修作
別に飛び込んだって良かったんだ。
不満があるわけじゃない。学校だってそこそこにやっている。
だけど今日は。
僕じゃない僕になりたくて、いつもじゃない日常にあこがれて。反対行きの列車に乗り込んだ。
けれど結局、どこまで行っても日常でしかなかった。当たり前だ。僕は僕自身でしかないのだから。
終点の駅前のベンチに座りながら僕はそう思った。
初夏の日差しが刺さる。快晴すぎるほどの快晴が僕を閉じ込める。
今から戻れば遅刻で済むかもしれない。多少は怒られるかもしれないけど。
だけど僕は今さら学校に戻る気もしなかった。遅刻して怒られるくらいならフケた方がましだ。
僕は天を仰ぐ。結局僕はどこにも行けないのだ。僕のことを知らないこの町にも、通っている学校にも。そう考えると駅のベンチに座っていることが馬鹿らしくなってきた。
その時、唐突に声をかけられた。
「あの・・・すいません。どうかされたのですか」
その声の主は女の子だった。僕と同い年くらいで、おろしたてのように白いワンピースを身にまとい、同じくらい白い全周が大きなつばで装飾された帽子を深くかぶっていた。
ただ特筆すべきは、その白さに負けないほど、肌が深く、深く、透き通るような白さを持っていて。
顔立ちが端麗で、可憐で、そのほほえみには気品が携えられていて。
病的なまでに華奢でか細い四肢を持っていた。
美しいと僕は思った。作り物の人形のような可憐さと、今にも消えて無くなってしまうのではないかというような儚さがアンビバレンスに混ざりあって、彼女をいっとう引き立てているような気がした
「乗る電車を間違えて、気づいたら終点まで来てしまったんです。それでどうしたものか悩んでいたんですよ」
正直に学校に行きたくなくて、ここに来たんです。と行ってしまっても良かった。けれど面倒を起こしたくなかったから嘘をついた。警察に補導されたら一大事だ。
「そうでしたか・・・。今から戻っても間に合いませんよね」
「ええ、そうですね。もうフケてしまおうかと思っているところです」
女は決意を込めたように唇に力を込めて言った。
「だったら、私の彼氏になっていただけませんか」
「え・・・?」
まさしく晴天の霹靂だった。あまりに突然のことで思考がまとまらない。
「もちろん無理にとは言いません。いやだったら辞退していただいても―」
「やります。やらせてください」
こんな美人と付き合えるのなら、断る理由なんてない。
それを聞いた女は笑顔を真夏に咲くひまわりのように輝かせた。
「ありがとうございます。良かった・・・」
白いワンピースのラインを添うようにほっと胸をなでおろした。そうしてそのまま僕の手をつかんだ。
「よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
僕は立ち上がった。すると彼女が歩いて来た方向に病院が見えた。
「あの病院、大きな病院ですね」
「大学病院なんです。何か難しいことがあれば、すべてあそこに運ばれます」
「それはいいですね。僕の住んでる町じゃ、市民病院しかないから。ここなら怪我をしても安心だ」
「そんないいものでもないですよ。それで、その・・・。私、彼氏と行ってみたいところがあるんですけど・・・いいですか?」
彼女は強引に話題を切り替えた。それ以上病院について話したくないみたいだった。
「あなたの行きたいところならどこでも。ただその前に名前を教えてもらってもいいですか?」
