第九章(2/11)
レイナはふたたび馬車に乗せられると、引きずられるようにして別の町へと連れて行かれ、そのままヘイスベルトの部屋まで運ばれた。彼はレイナを床に座らせると、ふらりと姿を消す。部屋に一人で残され、逃げるなら今しかないという思いはあったが、ずっしりと体が重く、到底そんな気にはなれなかった。
彼の部屋は広い。レイナが置かれているのは大きなソファと机がある一角で、その奥には大きな寝台が置かれている部屋が見える。広い、と言っても王都にいた時にレイナがいた部屋と同じくらいではある。だが、アレイスのところでずっと使用している部屋が机とベッドしか入らない小さいものだったから、今はめまいがするほど大きく感じた。
いったい、これからどうなるのだろう。
レイナは立ち上がる気も起きず、痛む頭をそのまま床につけた。
無防備な姿勢であるとわかってはいるが、どうせ武器もなければ、戦う体力や気力もない。今さら、どうすることもできないのだ。考えなければならないことはたくさんある気がしたが、それすら億劫だった。レイナはぼうっと、部屋の主の帰りを待つ。
「大丈夫かい?」
いつの間に戻ってきたのだろう。
気づけば目の前に黒い瞳があって、レイナは瞬きだけを返した。ヘイスベルトは何を思ったか、レイナの前髪の中に手を入れて、瞳を覗き込んでくる。すぐ目の前にある男がレイナの名前を呼んだが、レイナの心は動かなかった。彼が小さな短刀を取り出すのが見えて、そこで少し眉を寄せる。
「悪いけど、何か喋ってもらえないかな。ルドが後遺症が残るような下手な真似をするとは思わないけど、万が一ということもある」
怪我をして痛む腕を持ち上げられ、レイナは痛いと口にした。ヘイスベルトはそれに視線だけを動かしてから、止血していた布を外し、持っていた短刀で袖を切り落とす。
「声が出せるなら良かった。だけど、なんだか辛そうだね。昼間も本調子じゃなさそうだったし、体調に問題でもあるかい?」
彼はそう言ってから、レイナの血に汚れた腕にぬるま湯をかける。痛みにレイナが息を詰めていると、彼はそれを軽く拭いてから傷口を消毒し、なれた手つきで包帯を巻いた。そして血が固まってしまった腕も、濡れたタオルで丁寧に拭ってくれる。何度もお湯を含ませたタオルを指先に当て、爪についた血の赤まで綺麗に落としていく彼を見ていると、レイナの意識がだんだんと覚醒してきた。いつの間に用意されていたのか、近くに置かれたお湯の桶が血の色に赤く染まっているのが見える。
「……斬りつけられた相手が、体調に問題がないと言うとでも思ってるの?」
レイナは彼を見上げる。声を出すと喉がひどく痛んだが、なんとかかすれずに声が出たことに安堵した。
ヘイスベルトはそんなレイナを見下ろして、口元を笑いの形にする。瞳は相変わらず笑っているようには見えないが、それでもどこか楽しそうな色は見える。
「そんなことを口にできるなら、とりあえずは正気のようだね。動けるのなら、服を着替えれば良い。そんな格好で寝たくはないだろう」
「どういうつもり?」
「何が?」
彼はそう言って首を傾げた。
街で襲われた時も、馬車の中でも、彼はレイナをモノのように扱っていたし、ろくに手当てをする様子もなかった。適当に布を巻いただけで、血と泥に塗れたまま引き摺るようにしてここまで連れてこられたのだ。それと比べると、今の彼の手つきは優しく丁寧で、本当にこちらの体調を心配しているようにすら見える。
「私をどうするつもりなの?」
レイナがそう言うと、彼は床に座ったまま片膝を抱えるようにした。レイナの顔をじっと見下ろしてから、感情の読めない顔で口を開く。
「何を今さらと言われるかもしれないが、個人的には客として丁重に扱いたいとは思ってるんだ」
思いがけない言葉に、レイナは唸るような声を出す。
「……確かに何を今さら、と言いたくはなるわね」
「そうだろうね」
ヘイスベルトはそう言って笑った。
彼は血の色に染まったタオルや切り捨てた袖をまとめて桶に入れると、代わりにたたまれている服をレイナの見えるところに置いた。
「一人で着替えられないなら、俺が手伝おうか。着せるのはやったことはないが、脱がせるのは苦手じゃない」
彼の言葉に、レイナは思いきり顔を顰めた。彼の言う丁重とは、そうした意図も含まれているのかと考えたからだったが、レイナが何かを言う前にヘイスベルトが口を開いた。
「冗談だよ。——そんな顔をしなくても、少なくともレイナにそういう意味で手を出すつもりはない。君がアレイスのお気に入りなら、彼を怒らせたくはないからね」
またしても思いがけない言葉がかけられ、レイナは訳がわからなくなる。
実際のところ、レイナに手を出したところでアレイスが怒るどうかはレイナにだって分からない。だが、少なくともヘイスベルトが、アレイスが本気でレイナを匿っていると思っているのなら、レイナを拐った時点で彼を怒らせていると考えるのが普通ではないのか、と思うのだ。




