第九章(8/11)
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魔術師は夜目が利く。
正確に言えば、精霊たちを見る視界は、明るかろうと暗かろうとさほど変化はない。光のない場所では暗く流れる川の存在を見ることはできないが、水の気と風の気があり、その向こうに土の気があれば、川でも流れているのだろうと考えることができる。
何にせよ星の薄らあかりだけで夜道を歩いたところで、川や崖を落ちることはないし、壁にぶつかることもないのだ。
だが、ソルを先導するのは魔術師ではないアレイスだった。彼は足元も見えない暗闇を、まるで感じさせない足取りで進む。よほど夜目が利くのか、地理を把握しているのかは知らないが、ここを歩くのは初めてというわけではないだろう。
ふと、彼は足を止めた。彼の進む道の先には川がある。流れる水の気や水の民の存在でもそれがわかるが、そうでなくとも耳にはうるさいほどの水の流れが聴こえている。
その向こうはどうやら建物があるようだった。そこから漏れた明かりが、地面をわずかに照らしているのが見える。
「向こう岸に渡れないか」
さらりと言われた言葉に、ソルは意味が分からず首を傾げる。
「どうやって?」
「おまえの魔術で」
「……正気か?」
「別に寝ぼけてはねえよ」
あっさり言われて、ソルは顔を顰める。
風の民を使って体を浮かせられないことはない。子供の頃などはよく一人でどこまで飛べるかと遊んでいたものだ。が、風の民を完全に制御するのは難しく、想定よりも飛べない、もしくは浮かびすぎることも多い。着地に失敗して落ちて怪我をしたことも片手では足りないほどにあるのだ。
「まあ、都合よく風の民がいるかいないかなど俺には分からねえからな。無理なら別の道もある。が、可能ならここから行きたい」
「よくも人の魔術を信用できるもんだな。俺なら他人の魔術になど死んでも乗りたくない。——言っとくが、あんたが川に頭からつっこむ確率が何割か、風の民を制御できずにあんたが吹っ飛ばされる確率が何分かあるぞ」
ソルの言葉に、アレイスが笑う声がする。
「確率なんて意味あるか? 一度しかやらないんだから、渡れれば十割だし、渡れなければゼロだ」
「なんだそれ」
「どうせお前の答えも、やるか、やらないかの二択しかないんだ。さっさと決めろ」
彼の言葉に、ため息をつく。
「やってもいいが、失敗しても本気で知らねえぜ?」
「信用してる」
短く言われた言葉に眉根を寄せる。そうプレッシャーをかけられても困る。ソルは上空からこちらを見下ろしている白い狼——風の民の赤い眼を覗きながら、アレイスに声をかける。
「対岸は土か?」
「なんだそりゃ」
「あっちに土の民が見える。そこまで飛べばいいのか?」
「そんなこと言われても分かるわけねえだろ。川幅は三十フィートってとこだろうな。その向こうは開けてるから、多少は行きすぎても大丈夫だ」
「よくわからんが、分かった」
白い狼は、ソルを見ていた。ふと、自分がやつの目から、自分を見下ろしているかのような感覚になる。自分の周りに風の気がまとわりつくように集まってきた。自身の足元から、対岸の土の民の足元まで、弧を描くようなイメージをする。何フィートと言われても、全くピンとは来ないのだ。自分の周りと、それからアレイスの周りに十分な風の気が満ちるのを待つ。
「言っとくが、ここの川は深いし流れが速いから気をつけろよ」
そうかよ、と吐き捨てる。
「風の民、飛べ!」
体を突き上げるほどの風に、一気に宙を舞う。暗闇で深い川が見えないのは幸か不幸か。自身の体にかかる風圧となんとも言えない浮遊感に耐えながら、ソルは白い狼の目で自分たちの姿を見る。息を詰めるようにして風を操り、イメージ通りの軌跡で自分たちを対岸の土手に放った。
急に足に地面がかかり、ソルは耐えられずに転んだ。だが、手のひらを擦りむいた程度で、怪我というほどのものではない。
ソルは慌ててアレイスの姿を探した。こちらの土手に放るところまでは姿を追えていたから、失敗してはいないだろうが、はたしてちゃんと無事だろうか——と。
そう考える間もなく、隣から手を差し出された。
「大丈夫か?」
初めて魔術で放り投げられたにもかかわらず、あっさり着地も成功していたらしい彼の姿に、ソルは呆れと安堵のため息をついた。