「西園 千永です。ちなって呼んでください」
「名前で呼ぶのはなんだか恥ずかしいな」
「ダメですか?」
「ああ、社会通念からしてもまずい気がするんだ」
「どうしてもダメですか?」
千永は上目遣いで懇願してくる。僕は言い淀んだ。
「私、彼氏にに千永って呼ばれることが夢だったんです。小さいころからずっとずっと。ようやくその夢がかないそうなんです」
僕は観念した。
「・・・わかったよ。千永。これでいい?」
千永は顔に満面の笑みを浮かべて
「ありがとうございます」
といった。
日常が、崩れていく音がした。
千永に連れられてきたのはちょっとおしゃれなチェーン系コーヒーショップだ。
朝と昼の中ごろだからだろうか。店内は空いていて、いくつかテーブルも空いていた。
「私、はじめて来ました」
「ほんとに?千永くらいかわいければ、デートとかで何回か来た事あるんじゃない?」
「男の人とお付き合いしたことがないんです」
千永は看板のメニューに目線を移した。そこには何かしらの含みのようなものがあった。
これだけかわいい子をほおっておくなんて、周りの男は何を考えているのだろう。と、僕は思った。
実は猫をかぶっていて本性はひどく性悪だとか、名家の生まれだから親が厳しくて男女交際を禁じられていたとかだろうか。
どのような理由であれ、複雑なことには変わりはない。
やれやれ。僕は思った。とんでもない女を拾ってしまったもんだ。
初めての注文でおどおどしている千永が見てられなくて、手を差し伸べてやった。
「あ、えっと、その・・・」
「すいません、このフラペチーノください。味はイチゴとチョコで。大きさはショートとトールでお願いします」
店員が愛想よくはーいと返事した。
「彼女さんですか?すっごいかわいいですね」
「ええ、今日学校をフケてデートしようって話になったんです」
「えーっ!青春だ!いいなぁ~」
店員は大げさにうらやましがって見せた。
「彼女さん大事にしてあげなよぉ」
「え、ええ。あはは」
僕は適当に調子を合わせて、フラペチーノを受け取った。まさか、さっき駅前で出会ったばかりだとは、店員も夢にも思わないだろう。
千永は僕らのやり取りを聞いて真っ赤になってもじもじしている。
「行こう、千永」
「う、うん」
僕たちは適当な席を見つけて座った。
「あ、あのさっきはありがとう。助けてくれて」
座ってすぐ、千永は頭を下げた。おそらくさっき代わりに注文したことだろう。
「気にしなくてもいいよ。ここの注文システムは独特だからね。初めてだったから混乱しちゃったんだろう」
「う、うん。でもね・・・。かっこよかった、よ。」
千永はいじらしくそういった。かわいすぎて顔が熱くなるのを感じる。
「の、飲もっか。フラペチーノ」
「あ、ああ。そうだな」
千永は僕のチョコ味のフラペチーノより一回り小さい容器に入ったイチゴ味のフラペチーノを飲んだ。
「初めて飲んだけど、甘くておいしいね」
「そうだな。・・・ん?どうした?」
ストローでフラペチーノを飲んでいると、恥ずかしそうに千永が僕のことをちらちら見ていることに気が付いた。
「あ、あのね・・・。チョコも飲んでみたいなって・・・」
千永は僕の持っているチョコ味のフラペチーノを指さした。最後には消え入りそうな程ちいさな声になっていた。
「ん、ああ。それじゃあ・・・」
と、手渡そうとしたときに気が付いた。これって、間接キスじゃないだろうか・・・?
