第九章 そして泡沫の夢をみる(1/11)
ヘイスベルトは何も言わなかったが、レイナには一目でそれがルドという男であるということがわかった。ヘイスベルトと同じ深い黒色の髪、鋭い黒の瞳。近くにいて圧倒される雰囲気というのも、ヘイスベルトの持つものに近しい。だが、年齢を重ねている分だけ威厳や貫禄といったものが加わり、彼よりもさらに近寄りがたさを感じた。
レイナは寒気を覚えて自身の左腕を抱く。破れた袖が血を吸って固まっているのがわかる。簡単な止血だけをされた傷が、じわりと痛んだ。
「レイナといったか」
低い良く通る声。ルドは奥の椅子に座ったまま、口を開いた。さほど広くはない部屋ではあるが、赤い豪華な椅子に立派な装飾の施された机。まるで国王の執務室だ。
「おとなしく付いてきたわけではないようだな」
レイナの全身を見て、彼は少しだけ目を眇めた。
服には自身の血や土や砂がこびりついているし、腕に巻かれた布からも赤い血が滲む。一つに結んでいたはずの髪は、いつのまにか肩に落ちて流れていた。クルーたちにもらった髪紐は無くしてしまったのだろうか——それを考えると、そんな場合ではないのかもしれないが気が沈んだ。
「サムたちはそれぞれ負傷。命に関わる怪我ではないですが、関節をやられてる。もう使い物にはならないかもしれませんね」
「なるほど。見た目によらず腕が立つな」
ヘイスベルトの言葉を聞いて、ルドは机に肘をついた。彼の視線はレイナを通り過ぎて、自身の子であるヘイスベルトへと向かう。
「——で? まさか、お前にしか太刀打ちできない相手だったとでも言うつもりか? この件はダーフィットに任せたはずだがな」
「そうみたいですね。ダーフィットにも手出しをするなと、さんざん文句を言われましたよ」
ヘイスベルトの言葉に、ルドはすっと目を細めた。
「狙いは何だ?」
「彼女のことは俺に任せてもらえませんか? あなたの知りたい情報は、ちゃんと聞き出せるようにしますよ」
言葉とともに、ヘイスベルトの指がレイナの髪にかかった。遊ぶように指を絡める彼の仕草に、レイナは背筋が凍りついたように動けなくなる。
「気に入らないな」
ルドはそういうと、椅子から立ち上がった。
すっとこちらに歩いてきた彼に恐怖を感じ、レイナは咄嗟に歩を後ろに引く。だが、すぐそばに立っていたヘイスベルトにぶつかった。両者に挟まれる形になり、身動きが取れない。
「——レイナ。知ってはいると思うが、我々は王都を潰すつもりで動いている。おとなしく協力してくれる気はあるだろうか」
彼もヘイスベルトと同じで、長身の部類ではない。にも関わらず、高くから見下ろされているような気分に、レイナは唾を飲む。
「協力……?」
「一つは君のかつての友人のステフェン君のことだ。彼は少しばかり厄介だな」
厄介、という言葉の意図は分からなかったが、ステフェンの名が出されては協力などできるはずもない。レイナが無言でルドを見上げると、急に大きな手が伸びてきた。
レイナの喉に指がかかり、なすすべもなく締め上げられる。
「な——」
その手を振り払おうとレイナは両手でもがくが、全くビクともしない。苦しさと喉の痛み、それから傷を負った腕を動かしたことによる痛みが後から襲ってきた。目の前が暗くなるが、痛みからも苦しみからも逃れられない。そんな中で、男の声は嫌でも耳に入ってくる。
「死にたくなければ、右手を上げればいい。——もしくは、死にたくなったら右手を上げてもいい。このまま苦しみ続けたいのであれば、いつまででも付き合おう」
わずかに腕の力が弱まり、レイナは喘ぐように息を吸った。そのまま締め落とすのも絞め殺すのも簡単なのだ。が、相手はわざとレイナに意識をもたせたまま苦しめている。彼がゆっくりと力を入れると、また呼吸が止められる。
レイナはぎりぎりの意識の中で、声にならない叫びを出す。
何を、何をどうすれば良いのか、どうすればこの苦しみから逃れられるのか、と頭の中でガンガンと悲鳴のような訴えが巡るが、それでも彼のいう右手を上げるという選択肢は浮かばない。
長すぎるほどに長い時間だったが、実際には、ほんの一瞬だっただろう。ふと、全ての圧力が失せ、どっと空気が喉を通った。レイナはその場に座り込み、ぜいぜいと息を吸う。涙なのか汗なのか、床にぽとぽとと水滴が落ちる。
「右手を怪我をしているようには見えないがな」
どこか笑いを含んだようにさえ聞こえる声が、頭上からする。
「彼女に協力させるのはなかなか骨だと思いますけどね。ラウレンスも一緒だったでしょう。王都では対拷問の訓練でもやってるんじゃないですか」
「聞いたことはないな」
レイナが顔を上げると、いつのまにかルドは椅子に戻っていた。
「まあいい。そんなにその女が欲しいのなら、お前に預けよう。好きにしても良いが、絶対に逃すなよ」




