さまは不快そうな顔をして聞いてくる。
「かつての上司からね、聖女に戻らないかって誘われたけれど、断ったわ。このタルト屋さんが大事なんだもの」
補佐にならないか云々のやりとりは、思い出してもイラつくから省く。
「そいつがこの地に足を踏み入れないように、シールドを張ってやろうか?」
魔王さま直々にシールド。とてつもない効果があるに違いない。
「来たら追い払うわ。それが、魔王さまのやり方でしょ?」
「お前がそう言うならいいが……」
それでも不服顔。
「この話はおしまい。タルト食べるでしょ?」
「そうだな。もらおうか」
桃のタルト、シャインマスカットのタルト。タルトを見るだけで、魔王さまの機嫌が戻る。
うまい、と言いながら夢中になって食べる彼は、魔族の長にはとても見えない。
「今度あいつが来て、困ったら俺を呼んでくれ」
帰り際にそう言って渡されたのは、小さな白い笛。先端に紐が通されて、首に掛けられるようになっている。
「う、うん……」
真剣な目をされたから断れなかった。笛からは微かに魔力を感じる。手に馴染んで、嫌ではない。
「どこにいても俺の耳に届く。俺がいることを忘れるな」
「ありがとう」
素直に受け取っておくことにした。首にかけて、服の中に入れ込んだ。
魔王さまが喜んだようで、嬉しそうな顔がタルトを食べるときと少し違ってあれ? と気になったけれど、ただのお守りだと思うことにした。
まさか、その笛が魔王さまの幼少期の生え変わる前の角からできていて、最愛の人に渡すものであるとは、そのときは知らなかったけれど。