そう思うと、急に渡すのが恥ずかしくなってきた。千永も顔を真っ赤にして俯いている。
「だ、だめかな・・・」
蚊が泣くような声で千永は言った。僕は観念して、容器を千永に手渡した。
「やった!じゃあこれお返し」
千永は僕のチョコ味のフラペチーノを幸せそうに飲んでいる。
僕は受け取ったフラペチーノのストローに口をつけた。
イチゴ味だからだろうか。とんでもなく甘ったるい味がした。
店を出た僕たちはなんだか悶々とした気持ちのまま歩いた。
僕は千永に連れられるままに、どこに行くのかすらわからずにひたすらに歩き続けた。
そのうちに人通りの多いところに出た。道行く人の波で何度か千永を見失いそうになるほどだった。
その時、千永が僕の手をとった。
「はぐれたら大変でしょ」
語気こそ強かったものの、顔は照れで真っ赤に染まっていた。
僕は千永の手を握り返した。千永は何も言わずに、僕のことを引っ張りながらすたすたと歩いていく。
「曇ってさ、綿菓子みたいだよね。食べてみたら甘くておいしそう」
千永は急に止まってつぶやいた。
「そうかもしれないけど、僕たちにはどんなに手を伸ばしても雲には届かないよ。だから食べることもできない」
「いつか雲に手が届いて、綿菓子みたいに食べられる時代が来るといいね」
「そうだな」
「やっと着いた~」
千永がほっと息をついた。連れてこられた先は映画館だった。
「見たい映画があるの」
僕と千永はポップコーンとコーラを買って、映画館の座席についた。電気が落ちて周りが暗くなると千永の顔が一層映えるような気がした。
映画自体は陳腐なラブロマンスで、病弱なヒロインと主人公が恋に落ちて最後にはヒロインが死んでしまう。そんな話だった。
話自体もしっかりとしていて、演出や主題歌もそれを引き立てていた。ラストシーンでは僕も涙を流してしまうほどだった。
映画館を出ると、千永は開口一番にこう言った。
「とりあえずご飯にしよう?感想は食べながら話せばいいし。そこのハンバーガーでいい?」
「いいけど、ハンバーガーでいいの?もっと特別感のあるお店のほうがよくない?」
「私からしてみれば、ハンバーガーも十分に特別な料理なの」
「いやあ。映画、面白かったね」
ハンバーガー屋で注文を終えて、席についたのを見計らって切り出した。
「うん。わざわざ見に来たかいがあったよ」
えへへ、と千永は笑った。千永も僕と同じように映画を面白いと感じたようだ。
「最後のシーン感動したなぁ」
僕がそう言うと、ふっと今日一日ずっと浮かんでいた笑顔が消えた。
僕は何かまずいことでも言ったかなと思った。でも思い当たる節は一つもなかった。取り繕おうにも言葉が浮かんでこなかった。
重い空気が支配する中、千永は口を開いた。
「最後のシーン、どう思う?」
「どう思うって・・・。主人公が毎年墓参りにくるっていうシーンだろ?僕は感動したけど」
「私ね、あのシーンを見て思ったんだ。ヒロインはただ、主人公の邪魔をしているだけじゃないかって」
「邪魔?」
僕は聞き返した。
「主人公は自分の人生を生きて、恋愛をして、幸せな家庭を築くべきなのに。主人公は一生忘れないわけじゃない。忘れられないの。これから人生の様々な場所で得られるはずだった幸せを、ヒロインとの記憶が邪魔をするの。それは最早ただの呪いにすぎないでしょ」
ここまで物腰ががやわらかかった千永とは思えないほど、確固たる口調だった。
その時急にピピピと音が鳴った。ハンバーガーの調理が終わった合図だ。
「とってくるから」
千永はそれだけ言い残して席を立った。僕は一緒に行こうかと思ったが、やめておいた。
どうやら千永が抱えているものは僕が考えているより大きいようだ。
どうしたものか、と僕は考える。僕はスーパーヒーローではないし、漫画の主人公でもない。彼女の悩みを解決してハッピーエンドというわけにも行かないだろう。
「はい、とってきたよ。さっきはごめんね。あんなことを言うつもりじゃなかったんだけど」
千永はぺこりと申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいんだよ別に。人は多かれ少なかれ、悩みを持っているものだし」
「私約束する。あなたにすべてを話すって。だからその時までは、何も聞かないで。楽しい私の彼氏でいて」
千永は上目遣いで僕のことを見ている。それは懇願するような切実なものだった。
「わかったよ。そんなことより、ハンバーガー食べないと冷めちゃうよ」
「うん」
千永はいつも通りの笑顔を取り戻した。今はただそれだけで良いような気がした。
「あ、ほっぺにケチャップついてるよ」
「え、どこ」
「私がとってあげるよ」
そういって千永は僕の頭を抱き寄せて、僕の頬にキスをした。
「~っ!?」
「えへへ、さっきのお詫び。これで許してくれるかな」
「許さない」
僕はちょっと意地悪を言ってみることにした。
千永はまさかそんなことを言われるとはおもわなかったのだろう。きょとんとした顔をしている。
「・・・唇にしてくれないと、許さない」
恥ずかしがって目を合わせられない僕を尻目に千永はにぃっと笑った。
「・・・んっ」
僕の唇に千永の唇が触れる。初めてのキスはケチャップの味がした。
「ふふふ、大胆だね。意外と」
「恥ずかしいからやめろよ」
「私はうれしかったけどね。まさかあなたのほうから求められるとは思ってなかったから」
僕は恥ずかしくなって千永の顔をまっすぐ見れなかった。
「ん・・・ごほっごほっ」
「おい、大丈夫か」
「そっか、もうそんな時間か・・・。私ね、喘息もちなの。薬が切れてきちゃって。これから咳がひどくなるかもしれないけど許してね」
「薬飲まなくていいのか?忘れてきたんだったら一回家に戻ってもいいぞ」
「ありがとう。でも大丈夫。何とかなるよ」
千永は笑顔を浮かべた。それは誰が見ても悲痛な笑顔だった。
「それに、もう戻っても遅いよ」
僕はその言葉の意味を聞かなかった。千永はすべて話すと言ってくれたんだ。こっちから何かを聞くのは野暮に思えた。
「ゴホッゴホッ・・・ごめんね。次の場所にいこっか」
「大丈夫なのか、移動しても」
「歩くくらいなら何とかなるよ」
千永はどうしても歩きたがったけど、僕が強引にバスの移動にした。バスの中でも咳は止まらなくて、むしろだんだん回数が多くなっていくようだった。
僕は千永が咳をするたびに背中をさすってやった。咳をしていないときはできるだけ明るい話題を振った。
千永はそのたびにごめんね、ごめんねと言って謝った。僕は痛々しすぎて見ていられなかった。
バスを降りると、そこは水族館だった。千永がどうしても行きたい場所だったらしい。
チケットを買って、中へ入った。水族館特有の薄暗い照明が、独特の雰囲気を醸し出している。
「肩貸さなくて大丈夫か?」
「そこまでひどくないよ。ちょっと咳が出るだけだから」
僕たちはどちらからでもなく手をつないだ。離れないか心配で手に力がこもる。
「あはは、痛いよ」
「あ、ごめん」
手の力を抜く。
僕たちの眼前に大きな水槽が現れた。中ではエイやマンボウやその他小魚が泳いでいる。
「綺麗だね」
千永は笑顔を浮かべていった。それは作り物の仮面のような笑顔だ。
「この子たちも同じなんだね。この小さな部屋から出られないんだ」
小さく、おそらく僕に聞こえないようにそうつぶやいた。笑顔は消えて何か遠いものを見るような目をしている。
僕は悲しい気持ちになった。結局僕は彼女のことを何も知らないのだ。その事実が僕の心に鋭く突き刺さる。
「ねえ、あれ見に行こうよ!」
笑顔を付けなおした千永が言った。僕はうんと頷くことしかできなかった。
そのあとも水槽を見て回った。そこにはクラゲがいて、ジンベイザメがいて、イルカがいた。千永はその間笑顔を崩すことはなかった。僕はすべてが上滑りしているような気がした。
それは出口の手前だった。唐突に千永が倒れたのだ。僕は千永を抱きかかえた。
「おい大丈夫か!?やっぱり、無理してたんじゃないか・・・!」
額に手を当てる。とんでもない高熱だ。
「救急車呼んで、病院に―」
「やめて・・・大丈夫だから・・・」
千永は僕の頬に手を当てて言った。
「大丈夫つったってお前・・・」
「海が、見たいな・・・」
僕は千永に肩を貸して、タクシーまで歩いた。千永はそれすらやっとといった感じだった。
「すいません、近くの海までお願いします」
タクシーの中では千永の咳も止まった。良くなったわけじゃない。咳をするだけの体力が残っていないのだ。
千永は僕の足に頭を乗せて、はぁ、はぁと苦しそうに息をした。僕が話しかけると苦しそうに返事するので、僕は声をかけるのすらやめて、ただ頭をなでていた。
タクシーを自販機の近くで止めて僕は千永を抱きかかえて降りた。
自販機で水を買って、千永に飲ませるとだいぶ楽になったようで、笑顔を見せるようになった。
海の上には夕日が登っている。千永は恨めしそうにそれを見ていた。
「私ね、海に初めて来たの。波打ち際ではしゃげたらどれだけいいだろうってずっと思ってた」
「きゃっ!?」
僕は千永を抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこだ。
「よぉしいくぞー!」
僕はそのまま、波打ち際をバシャバシャと駆けた。千永も悲鳴を上げながら楽しんでいる。でもそのうちにすんと笑顔が消えた。
「・・・座ろうか」
僕らは海岸線にそって設置されている股下程の大きさのコンクリートに腰をおろした。千永はそのままだと倒れそうなので、僕が肩を抱いて、支えてやった。
千永はポケットから携帯を取り出して、ポチポチといじっていた。それが終わると、口を開き始めた。
「私ね、病気なの。現代の医学じゃ治すことのできない難病。それを知らされたのは5歳の時。今は治せないかもしれないけどそのうち治せるようになるかもしれないって言われて、だからずっと病院にいようって言われた。だから私も一回も病院の外に出たことがなかったの。学校だって通ったことがないし、お店だって行ったことがない。ましてや恋愛なんてできるはずがなかった。
ずっといい子にしてたの。ずっと病院の中にいて、副作用が苦しいお薬もちゃんと飲んで・・・。あの時には頭の髪の毛が全部抜けちゃったの。だから私は今帽子をしてる。あなたにだけは見せたくないから。」
千永は帽子を深くかぶりなおした。
自由も楽しみもなかった。治るはずもない病気を抱えて、一分一秒でも長く生きるために苦しんで・・・。でもね、もうだめなの。何をやってもあとひと月しか生きれないって。しかもそのひと月は人事不省になっちゃうんだって。薬が強すぎて意識を保ってられないの。寝たきりのまま、ろうそくのように命をすり減らすことしかできない。そんなこといやだった。せめて最後くらい人並みに生きて、恋をしてみたかった。
本当は今日から、その薬の投与が始まるはずだった。でもね、抜け出してきちゃったの。そうして、あの駅前であなたに出会った。
ほんとのことを言うとね、だれでも良かったのよ。男の人と出かけて、恋人っぽいことをして。それだけでよかったの。どんなことになってもいいと思ってたの。自棄だったのね。
でも、今なら言える。あなたで良かったって。あなたじゃなきゃダメだったって。人生の最後に隣にいる人が、あなたで本当に良かった。」
千永は弱々しく笑顔を浮かべた。でもそれは交じりっ気のない、本物の笑顔だった。
「でもね、だからこそ思うの。あなたのことが大好きだからこそ、申し訳ないって。私はあなたに迷惑をかけた。そうしてこれからもかけ続けることになるの。」
僕は首を振った。
「いいのよ。気を使わなくても。私ね、薬がないと一日もたたずに死んでしまうの。半日くらいはなんでもないんだけど、咳が出て、その次に高熱が出て、一番最後は何もないの。何もないままにゆっくりと心臓が止まっていって死に至る。・・・でもね、さんざん苦しめられたこの病気で良かったって私思ってるの。だって、あなたと最後にこうやってお話できるんだもの。」
「ねぇ、お願い・・・キスして。」
僕は言われるがままにキスをした。唇が触れてすぐに千永は僕を引きはがした。
「はい、これでおしまい。ありがとうね。私のわがままを聞いてくれて。これ以上はダメなの。私はあなたの邪魔をしたくない。あなたに覚えていてほしくないの。だからこれだけ。」
「そして本当に最後のお願い・・・私を忘れて」
千永はそれだけ言って、僕の胸に顔をうずめた。涙が胸を生暖かく濡らした。
僕は胸中の千永を抱き起こして、キスをした。
「―んっ!?んっ、はぁ、ん・・・。」
「ねぇ、千永。僕はもう無理なんだよ。君のことなんて忘れられるはずなんてないんだ。今日、いつもと反対の電車に乗って、君と出会った時点で、不可逆的に君のことが僕に刻まれてしまったんだ。
でもね、僕はこれだけは言える。君がいなくても幸せに生きて見せる。あの世で君に胸を張って報告できるように生きて見せる。だからそうやって、自分の気持ちに嘘をつかないでほしんだ。
君の最後の顔がそんなに悲しそうだといやだよ・・・」
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
僕らはキスをした。最後のキスは涙の味だった。
千永は泣き止んで、僕の肩に頭を乗せていた。
「見て、一番星。あれはきっと北極星ね」
太陽に霞消されるように星がひとつ浮かんでいた。
「私たち、もっと別の形で出会えば良かったのよ。あなたと私は学生で、一緒にクラス委員をやるの。時には喧嘩したり、泣いたりして、恋に落ちていくの」
「そうだったら、どんなに良かっただろね」
「それでね、卒業した後に一緒に二人暮らしを始めるの。一緒に大学に通って、帰ってきたら夜から朝まで愛し合って、それから―」
そこで言葉が途切れた。その言葉はいつまでもちぎった雲みたいに宙に浮いていた。
まさしく、水滴が落ちるような死だった。そこには音も精神も区切りもなかった。僕は何も言わず、ただ落ちていく夕日を眺めていた。
気づいたら、あたりは真っ暗になっていた。あれほど存在感のなかった北極星も、煌煌と輝いている。僕は千永の頬に触れた。
そこにあるのはただの冷たさだけだった。
僕は携帯を取り出して、1、1、0と打ち込んだ。
「すいません、人を殺したのですが」
結論から話すと僕が何かの罪に問われることはできなかった。重病を抱えた患者が逃げ出して、薬が切れて死んだだけ。事件性も何もないし、なんの法律にも引っかかってはいない。
むしろ警察署では、しきりに千永の母親に感謝された。土下座までするものだから、逆にこっちが申し訳なくなるくらいだった。
なぜそこまで僕に感謝するんですか、と聞いてみると一通のメールを差し出された。それは千永から送られたものだった。
お母さんへ。
今、私すっごい幸せです。今まで生きてて、いいことなんて一つもないと思ってたけど、死ぬときに彼が隣にいてくれる。それだけで、私は初めて生きてきた甲斐があったなって思えた。
今まで私を育ててくれて、ありがとう。彼によろしく言っといてください。彼との時間がもったいないからこの辺でごめんね。バイバイ。
お母さんの好意で葬式にも参列させてもらえることになった。棺に入った千永の体を見て、本当に死んでしまったんだなって思って、涙が止まらなかった。
一週間くらいしてから、学校にも通うようにした。ことの顛末を話すと、学校の中でちょっとした話題になったが、ひと月もすれば皆忘れた。
「ねぇ、一緒に帰らない?」
「え、いいけど・・・」
下駄箱の前でやったとガッツポーズをするのは同じ図書委員会の波留さんだ。ここのところちょくちょく話しかけて来るようになった。
外に出ると波留が手をつないできた。
「ちょっと」
「だって、君迷子になりそうだし」
そういって波留はにひひと笑う。
「やれやれ」
「ところで・・・さ、大学どこ行くんだっけ」
急にしおらしくなった波留が聞く。僕は某大学の名前を答えた。
「やった!一緒のところだね!」
波留はぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
僕は空を見上げた。青空の雲と雲の狭間に北極星が見える。
雲は僕の手につかめそうなほど、すぐ近くにあった。




